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2006.04.19

徳川家康と知多半島(その14:常滑の総心尼)

本能寺の変の後、三河に生還した徳川家康は、織田信雄とともに、小牧長久手の戦いで、明智光秀を討伐した豊臣秀吉と対決する。そして家康は豊臣秀吉の天下を受け入れ、長い我慢の時を過ごした後に江戸幕府を開くことになる。

本能寺の変で明智光秀に味方したために、水野監物が城主の座を追われた常滑城は、織田信雄の配下となり、信雄の家老で星崎城主である岡田重孝の家臣が守っていた。しかし、岡田重孝が信雄に斬られた後、岡田の手のものが叛乱を起こした。ちなみに、信雄が岡田重孝を斬った刀は「岡田切」と呼ばれ、現在国宝に指定されている銘吉房の名刀である。

Tuba2_1 

この叛乱を鎮圧したのは、家康の家臣となっていた水野忠重、勝成親子であった。家康はこの緒川・常滑水野氏一統を自分の家臣団として温存し、彼らは小牧長久手の戦いに参戦している。水野監物の子新七も同様であったが、戦死した。

常滑水野氏の三代城主であった水野監物守隆は、織田信長配下で数々の武功をたて、伊勢長嶋の合戦では水軍を率い軍船安宅船を使った戦いを展開したりしたが、和歌や茶道など風雅の道にも通じた教養人でもあった。その点、明智光秀とも共通するところがある。その水野監物守隆が、なぜ本能寺の変で明智方についたのかは不明である。その時、監物も京にいたらしいから、光秀やその周辺にいた公家、文化人との親交によって、判断を誤ったのかもしれない。水野監物は、本能寺の変後は、京で閑居して亡くなっている。一方、水野監物の妻は、緒川水野氏の忠政、または信元の娘というが、年代からみて信元の娘といわれており、信元の娘であれば於大の方の姪、家康のいとこにあたる。本能寺の変後、水野監物が京で閑居してからは、監物の妻は常滑に残り、城下の庵で家康から二十人扶持を貰って生活していた。これも、家康ならではの温情によるものであろう。

しかし、新七が小牧長久手の戦いで討死、さらに監物が慶長3年(1598)に亡くなると、監物の妻は出家して尼となり、総心と号した。総心尼は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時(その妻は水野忠政の娘で於大の方の妹)の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい、またその妻は水野監物室総心尼の妹)の子、つまり総心尼の甥を養子として迎え、その子は水野新七郎保雅と名乗った*。総心尼自身は熱田須賀町に移住し、「常滑殿」と呼ばれていたが、元和4年(1618)8月26日に熱田でなくなった。*2006.04.20修正
総心尼は生前寺を創建することを望んでおり、その願いは家康の子で、尾張徳川家の始祖となった徳川義直によって叶えられた。すなわち、元和元年(1615)、常滑の総心尼が住んでいた場所に、総心尼を開基とした禅寺を創建、天外和尚を招いて開山とさせた。それが平田山総心寺である。これは常滑の「前田」あたりの町中にあったようである。その後地震で壊れた総心寺は、宝永5年(1708)4月「社辺」(こそべ)に移され、山号も万年山と変わっているが、総心尼を始め、その子孫の墓が残されている。なお、この寺は、常滑焼の窯とも関係していた。

<現在の総心寺の入口~西側に窯がある>

Sousinji

<総心寺の門>

Sousinteramon

徳川義直は、総心尼の死後、総心尼が念願していたように、元和7年(1621)、水野新七郎保雅を尾張徳川家の家臣に取り立て、寛永16年(1639)、総心寺には御黒印寺領十一石を与えた。
総心尼の養子水野新七郎保雅の家系は、連綿として続き、保雅から4代目八郎右衛門明雅、5代目新七雅禮の父子は、延享4年(1747)7月に総心尼の墓を再建している。その墓碑銘は以下の通りである。

<五輪塔形式の総心尼の墓>

Soushinhaka

(正面)
元和四戌午

向陽院花影總心大姉

八月廿六日

(右側面から裏面)
總心大姉者水野右衛門大夫源忠政之女水野監物源直盛之妻而直盛則尾陽知多郡常滑之城主也
其墓碣散亡而不全明雅雅禮恐先瘞之不明於後来補其不足以接続之万年山總心寺五世不説和尚現住之時也

延享四年丁卯七月

直盛四世裔 水野八郎右衛門
直盛五世裔 水野新七

(書き下し文)
「總心大姉は水野右衛門大夫源忠政の娘にして、水野監物源直盛の妻、直盛はすなわち尾張国知多郡常滑の城主なり。
その墓碣(*注:墓碑のこと)、散り亡せて全からず、明雅、雅禮、先瘞の不明を恐れ、後に来たりてその足らざるを補い、以てこれを接続す。
万年山總心寺五世、不説和尚現住の時なり。」

<墓碑裏面>

Bomei

総心尼の墓碑以外にも、水野一族の墓が、総心尼の墓碑を中心に集められて、墓地の一隅にあり、花が供えられていた。総心尼の願いは家康とその子義直によって叶えられ、家名は存続し、代々の子孫も残ったのである。

<常滑の海>

Tokonameumi

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コメント

 その後、ご無沙汰しております。ようやく暖かくなってお出かけ日和が多くなりそうですね。
 總心寺の記事を投稿されましたので、また懲りずに「TB」させていただきました。 墓所の背面に陰刻があったことに思いが至らず、写真も撮りませんでした。このようにハッキリと彫られていたのですね。とても参考なりました。ありがとうございました。(^^)

 追而 先月小生のブログに掲載している写真が「無断転載」されていることが判り、現在抗議中ですが、未だに回答を得ていません。
それで、貴ブログに倣って「転載お断り」の文言をブログトップに加えました。なんだかいやな世の中ですね。(;_;)

 猶猶 半田・武豊の採訪は、連休明けにしたいと思っています。(^^)

投稿: ∞ヘロン | 2006.04.19 11:19

総心寺は、比較的最近まわったとはいえ、記事にするのが遅くなりました。年があけてから2,3月は何かと忙しく、自分のブログにコメントがあるのも長いこと気付かぬ始末で、その間大野の人からもコメントを貰っていましたが、常滑と大野について、もう少し調べたことを書き出さねばと思った次第。
実は総心寺は常滑焼の歴史のなかでも、八世青洲和尚が自ら作陶を行うなどして茶陶としての発達に寄与したということで、徳川の歴史というより別の観点で興味がありました。
本能寺の変後、家康が伊勢の白子から知多半島に上陸した際にあがったのが常滑でなく、大野とする説も根強く、「三河物語」にも明記されています。その辺りについても、もう少し調べてみようと思っております。

また5月連休あけであれば、当方もあいていますので半田辺りならアテンドできると思います。

投稿: mori_chan | 2006.04.19 23:27

わたしも、5月連休明けに、ぜひお会いしたいと思っています。採訪予定地は下記の通りです。このほか時間がありましたら、例の刈谷古城にも行ってみたいです。でも第一の目的は、ゆっくりお話しすることです。(^^)

 日時は、mori_chanさんのご都合に合わさせていただきますので、日時と場所のご指定をメールでお知らせいただけたら嬉しく思います。

飯森城
  愛知県半田市飯森町121
亀崎城

岩滑城
    愛知県半田市岩滑中町7丁目              

成岩城
   愛知県半田市有楽町7丁目

投稿: ∞ヘロン | 2006.04.22 18:24

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» C-6 >萬年山 總心寺 [∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」]
当山の由来に拠れば、元和二年(1616)に開創されたと伝えられ曹洞宗萬年山總心寺と称し、当初は現在の常滑市瀬木町四丁目(常滑東小学校辺り)に在ったと云われるが、近世(年代不詳)になって、当地社辺(こそべ)に移築され、その後当山十六世雪禅代に現在の堂宇が中興された。 [続きを読む]

受信: 2006.04.19 11:05

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