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2006.05.23

「ニイタカヤマノボレ」 海軍無線塔と船橋

現在、船橋市の行田団地や税務大学校の東京研修所などが建ち並ぶ行田という地区は、地図でみると、直径800mの円形の道路があり、その中に団地や公園、商店などがあるのが分かる。地図といっても、大正6年(1917)の帝国陸地測量部作成の地図にも、そう書かれている。そして、円形の道路の中央に、船橋海軍無線電信所と記されている。

<昔の地図に書かれた船橋海軍無線電信所>

Musentouchizu

つまり、ここは、元は海軍の無線塔があった場所である。昭和46年(1971)までは、その場所にはそのままの形で無線塔があり、その塔を遠くからではあるが見たことがある。

その行田の円形道路の内側には、かつて海軍省所管の通信施設、船橋無線電信所があった。これには、高い技術を誇るドイツのテレフンケン社の送信機が採用された。大正2年(1913)10月に着工、ドイツ人技師の指導の下で工事が行われ、大正4年(1915)に完成したもので、その当時「東洋一」の規模と称された。この工事の途中、第一次大戦が勃発し、日本はドイツと敵味方の関係になる。

<船橋市習志野霊園(陸軍墓地)にあるドイツ兵捕虜の墓>

Doitsuhaka

大正3年(1914)6月に対独宣戦布告が発せられるや、ドイツ人技師は図面を焼いて帰国してしまい、後は残された日本技術陣で何とかするしかなかった。難航の末、ようやく無線電信所は、大正4年(1915)4月に完成する。当初は、中央に上下平行で高さ200mの主塔、周囲に高さ60mの副塔16基が取り囲む形で、主塔は半自立型であった。半自立とは、主塔から数本、副塔方向手前の地上に鋼鉄線を張り、副塔へは電信線が延び、支線と電信線にかかる力の均衡をとるために、支線台と副塔は主塔から等距離でなくてはならない。

<行田の海軍無線塔址>

Gyoudamusentou

結果、その周囲は円形となり、現在も残る円形道路が残った。大正5年(1916)11月16日、ここ船橋とサンフランシスコ間で、アメリカのウイルソン大統領と大正天皇が祝電をとりかわしたが、その発信元は船橋無線電信所で、ハワイを中継したものであった。このように無線電信が行われ、その発信元が船橋であると知られるようになると、船橋の名は世界的に有名になった。

昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が軍部の陰謀によって起こされ、日中戦争の火ぶたが切られて軍国色が強まるが、それに前後する昭和12年(1937)5月、この無線電信所は「東京海軍無線隊船橋分遣隊」と改称され、それまでの半自立型から自立鉄塔とする大改造が始まった。それによって、182mの大鉄塔6基、数基の中型小型鉄塔が建ち並ぶことになった。
昭和16年(1941)10月東條内閣が成立、11月5日の御前会議にて、12月1日までに対米交渉不成立の場合、武力発動を行うことが決められ、同日、対英米蘭開戦が決定された。そして、12月8日にハワイ真珠湾攻撃により、日米開戦となったのである。
この真珠湾攻撃実行の電文「新高山登レ一二〇八」は、瀬戸内海の柱島付近に停泊していた戦艦長門が打電したものを、船橋無線塔を経由して、全艦隊に伝達されるべく、連合艦隊に向けて発信された。12月2日午後5時30分のことである。

戦後、逓信省に移管され、復員船との連絡等にあたったが、それもつかの間、無線電信所はGHQに接収され、昭和41年(1966)に日本に返還されたが、もはや、その時には無線塔は通信業務の用に供されず、無用の長物となっていた。しばらく、立ち腐れのような形でたっていたが、昭和47年(1972)にすべて解体され現存しない。

わずかに地元のロータリークラブ、連合自治会、西船橋農業協同組合が建てた記念碑が残る。

<無線塔の記念碑>

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今では、「海軍無線塔」といっても、船橋市行田のなかにあったことや、「新高山登れ」という暗号電文を打電したことも知らない人が多くなった。

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2006.05.14

徳川家康と知多半島(その15:岩滑の中山氏)

徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)である岩滑城主中山勝時について、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻めて、これを下すと、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたことは前に述べたとおりである。中山勝時は、元は桶狭間(洞迫:くけはざま)に居た武士で、水野氏の配下になったという。しかし、それ以前がよく分からない。

中山勝時の子孫は、江戸時代には旗本になっていたから、幕府に系図を提出していた。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三に、その系譜がのっているので、参考までに抜粋すると以下のようになる。

「藤原氏 良門流

 中山 平十郎時幸がとき、罪ありて家たゆ。勝時は中山中納言顕時が後裔にして、刑部少輔重時が男なり。

●勝時

  五郎左衛門 民部大輔

 水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」とあり、その子として、「某 五郎左衛門」、「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」、「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」、「盛信 源右衛門」、「長円 権大僧都」とある。勝政は織田信雄につかえ、後に従兄弟にあたる徳川家康につかえて、伝通院於大の方が逝去したとき、所縁があるために、お茶入れ、唐物箔蒔絵の盆を授かっている。この勝政や勝尚の子孫が旗本として連綿と続くことになる。盛信の子孫は御家人になり、長円は野間の大御堂寺大坊の住職となった。長円の系統は、後に姓を改め、水野姓となる。勿論、勝時以降の人名や事績は正しく記載しているのであろうが、先祖の「罪ありて家たゆ」云々は、「故あって姓を改め」「故あって下向し」と同じように、一見すると系図を創作する際の常套文句のように思われ、中山中納言顕時の後裔というのも、通字の「時」が偶然一致したための付会であろう。ただし、後述するように「罪ありて家たゆ」は、なかなか深い意味があるようである。

<甲城山常福院>

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「尾陽雑記原本中山系抄出」という中山家に伝わる文書では、

「岩鍋 知多郡 一本矢奈部 一本屋鍋 又柳部とも有(正字岩滑也 一説正字谷滑なるへしと云如何、常滑に近ゆえか) (小略)

中山刑部大輔勝時 元五郎左衛門 紋三階菱

兼家(摂政)-道兼(関白)-兼隆(西番)-兼房(右少将 延久死)-兼仲(左少将 応徳死)-宗綱(八田下野守従五下 実宇都宮宗円子)-宗房(備後守)-宗隆(蔵人 伊勢守)-宗基(蔵人 安芸守)-基光(蔵人 尾張守)-忠光(伊賀守 雑色)-光経(刑部大夫 従四下)-光氏(上総介左将監 早生)-光種(刑部少 出雲守 左将監 号蓮光)-光能(中山五郎左衛門 太平記建武比)・・・(浅井記 江州ニ中山五郎左衛門)・・・勝時(中山五郎左衛門 刑部大輔 一本民部大輔 天正十壬午年六月ニ日於二条信長一所討死云々) (以下略)」

中山光能は太平記に出てくる人で五郎左衛門といい、その先代に勝時と同じ刑部大夫などと名乗った人がいたため、系図を接合したものと思われる。江州の人中山五郎左衛門は「淡海温古録」に「中山五郎左衛門は京極家より浅井に至り物頭なり」としているそうである(名古屋中山文夫氏調査)が、その江州の人中山五郎左衛門の前後の数代が不明なのは、不自然である。江州の人中山五郎左衛門は、近江国八幡中山村の出身らしいが、その地(現長浜市八幡中山町)には今でも中山姓が多いという。その子孫がいかなる理由で、桶狭間にいたのであろうか。それについては、中山氏を含め、梶野氏、青山氏といった南朝の落人が、1340年代(ちょうど後醍醐天皇がなくなり、南朝が衰微していった頃)桶狭間に隠れ住み、開拓して桶狭間村を開いたという伝承が、桶狭間の神明社などに残っている(「緑区ルネッサンスフォーラム会報」2006年3月号、桶狭間小学校HPなどによる)。その落人のうち、中山氏は武家として存続することを願い、その地に影響を持ち出した水野氏に接近し、配下となったものであるという。また、日観というのは、下総の中山から流れてきた日蓮宗の僧で、桶狭間に法華寺というべき草庵をたて、そのため南朝の落人も日蓮宗に帰依したといわれている。

「知多郡史」では、日観という僧が下総中山の法華寺(法華経寺のことか)からこの地に伴ってきたとしている。下総国八幡庄谷中郷中山の中山法華経寺は、元は法華寺という富木常忍が開いた寺と本妙寺という大田乗明が開いた寺が、一つの寺になったものである。富木常忍も大田乗明も、日蓮から直に教えをうけた弟子であり、鎌倉時代当時ではまれな教養をもった武士であった。小生、恥ずかしながら、その中山を名字の地とする武士がいたとは知らなかった。しかし、少なくとも、以下のような人物は存在する。

<中山法華経寺の五重塔>

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千葉氏の重臣原氏の一族で、有名な享徳の乱(房総では千葉宗家を庶家馬加氏が滅ぼした)の際の立役者、原胤房の子で原出雲守胤宣(たねよし)という人物がおり、その人が今の中山法華経寺のある八幡庄中山を根拠として、中山八郎太郎と名乗っていた。原出雲守胤宣は「中山殿」と呼ばれていたという。しかし、原胤宣は、中山勝時とほぼ同時期の戦国時代の人のため、岩滑城によった中山氏と関係あるとは思えない。もう一つは、三善姓の中山氏で、中山民部少輔康連の子が大田五郎左衛門乗明で、乗明は本妙寺の開基であるというもの。これが本当なら、あの大田乗明の系統が、中山姓に復し、その子孫が尾張に来たということになるが、そうそうビッグネームがつながることもないだろう。

要は、「知多郡史」の記事は、「下総の中山から来た日観という僧、あるいはその後継者が、桶狭間にいた中山氏(桶狭間で日蓮宗に帰依した)を岩滑に連れてきた」というのが、混乱して、「日観が中山の法華寺から中山氏を連れてきた」となったものと思われる。

実は、先日ヘロン氏と岩滑城の跡地である甲城山常福院を訪ねた際、たまたま法要のために出てこられた寺の方に、中山氏の墓についてうかがったところ、中山氏は日蓮宗で、西山浄土宗の常福院の檀家ではないという。これは、意外であり、半田市がかけた看板にも、「常福院は中山氏の菩提寺」とあるのに、なぜ?という感があったが、前述の「知多郡史」の明らかに日蓮宗の僧である、日観が連れてきた云々という話は、案外真実を含んでいるのかもしれない。桶狭間にいた南朝の落人が、水野氏の配下になり、たまたまその場所で親しくしていた日蓮宗の僧の案内で、岩滑に来た、そして岩滑の城主におさまったと考えれば、系図の前段にあった「罪ありて家たゆ」というのが、南朝について落人となり、足利幕府から追われる身になった、そして以前の系図や家の証明となるものは焼き捨てたかして、なくしてしまった、あるいは家名が絶えたのも同然になったということを意味しているのであろう。

<岩滑の八幡神社>

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甲城山常福院の東にある八幡神社も、もともとは神明社であったものが、中山氏が八幡神社にかえたのだという。そういえば、社殿が大きな八幡社に小さな神明社が附属する、特異な形になっており、横からみると狛犬が四匹いる形になっている。この八幡神社の祭神は八幡神であるから、中山氏には八幡信仰があったのであろう。そうすると、近江の八幡中山の出身という線も十分ありうるし、下総中山の近くには葛飾八幡社もあり、法華寺の開基富木常忍は 葛飾八幡の別宮若宮八幡の別当であったりして、両者には関係があったと思われるので、日観を通じて中山氏もその影響を受けたかとも思える。

いづれにせよ、岩滑の中山氏は桶狭間合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康を、岩滑で休憩させ、もてなしたことであろう。また、天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚が家臣25騎を率いて駆けつけている。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。そのように、徳川家康の危難を中山親子は助け、また血縁もあった中山氏の子孫は、江戸期以降も旗本などとして存続していく。

また、中山勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。この系統は、明治維新の後、岩滑に移住し、家の近かった新美南吉とは深い交流があったという。

<岩滑の北を流れる矢勝川>

Yakachigawa

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