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2006.05.14

徳川家康と知多半島(その15:岩滑の中山氏)

徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)である岩滑城主中山勝時について、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻めて、これを下すと、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたことは前に述べたとおりである。中山勝時は、元は桶狭間(洞迫:くけはざま)に居た武士で、水野氏の配下になったという。しかし、それ以前がよく分からない。

中山勝時の子孫は、江戸時代には旗本になっていたから、幕府に系図を提出していた。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三に、その系譜がのっているので、参考までに抜粋すると以下のようになる。

「藤原氏 良門流

 中山 平十郎時幸がとき、罪ありて家たゆ。勝時は中山中納言顕時が後裔にして、刑部少輔重時が男なり。

●勝時

  五郎左衛門 民部大輔

 水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」とあり、その子として、「某 五郎左衛門」、「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」、「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」、「盛信 源右衛門」、「長円 権大僧都」とある。勝政は織田信雄につかえ、後に従兄弟にあたる徳川家康につかえて、伝通院於大の方が逝去したとき、所縁があるために、お茶入れ、唐物箔蒔絵の盆を授かっている。この勝政や勝尚の子孫が旗本として連綿と続くことになる。盛信の子孫は御家人になり、長円は野間の大御堂寺大坊の住職となった。長円の系統は、後に姓を改め、水野姓となる。勿論、勝時以降の人名や事績は正しく記載しているのであろうが、先祖の「罪ありて家たゆ」云々は、「故あって姓を改め」「故あって下向し」と同じように、一見すると系図を創作する際の常套文句のように思われ、中山中納言顕時の後裔というのも、通字の「時」が偶然一致したための付会であろう。ただし、後述するように「罪ありて家たゆ」は、なかなか深い意味があるようである。

<甲城山常福院>

Jyouhuku

「尾陽雑記原本中山系抄出」という中山家に伝わる文書では、

「岩鍋 知多郡 一本矢奈部 一本屋鍋 又柳部とも有(正字岩滑也 一説正字谷滑なるへしと云如何、常滑に近ゆえか) (小略)

中山刑部大輔勝時 元五郎左衛門 紋三階菱

兼家(摂政)-道兼(関白)-兼隆(西番)-兼房(右少将 延久死)-兼仲(左少将 応徳死)-宗綱(八田下野守従五下 実宇都宮宗円子)-宗房(備後守)-宗隆(蔵人 伊勢守)-宗基(蔵人 安芸守)-基光(蔵人 尾張守)-忠光(伊賀守 雑色)-光経(刑部大夫 従四下)-光氏(上総介左将監 早生)-光種(刑部少 出雲守 左将監 号蓮光)-光能(中山五郎左衛門 太平記建武比)・・・(浅井記 江州ニ中山五郎左衛門)・・・勝時(中山五郎左衛門 刑部大輔 一本民部大輔 天正十壬午年六月ニ日於二条信長一所討死云々) (以下略)」

中山光能は太平記に出てくる人で五郎左衛門といい、その先代に勝時と同じ刑部大夫などと名乗った人がいたため、系図を接合したものと思われる。江州の人中山五郎左衛門は「淡海温古録」に「中山五郎左衛門は京極家より浅井に至り物頭なり」としているそうである(名古屋中山文夫氏調査)が、その江州の人中山五郎左衛門の前後の数代が不明なのは、不自然である。江州の人中山五郎左衛門は、近江国八幡中山村の出身らしいが、その地(現長浜市八幡中山町)には今でも中山姓が多いという。その子孫がいかなる理由で、桶狭間にいたのであろうか。それについては、中山氏を含め、梶野氏、青山氏といった南朝の落人が、1340年代(ちょうど後醍醐天皇がなくなり、南朝が衰微していった頃)桶狭間に隠れ住み、開拓して桶狭間村を開いたという伝承が、桶狭間の神明社などに残っている(「緑区ルネッサンスフォーラム会報」2006年3月号、桶狭間小学校HPなどによる)。その落人のうち、中山氏は武家として存続することを願い、その地に影響を持ち出した水野氏に接近し、配下となったものであるという。また、日観というのは、下総の中山から流れてきた日蓮宗の僧で、桶狭間に法華寺というべき草庵をたて、そのため南朝の落人も日蓮宗に帰依したといわれている。

「知多郡史」では、日観という僧が下総中山の法華寺(法華経寺のことか)からこの地に伴ってきたとしている。下総国八幡庄谷中郷中山の中山法華経寺は、元は法華寺という富木常忍が開いた寺と本妙寺という大田乗明が開いた寺が、一つの寺になったものである。富木常忍も大田乗明も、日蓮から直に教えをうけた弟子であり、鎌倉時代当時ではまれな教養をもった武士であった。小生、恥ずかしながら、その中山を名字の地とする武士がいたとは知らなかった。しかし、少なくとも、以下のような人物は存在する。

<中山法華経寺の五重塔>

172wakamiya06

千葉氏の重臣原氏の一族で、有名な享徳の乱(房総では千葉宗家を庶家馬加氏が滅ぼした)の際の立役者、原胤房の子で原出雲守胤宣(たねよし)という人物がおり、その人が今の中山法華経寺のある八幡庄中山を根拠として、中山八郎太郎と名乗っていた。原出雲守胤宣は「中山殿」と呼ばれていたという。しかし、原胤宣は、中山勝時とほぼ同時期の戦国時代の人のため、岩滑城によった中山氏と関係あるとは思えない。もう一つは、三善姓の中山氏で、中山民部少輔康連の子が大田五郎左衛門乗明で、乗明は本妙寺の開基であるというもの。これが本当なら、あの大田乗明の系統が、中山姓に復し、その子孫が尾張に来たということになるが、そうそうビッグネームがつながることもないだろう。

要は、「知多郡史」の記事は、「下総の中山から来た日観という僧、あるいはその後継者が、桶狭間にいた中山氏(桶狭間で日蓮宗に帰依した)を岩滑に連れてきた」というのが、混乱して、「日観が中山の法華寺から中山氏を連れてきた」となったものと思われる。

実は、先日ヘロン氏と岩滑城の跡地である甲城山常福院を訪ねた際、たまたま法要のために出てこられた寺の方に、中山氏の墓についてうかがったところ、中山氏は日蓮宗で、西山浄土宗の常福院の檀家ではないという。これは、意外であり、半田市がかけた看板にも、「常福院は中山氏の菩提寺」とあるのに、なぜ?という感があったが、前述の「知多郡史」の明らかに日蓮宗の僧である、日観が連れてきた云々という話は、案外真実を含んでいるのかもしれない。桶狭間にいた南朝の落人が、水野氏の配下になり、たまたまその場所で親しくしていた日蓮宗の僧の案内で、岩滑に来た、そして岩滑の城主におさまったと考えれば、系図の前段にあった「罪ありて家たゆ」というのが、南朝について落人となり、足利幕府から追われる身になった、そして以前の系図や家の証明となるものは焼き捨てたかして、なくしてしまった、あるいは家名が絶えたのも同然になったということを意味しているのであろう。

<岩滑の八幡神社>

Hachiman_1

甲城山常福院の東にある八幡神社も、もともとは神明社であったものが、中山氏が八幡神社にかえたのだという。そういえば、社殿が大きな八幡社に小さな神明社が附属する、特異な形になっており、横からみると狛犬が四匹いる形になっている。この八幡神社の祭神は八幡神であるから、中山氏には八幡信仰があったのであろう。そうすると、近江の八幡中山の出身という線も十分ありうるし、下総中山の近くには葛飾八幡社もあり、法華寺の開基富木常忍は 葛飾八幡の別宮若宮八幡の別当であったりして、両者には関係があったと思われるので、日観を通じて中山氏もその影響を受けたかとも思える。

いづれにせよ、岩滑の中山氏は桶狭間合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康を、岩滑で休憩させ、もてなしたことであろう。また、天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚が家臣25騎を率いて駆けつけている。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。そのように、徳川家康の危難を中山親子は助け、また血縁もあった中山氏の子孫は、江戸期以降も旗本などとして存続していく。

また、中山勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。この系統は、明治維新の後、岩滑に移住し、家の近かった新美南吉とは深い交流があったという。

<岩滑の北を流れる矢勝川>

Yakachigawa

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コメント

小生、定年後御先祖様のルーツを日比谷図書館に通って調べておりましたが、どうしても旗本以前が寛永譜には書いてなく、調べ様がなかったのですが、偶然、当該プログを読んで御先祖様の事があり、びっくりしたり、喜んだりしております。著者に感謝致します。
小生の親父は現在99歳で昔の事をしきりに知りたがっており喜ぶと思います。

投稿: s.nakayama | 2006.05.23 18:40

mori-chanさん
先日は、岩滑城ほか、色々とご案内下さりどうもありがとうございました。 当日はご承知の通り、風邪がまだ治らず、鼻血が出たりして少し貧血ぎみで、なんだか気分が優れなかったことで、折角ご接待いただいたのに、早 々にお暇してしまい、したいへん失礼いたしました。ほんとうに申し訳ありませんでした。m(__)m
 その後もあまり体調が良くなかったことで、学校以外は外出を控えておりましたが、本日は予てよりお約束していた美浜町の方とお会いするため久しぶりに出かけました。その序でにひょんな事から、「藤姓 中山氏系圖」をコピーすることができました。これを整理したいのですが、また明日も学校があるなど時間がとれません。しばらくお時間を頂けましたら、マイ・ブログに記事として書き込みたいと思っておりますので、お待ち下さいませ。
取りあえず、近況ご報告まで。

s.nakayamaさん
 はじめまして、∞ヘロンと申します。先述のように中山家の系圖が入手できましたので、整理するまで暫しお待ち下さいませ。

投稿: ∞ヘロン | 2006.05.25 19:54

nakayamaさん、コメントありがとうございます。またヘロンさんも、先日はありがとうございました。記事も読んでみようと思います。

さて、最近出張や何やかやで、自分のブログを見るのも間があいてしまい、お返事を書くのが遅れてしまいました。
中山氏の先祖については、戦国期以前については書いたこと以上のことは小生には分からないのですが、やはり南朝、桶狭間というのがキーワードで、桶狭間には南朝の落人の伝承も残っており、その館の場所なども伝承されているようです。桶狭間の郷土史を研究している人、例えば「緑区ルネッサンスフォーラム会報」に寄稿されていた方たちが、具体的な情報を持っているかもしれません。
名古屋の尾張中山氏の子孫の方も、調べているようですが、近江国八幡中山が名字の地とすれば、その八幡中山にも何か記録があるかもしれません。
また、岩滑の常福院で、中山家は日蓮宗で、うちの檀家ではないと言われた時は、正直驚きましたが、桶狭間に法華の草庵を結んだ日観について分かれば糸口となる可能性もあります。中山法華経寺の古記録は千葉県史料になっていますので、一度家に帰ったら調べてみようと思います(その割に船橋ネタを別のブログで書いたりしていますが・・・)。

投稿: mori_chan | 2006.05.26 01:27

∞ヘロンさん、mori_chanさん、有難う御座います。
我が御先祖様のお寺さんは東京愛宕山下にある栄寿寺という寺
で浄土宗ですが、関東大震災前はお寺は虎ノ門の天徳寺で、
墓石が十数個あったとの親父が言っておりましたが・・・。
関東大震災後は国で墓石は1個という事で現在の墓石にしたそうですが。
墓石に刻まれている情報は結構古くて天保14年ですね。
ただ、お寺さんは関東大震災で完全に消失して、御本尊のみが
残っており、過去帳などは全て消失してしまっております。
それにしても、御両氏の記載内容を親父に話したら大変に喜んで
おりました、また資料が御座いましたら教えて下さい。
宜しくお願い致します。

投稿: s.nakayama | 2006.05.27 14:44

mori-chanさん、教えてください。

1. 「尾陽雑記原本中山系抄出」という中山家に伝わる文書
とは、どこで閲覧なさったものなののでしょうか。小生も観てみたいのです。
2.(名古屋中山文夫氏調査)とありますが、ひょっとして同氏著の
『尾州中山氏系譜 推考 上巻』をごらんになったのでしょうか。

実は、前述の、「藤姓 中山氏系圖」をコピーすることができました」と書いたのは、上記の本をその末裔である「心月斎」のご住職からコピーさせていただいたものなのです。時間の関係とコピー枚数の制限から、その内の一部しかコピーできていません。また不明な箇所があり、昨日ご住職に電話しましたがご多忙に付来週にしかお話しできないそうです。投稿はそれまでもう暫くおまちくださいませ。


s.nakayamaさん

 上述の系譜の必要箇所がコピーできていませんので、全容はわかりませんが、前菩提寺が虎ノ門の「天徳寺」であったとのこと、
1.慶長18年(1613)三月十八日 猪右衛門中山勝政 葬天徳寺 法名浄円
1.元禄四年(1691)八月十六日 猪右衛門中山幸時 葬西久保天徳寺 法名清山
の記載がありました。この中山勝政の父勝時は、水野忠政の娘を妻に娶り、信長に仕えていました。勝政は織田信雄に仕えていました。
この勝政の三男重時の長男が幸時です。
とりあえず判明している部分のみお知らせします。系圖を現在書き写していますので、詳細はもう暫くお待ち下さい。


投稿: ∞ヘロン | 2006.05.28 04:15

mori-chanさん
 7月15日 (土)~9月3日 (日)まで、下記の場所で「ごんぎつねの殿様 中山家と新美南吉 展」が開催されるそうです。当館のホームページには、6月になってから公表される予定です。詳細がわかり次第また書き込みしますね。

新美南吉記念館(にいみなんきちきねんかん)
〒475‐0966 愛知県半田市岩滑(やなべ)西町1‐10‐1
TEL 0569-26-4888 FAX 0569-26-4889


s.nakayamaさん
 下記のURLで新美南吉の代表作『ごん狐』が読めますので、お父様に読んで差し上げ下さい。
このお話に出てくる城主「中山さま」は、戦国後期、実際に岩滑の領主だった中山勝時のことで、徳川家康の生母、於大の方の妹を娶っていました。

http://www.nankichi.gr.jp/honbun/GonPage.htm

投稿: ∞ヘロン | 2006.05.28 11:58

∞ヘロンさん、mori_chanさん、色々と情報有難う御座います。
御先祖様の墓石には中山信濃守藤七郎勝正と書いてあります。
先祖が愛知県知多半島岩滑から来たとは、何ともロマンのある
話です、どうやって、江戸に来たのかも段々と知りたくなってきましたが、何か調べる方法はあるのでしょうか。?
そもそも、今回、御両氏のWebを知るけっかけになったのが、私の
会社の30年来の友人の御母堂がなくなり、彼が東海道鳴海宿の
本陣下郷家の跡継ぎだという事がわかり、私が我が家の先祖を
調べているのを知っていて、地元のWebを探しているうちに「中山」
の名前が出ているという事で知りました。
本当に偶然が重なりました。 
「ごん狐」はPrintOutして、早速、親父に渡します。!!
親父は子供の頃から俳句をやっており、まだまだ、元気着々としており益々元気になると思います。

投稿: s.nakayama | 2006.05.28 14:48

ヘロンさんへ
「尾陽雑記原本中山系抄出は「やなべの歩み」の中でかかれていたのを引用しました。中山文夫氏調査もそのなかでかかれていたものです。

nakayamaさんへ
中山勝政と中山勝正、一字違いますが、昔の文書や金石文にはよくあることで、本人と見て良いのではないでしょうか。
また心月斎の和尚の持っていた系譜から虎ノ門の天徳寺が菩提寺で一致ということなら、まず間違いなく、岩滑の中山氏の系統なのでしょう。しかし、 岩滑の常楽院では、中山氏は日蓮宗と聞きましたが、その子孫は浄土宗にかわったのでしょうか。天徳寺(光明山和光院 浄土宗)は虎ノ門に現存しますが、記録が焼失してしまったのは惜しいです。家康が浄土宗でしたので、旗本だった中山氏も改宗したのでしょうか?
それはともかく、今回はお寺の線から何かわかりそうですね。
通常は、除籍謄本などから江戸期末期の先祖をたどり、それ以前は過去帳となるのですが、旗本の場合は、寛政重修諸家譜とか武鑑などにも記載があります。また領地がはっきりしているなら、在地資料もあるはずです。
尾張中山氏は名古屋にいる中山文夫という人がいろいろ調べているようですし、前に言いましたように桶狭間の郷土史グループが寄稿した名古屋市緑区のHPにもあるように、中山氏の先祖を中山の法華寺(大田乗明の本妙寺のことか、法華寺は富木常忍が開基なのははっきりしていますので)をつくったとしているなど、どうかと思う箇所がありますが、伝承ではかなり古くからあるようですので、一応ご参考まで。(下記に新しい記事がありました)
http://www.mc.ccnw.ne.jp/midoriku/mrf_book/mrf_06.pdf
名古屋の尾張中山氏、桶狭間の郷土史グループ、それとお寺の記録の線、このあたりが突破口でしょうか。

投稿: mori-chan | 2006.05.29 10:12

岩滑の「常楽院」 ⇒ 常福院 の間違いです。
失礼しました。

どうも、成岩の常楽寺とごっちゃになってしまいます。

投稿: mori-chan | 2006.05.29 10:20

mori-chanさん
 「やなべの歩み」の件、どうもありがとうございました。この前もこの史料のことを教えていただきながら、未だ閲覧できずにおりました。
なんとか貸出できるよう努めます。

s.nakayamaさん
中山信濃守藤七郎勝正殿を遡る系圖は解りそうです。もうしばらくお待ち下さい。それで確認のためお訪ねしますが、墓石に彫られた享年「天保14年(1843)が、「勝正殿」の享年と捉えてよろしいのでしょうか。
もしそうなら、それ以降は7代くらい続いていることになりますよね。菩提寺の過去帳が亡くなっているということですが、貴家のお仏壇にある過去帳からは何代先まで遡れるのでしょうか。また墓石に彫られた戒名もまた何代先まで遡れるのでしょうか。早急に墓石の全体図と陰刻された文字をデジカメで撮って残されておかれることをお勧めします。また可能な限り除籍謄本も取っておかれることを強くお勧めします。

投稿: ∞ヘロン | 2006.05.29 18:31

mori-chanさん
s.nakayamaさん
お待たせしました。取りあえず《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」と題して投稿しました。未完成ですが、早くs.nakayamaさんのお父様に見て貰いたいと思い投稿しました。これには著者中山文夫氏の親族のご理解と温かいご支援があってこそ初めて実現しました。
 「中山信濃守藤七郎勝正氏」の件は記事中の「★2勝政」の嫡男筋を辿って貰うと最後に記載されています。もしこの系圖がお役に立てたら嬉しいのですが……。
mori-chanさんの関心事も、この著書に沢山記載されていますので、また後日ゆっくりと解き明かしていきましょうね。(^^)

http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/9bfe2db20cd67dc990da08d0b5e1a20c

投稿: ∞ヘロン | 2006.06.01 04:04

なるほど、中山信濃守藤七郎勝正とは、中山勝政本人かと思いましたが、その系統の江戸後期の人なのですね。労作の系図では、それが立派に繋がっています。
しかし、これだけ多くの人が中山勝時の子孫であることは確かなのでしょうから、時間の流れというのは偉大です。

尾張中山氏の中山文夫さんは、実は平成17年になくなっていたのですが、緑区ルネッサンスフォーラム会報に寄稿した梶野渡という人(86才の郷土史家)が、「寛政譜の中山家の系譜ならびに尾陽雑記原本にある中山家系譜(第1図) 中山家分家の末裔である中山文夫氏(少・青年時代は岩滑に、成人して名古屋に住む 平成17年夏逝去 「私の南吉覚書」著者)に細部について説明を受け資料を頂いているが省略する」とその会報5号に書いていたのですが、その人にもあたったほうが良いかもしれません。以下のURLから3月3日の日付の会報5号がダウンロードできます。

http://www.narupara.com/~bank/archives/cat_renaissance_forum.html

なお、中山氏が領したという桶狭間、北尾とは、それぞれ現在の名古屋市緑区有松、大府市北崎町にあたります(いずれも昔は尾張国知多郡の内とされていた)。織田家の大高、鳴海の両城に近く、桶狭間合戦の舞台になったところです。中山氏は水野氏を頼ったという記述が、今まで読んだ文献には多かったですが、中山文夫氏調べでは水野氏が中山氏の領地を押領し、臣従させたとなっています。どちらが真相なのか、分かりませんが、臣従した四家のうち、中山氏以外の小栗は小栗風葉で有名で、半田辺りには多い名字ですし、久松(佐渡守俊勝)は於大の方の嫁ぎ先、荒尾は東海市辺りにいた名族であります(いずれも、知多には多い名字です)。
中山文夫氏の書いている元の資料が何か、知りたいところです。

投稿: mori-chan | 2006.06.01 16:43

mori-chanさん
 またまた新しい情報をありがとうございました。
昨日、あの中山系圖の末裔の方で、尾張中山氏の中山文夫さんの著作を贈って下さった人に、ご紹介いただいた「緑区ルネッサンスフォーラム会報に寄稿した梶野渡という人」のことを電話でお知らせしておきました。どうもありがとうございました。
 それからお願いなのですが、先般こちらのブログ記事から「中山氏」に関する記事を検索しましたが、記事が「全文」掲載されていることから、非常に長くてとても検索し辛かったのだす。gooブログなどでは、記事の表示の仕方で「全文表示」のほか「概要のみ表示」が選択できます。この方法ですと小生のブログのように投稿記事の頭出しが簡単に行えますので、必要と思われる記事を選んで全文表示することが出来ますのでとても便利だと思います。もしできましたら、この「概要のみ表示」にしていただけたら幸いです。

投稿: ∞ヘロン | 2006.06.03 10:33

s.nakayamaさん
中山氏の系圖に記載しました「勝正」氏は、貴家のご先祖様でしたでしょうか。現在ご確認中のこととは存じますが、整理なさってその後の家系図をお作りに成られましたら、お差し支えのない範囲で結構ですから、「勝正氏以降の系圖」を公表願えないでしょうか。たいへん失礼なこととは承知いたしておりますが、ご考慮戴きたくお願い申し上げます。
 昨日、あの「中山氏系圖」の末裔の方で、尾張中山氏の中山文夫さんの著作を贈って下さった人と、電話で貴家のことをお話しし、とても貴重な史料を戴いたことに感謝の言葉を述べさせていただきましたら、お役に立てたことをたいそうお慶びでした。それから、文夫さんがお父様とお会いに成られたのではないかと頻りに気にしておられました。さらには、「勝正氏以降の系圖」にとても興味を示されておりました。そう言ったわけで、公開が無理でしたらこれもまたお差し支えのない範囲で結構ですから、同氏にお知らせできないものかと考えております。まことに身勝手で厚かましいお願いで、しかも個人情報保護に反することですが、なにとぞご高配いただけましたら幸甚に存じます。

投稿: ∞ヘロン | 2006.06.03 10:53

ヘロンさんへ
先日はprog拝見させて頂きました。内容は大変貴重な資料で図書館では拝見できない内容ばかり非常に参考になりました。
尾張中山氏の中山文夫さん著作も許可頂き「中山氏系圖」の末裔の方には大変感謝しております。大きな文字でPrintOutさせて頂き親父に見せます。また、ヘロンさんへのprog内容を貴重な資料として我が家に残させて頂いて宜しいでしょうか。!
「御質問の中山氏の系圖に記載しました「勝正」氏は、貴家のご先祖様でしたでしょうか」については、多分、我が家の御先祖様だと思いますが確かに証明する資料が大変に少ないのですが。
墓石に刻まれている先祖の名前と親父(99歳)の子供の頃の記憶にある叔母さんや御寺(東京虎ノ門栄寿寺)の先々代住職などの話などと、私が日比谷図書館で寛政重修諸家譜で調べた内容が一致するなどです。
後は親父が昔大切取っておいた江戸時代の武鑑が2冊ありました。
私は貰ったのですが、30年前に貰っていたので、若気の至りでどこかにしまいなくしたようで、今になって探しているのですが。
ここ3年ほど集めた資料を基に年代別に資料を作っております。
従って、「勝正氏以降の系圖」の資料をヘロンさんのメールに添付資料でお送り致します。

投稿: s.nakayama | 2006.06.03 23:09

.nakayama さん
 「中山氏系圖」を喜んでいただき、わたしもとても嬉しく思います。お父様がご高齢で矍鑠とした毎日をお過ごしとのことで、93歳で亡くなった母とイメージがダブってしまい、今生きていたならもっと何かしてやりたかったと、お父様に代わりに親孝行の真似事をしたいと取り組んでみた次第です。(^^;
 しかし、『新訂寛政重修諸家譜』や「武鑑」に、ご先祖様のお名前が記載されているなんて、我々庶民からすると羨ましい限りです。(^^)
それから、貴家の系圖の公開につきまして、快くお許し頂きましてありがとうございました。マイ・ブログの「中山氏系圖」第二版に反映したいと思っています。
みなさまには、改訂版を作成するまで、もう暫くお待ち下さいませ。m(__)m

投稿: ∞ヘロン | 2006.06.04 11:18

S.nakayamaさんへ
この場をお借りしてご挨拶いたします。
中山家は、私達1件だけと思い細々と暮らしておりましたが
同族の方がおられたことに事を神に感謝しております。
また、天徳寺へは伺った事がありましたが何もわかりませんでした。我中山家にも系図は残っておりますがそちらさまにどれだけお役にたつかわかりませんがご希望があれば、できる限りご協力します。

投稿: H.Nakayama | 2008.12.20 21:24

H.Nakayamaさんへ
S.Nakayamaです。
大変にびっくりしております。まさに神に感謝いたします。
先祖を同じにする同族の方からのメールがあるとは本当にびっくりです。
子供の頃より親父から御先祖の事は聞いておりましたが、定年過ぎるまで
時間もなく関心が薄かったのですが、定年を機に御先祖について少しづつ調べおりますが。

親父から聞いているのは、関東大震災時に、お寺さんも焼失し(本尊だけが何とか残った様)、
それに伴い、我家の過去帳など全てが焼失したと先々代住職より親父は聞いた様です。
御先祖は江戸末期に何らかの理由で墓を天徳寺から近くの栄寿寺に移ったと聞いております。
現在、我家は栄寿寺の檀家として墓参りしております。
唯一、我家の手掛かりは、墓石に彫られている「正面-天保十四年癸卯閏九月十二日
高徳院殿 刺史哲誉顯道勇進居士&貞寿院殿 哲 誉徳巧妙順大姉 安政三年丙辰七月十日」
」と「右面 中山肥後守藤原勝門墓」「左面 中山肥後守藤原勝門室 天野彌五右衛門藤原昌著女也」
の文字です。因みに、親父は明治40年生まれの101歳で老人ホームで元気に過ごしておますが、
H.Nkayamaさんの話を聞けば大変に喜ぶと思います。
H.Nkayamaさん、これを機に今後とも宜しくお願い致します。
mori-chan様、水野青鷺(∞ヘロン)様 この場をお借りして御礼申し上げます。
この様な事があるのですね~。


投稿: s.nakayama | 2008.12.23 08:49

H.Nakayamaさん&S.Nakayamaさん
H.Nkayamaさん、初めまして水野青鷺(∞ヘロン)と申しまして、「水野氏史研究会」の世話人をしております。こちらのブログのmori-chanさんとS.Nakayamaさんは、共に本会会員ですのでメールアドレスを存じております。この先お二人でコメントを交わされる中で、プライバシーに関することも出てくると思われますので、H.Nkayamaさんが、下記のメールフォームからH.Nkayamaさんのメールアドレスをお知らせいただきましたら、S.Nakayamaさんに転送することが可能です。
ご承知のように、メールアドレスをコメント欄などで公開すると悪用されるおそれがありますので、もし宜しければこの方法をご利用下さい。(これは、水野氏史研究会会員に対するサービスの一環ですのでどうぞご遠慮なく。)

●水野氏史研究会ブログ http://mizunoclan.exblog.jp/
この左端に設けています「 Mail Form 」の「事務局へのメール」をクリックして書式に従って書き込みいただきご送信下さい。

投稿: ∞ヘロン | 2008.12.23 10:50

S.Nakayamaです。
水野青鷺(∞ヘロン)さん、配慮有難う御座います。
私的内容も入る可能性がありますので感謝致します。
宜しくお願い致します。

投稿: s.nakayama | 2008.12.24 16:59

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» S>《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」 [∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」]
《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」 【水野氏に関係する中山氏の系圖】 ●『尾州中山氏系譜 推考 上巻』中山文夫著 (1987年8月末筆了)の  系圖・本文を基とし、必要項目を抜粋し水野氏情報を加え編集した。  [続きを読む]

受信: 2006.06.01 04:07

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