「ニイタカヤマノボレ」 海軍無線塔と船橋
現在、船橋市の行田団地や税務大学校の東京研修所などが建ち並ぶ行田という地区は、地図でみると、直径800mの円形の道路があり、その中に団地や公園、商店などがあるのが分かる。地図といっても、大正6年(1917)の帝国陸地測量部作成の地図にも、そう書かれている。そして、円形の道路の中央に、船橋海軍無線電信所と記されている。
<昔の地図に書かれた船橋海軍無線電信所>
つまり、ここは、元は海軍の無線塔があった場所である。昭和46年(1971)までは、その場所にはそのままの形で無線塔があり、その塔を遠くからではあるが見たことがある。
その行田の円形道路の内側には、かつて海軍省所管の通信施設、船橋無線電信所があった。これには、高い技術を誇るドイツのテレフンケン社の送信機が採用された。大正2年(1913)10月に着工、ドイツ人技師の指導の下で工事が行われ、大正4年(1915)に完成したもので、その当時「東洋一」の規模と称された。この工事の途中、第一次大戦が勃発し、日本はドイツと敵味方の関係になる。
<船橋市習志野霊園(陸軍墓地)にあるドイツ兵捕虜の墓>
大正3年(1914)6月に対独宣戦布告が発せられるや、ドイツ人技師は図面を焼いて帰国してしまい、後は残された日本技術陣で何とかするしかなかった。難航の末、ようやく無線電信所は、大正4年(1915)4月に完成する。当初は、中央に上下平行で高さ200mの主塔、周囲に高さ60mの副塔16基が取り囲む形で、主塔は半自立型であった。半自立とは、主塔から数本、副塔方向手前の地上に鋼鉄線を張り、副塔へは電信線が延び、支線と電信線にかかる力の均衡をとるために、支線台と副塔は主塔から等距離でなくてはならない。
<行田の海軍無線塔址>
結果、その周囲は円形となり、現在も残る円形道路が残った。大正5年(1916)11月16日、ここ船橋とサンフランシスコ間で、アメリカのウイルソン大統領と大正天皇が祝電をとりかわしたが、その発信元は船橋無線電信所で、ハワイを中継したものであった。このように無線電信が行われ、その発信元が船橋であると知られるようになると、船橋の名は世界的に有名になった。
昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が軍部の陰謀によって起こされ、日中戦争の火ぶたが切られて軍国色が強まるが、それに前後する昭和12年(1937)5月、この無線電信所は「東京海軍無線隊船橋分遣隊」と改称され、それまでの半自立型から自立鉄塔とする大改造が始まった。それによって、182mの大鉄塔6基、数基の中型小型鉄塔が建ち並ぶことになった。
昭和16年(1941)10月東條内閣が成立、11月5日の御前会議にて、12月1日までに対米交渉不成立の場合、武力発動を行うことが決められ、同日、対英米蘭開戦が決定された。そして、12月8日にハワイ真珠湾攻撃により、日米開戦となったのである。
この真珠湾攻撃実行の電文「新高山登レ一二〇八」は、瀬戸内海の柱島付近に停泊していた戦艦長門が打電したものを、船橋無線塔を経由して、全艦隊に伝達されるべく、連合艦隊に向けて発信された。12月2日午後5時30分のことである。
戦後、逓信省に移管され、復員船との連絡等にあたったが、それもつかの間、無線電信所はGHQに接収され、昭和41年(1966)に日本に返還されたが、もはや、その時には無線塔は通信業務の用に供されず、無用の長物となっていた。しばらく、立ち腐れのような形でたっていたが、昭和47年(1972)にすべて解体され現存しない。
わずかに地元のロータリークラブ、連合自治会、西船橋農業協同組合が建てた記念碑が残る。
<無線塔の記念碑>
今では、「海軍無線塔」といっても、船橋市行田のなかにあったことや、「新高山登れ」という暗号電文を打電したことも知らない人が多くなった。
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コメント
行田公園近いので行ってみます、歴史の事実を感じます。
投稿: 丸山のトニー | 2012.06.03 13:37