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2006.06.30

船橋御殿地と徳川家康

船橋は、伝説によれば、当地に来た日本武尊が船を連ねて、橋としたことから、船橋というようになったという、古代からある集落、あるいは町である。つまり、意富比(おおい)神社ともいう船橋大神宮に関して、『日本三代実録』貞観5年(863)の古記録が存在することなどから、起源は古代といえるが、いつから船橋の集落ができたかは明確には分からない。中世においても船橋は、船橋浦から鎌倉へ船でいくことが出来、佐倉道(後に東金御成街道と重なる道)や西には海神につながる行徳道、東は大神宮下で佐倉道から分岐し、馬加(幕張)などへのびる上総道と複数の道が交わる、水陸交通の要衝であった。

<船橋大神宮>

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近世においても、船橋は銚子などと同様に、海運の拠点であり、陸上交通の面でも、木下街道や東金御成街道といった新しい街道も整備され、船橋は後に宿場町として大いに繁栄することになる。その船橋に目をつけた代表人物が、徳川家康であった。その家康は、船橋に鷹狩の宿泊所と称して、船橋御殿を造営させた。JR船橋駅の南、勤労市民センターから東へ弓なりに続く道は「御殿通り」といい、しばらく行くと日本一小さいという東照宮が路地を左に入ったところにある。その東照宮がある周囲を「御殿地」といって、江戸時代初期に船橋御殿があった場所である。今でも、「御殿地」の○○屋というように屋号とあわせて呼ばれたり、○○「御殿地」と集合住宅の名前になっていたりして、「御殿地」や「御殿通り」は当地に古くから住む船橋市民には、馴染みのある地名である。

<「御殿地」付近の地図>

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「御殿地」には、慶長18年(1613)に徳川家康、秀忠父子の鷹狩用の船橋御殿が建てられた。いわゆる東金御成街道沿いに鷹狩のための宿泊所という名目で御殿が建てられたが、東金街道には信玄の棒道を手本とした軍事目的の要素があったように、その御殿も諸大名の監視、情報収集の拠点という意味合いがあったらしい。慶長19年(1614)正月7日、東金で鷹狩をするといって江戸城を出立した家康は、その日の夜、船橋大神宮神主の富氏屋敷(後の船橋御殿)に宿泊したという伝承があるが、本当のところは分からない。実際には、7日宿泊したのは葛西城があった青戸御殿で、船橋に入ったのは8日で船橋御殿では休憩しただけというのが真相らしい。また家康だけでなく、その子秀忠、孫の家光も、船橋御殿に泊まったという。しかし、その東金での鷹狩で、何かヒントをつかんだのか、鷹狩でリフレッシュして頭の切替ができたからなのか、江戸城に戻った家康は、大胆な策に出た。すなわち、三河以来の譜代である大久保忠隣を追放することによって幕府内での権力争いに決着をつけ、本多正信、正純父子にニ代将軍秀忠を補佐させることにした。ついでに大久保忠隣と姻戚になる安房の大名里見氏を、慶長19年(1614)9月9日に伯耆国倉吉へ改易する。なお里見氏は、その8年後には、安房の戦国大名以来の家が絶たれることになる。さらに、大坂冬の陣がその年の10月に戦われることになる。

翌元和元年(1615)5月8日、大坂夏の陣において、豊臣秀頼、淀殿母子は大坂城内で自刃し、秀吉から二代で豊臣氏は滅亡した。そして、その年の11月に家康は再び東金遊猟を行い、帰路の25日に船橋御殿に宿泊した。昼過ぎ、家康は船橋付近でも鷹狩を行ったらしい。その宿泊した晩に船橋の通りが火事に見舞われ、家康を狙った放火かという説もあったが、船橋御殿は焼けず、家康も無事であった。その際、鉄砲で狙われた家康を船橋大神宮の神主が助けたという話もあるが、単なる伝承であろう。

当地と徳川家康を結びつける伝承は、他にもあって、例えば船橋大神宮の境内には、今も土俵があって、奉納相撲が行われるが、それは家康が当地に来た時に上覧に供したのが始まりという。また、船橋浦で獲れた江戸前の魚は、江戸城御台所に献上されたために、船橋浦は「御菜の浦」といわれるが、その起源も家康に魚を献上したことであるという。その時、漁民が内海、すなわち船橋浦の漁業権を所望したのに対し、家康は「内海」姓を希望していると勘違いして、漁師に「内海」姓を与えたが、漁業権を欲しがっていると知り、その漁業権と「内海」姓の両方を与えたという。ちなみに、この内海さん、「うつみ」ではなく、船橋の場合は「うちうみ」と読む。

それは兎も角、この「御殿地」は、中世から「御殿地」に館を構えていた富氏の当主、富中務大輔基重が江戸幕府に土地と邸宅を貸し出し、慶長17年(1612)頃、東金御成街道の建設とあわせて、江戸幕府が伊奈忠政(あるいはより古い時代に伊奈忠次)に差配させて船橋御殿を造営した場所である。実際に、船橋御殿が存在したのは、江戸時代初期のみであり、寛文11年(1671)には船橋御殿は廃され、貞享年間(1684-1688)船橋大神宮の宮司、富氏に下げ渡され、再び富氏の所有となったという。そして、富氏はかつて船橋御殿があった中心地に、船橋東照宮を建てたという。

<「御殿地」にたつ船橋東照宮>

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船橋御殿は地図でもわかるように、きちんとした方形ではなく、上底が短い短冊形に近く、周囲には土居がめぐっていた。今でも土居があったらしい場所の内側はやや高く、その外側には堀があったようで少し低くなっている。また、この富氏屋敷は夏見入江の西岸に位置し、船橋城とは入江を挟んで対面の場所になる。また、この「御殿地」の北に隣接した場所に現在西福寺にある南北朝期の五輪塔や鎌倉期の宝篋印塔があったと伝えられ、そこに前述の安養寺という律宗寺院があった模様である。

<東照宮の南東地点、自販機の向こう側(東)が急に低くなっている>

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<前写真の低地を南から撮った~道はかつての堀あとか>

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船橋御殿があった中心地は、少し周囲より高くなっており、日本一小さいという東照宮がまつられている。もっとも、千葉県内にも、これより小さい東照宮があるといい、船橋の東照宮の宣伝勝ちといえようか。

「御殿地」を取り巻く周囲の街並みに目をむけると、その南にあたる本町三丁目には寺がいくつも固まってあり、まさに寺町の様相を呈している。そこにはかつての宿場にいた「八兵衛」と俗に言う飯盛女(下級の遊女)も薮入りの参詣を許されたという、因果(えんが)地蔵尊や船橋の漁場争いで入牢してなくなった漁師惣代を弔う意味で行われる「飯盛り大仏」の風習で知られる不動院、お女郎地蔵のある古刹浄勝寺、その他漁師町らしく難陀龍王をまつる龍王堂のある覚王寺などがある。因果地蔵尊のある寺が海岸山圓蔵院という名前であるのに象徴されるように、寺町の南はかつては海が迫っており、漁師の集落があった。そのため、漁師町特有の龍神がまつられていたり、漁師町の人々の祈りを込めた石仏や風習が残っている。そして、後に街道が発達し、宿場として繁栄するようになると、宿場の裏の世界の住人である遊女たちの信仰も集めるようになり、関連する逸話も残っている。

<因果地蔵尊>

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<不動院の石造釈迦如来像~この大仏の顔に毎年2月28日に飯を盛る>

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さらに、かつての宿場の西のはずれ、お仕置き場があったという場所には西向き地蔵がある。どういうわけか、お仕置き場と遊郭は場所的に近くにあることが多いようで、江戸の新吉原の近くには小塚原の刑場があり、「生まれては苦界死しては浄閑寺」という投げ込み寺で知られた三ノ輪の浄閑寺がある。品川遊郭の近くには、鈴が森の刑場があった。その例にもれず船橋も、西向き地蔵の近くに遊郭の建物が現存する。その辺りが、近世船橋の市街地の西端で、実はその付近の道路がクランクしている。

道路がクランクしているのは、城下町である佐倉や中世城館のあった手賀などの手賀沼周辺の集落、あるいは江戸川河口、東京湾に面した行徳の古い通りにも見られる。皆敵が侵入してきた場合にその勢いを減じる効果を狙ったものといえる。

船橋も「御殿地」を守る仕掛けとして、西側の道のクランク、本町通りの道を挟んだ寺町(古来、寺はいざというときに立て籠もることの出来る場所であった)の存在が意味を持っていたのではないか。

<西向き地蔵>

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2006.06.15

関東争乱と小弓公方足利義明

小弓公方足利義明は、関東に覇を唱えようとして、第一次国府台合戦で後北条氏の軍勢と戦い、なくなった人物として有名である。しかし、その若い頃については余り知られていない。

<鎌倉鶴岡八幡宮の三の鳥居>

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元々室町将軍家は、鎌倉に出先機関のような一族(彼ら自らは「関東公方」、あるいは「鎌倉公方」と僭称)を置いて、東国を統治させようとした。足利尊氏は建武3年(1336)に京都に幕府を開いたが、鎌倉には一族の基氏をおいた。それが代々世襲されたのだが、配下の上杉氏と対立するようになり、同時に室町将軍家とも不和になり、また上杉氏は室町将軍家につくなどして、鎌倉での政治勢力は、複雑な様相を呈することになる。応永23年(1416)関東管領であった上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏に対して挙兵する事件が置き、その乱(上杉禅秀の乱)は室町幕府と協力した持氏によって鎮圧された。しかし、その後独立を志向する持氏は室町幕府に反抗するようになる。

<関東公方足利氏所縁の「竹の寺」、報国寺の庭>

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そして、関東管領となった上杉憲実が、持氏を制止しようとすると、逆に持氏は上杉憲実を攻め、逃れた憲実を救援すべく、室町将軍家義教は足利満直や今川範忠に命じて持氏を討伐しようとし、また持氏の周辺でも寝返りがあって、持氏は称名寺で出家、移った永安寺で、義教に命じられた上杉憲実の軍勢に囲まれて自刃した。その長子義久も竹の寺として有名な功臣山報国寺に入って自刃した。これが世に言う永享の乱で、永享10年(1439)のことであった。さらに、翌年、持氏遺児春王丸、安王丸は、結城氏朝らに擁立され、結城氏が室町幕府に対して反乱を起こし、幕府軍と戦い、敗れるという事件が起きた(結城合戦)。その際、捕えられた春王丸、安王丸は美濃で斬られたが、一人残った遺児永寿王丸は信濃に逃れていた。永寿王丸は、後に関東公方足利成氏となり、享徳4年(1455)に父の仇である上杉憲実の子憲忠を謀殺、室町幕府の追討軍と戦ったが、下総の古河に入って鎌倉陥落の報を聞き、その地に留まった(享徳の乱)。これが、古河公方の始まりである。

<報国寺の滝>

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その古河公方に対する態度をどうするかは、周辺諸豪の関心事で、その去就と大いに関係があった。足利成氏に従うか否かをめぐって対立した千葉宗家胤と千葉氏庶長子馬加康胤や原胤房は同族相戦うことになる。当時千葉氏はかつての勢いがなく、また一族で重臣である原氏と円城寺氏が対立していた。馬加康胤は、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきたが、足利成氏を支持する立場であった。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が円城寺氏の勢力に傾き、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を攻め、千葉城を落とし、千葉宗家は一旦滅ぶ。また馬加康胤、胤持父子も、市原の八幡で、室町幕府から出兵を許された千葉氏一門の東常縁の軍勢と戦って、討死している。その後、康胤の実子とも養子ともいわれる岩橋輔胤が、原胤房らとともに、分散して抵抗を続け、馬加系の千葉氏が宗家となる。

鎌倉を追われ、古河公方となった成氏のあとをついだのは、その子政氏である。以降、古河公方も代々世襲されていく。しかし、政氏は、その長男高基と折り合いが悪かった。父子で争っていたために、高基は宇都宮にいた。しかし、永正6年(1509)にようやく両者は和解し、高基は古河に帰り、やがて政氏は久喜に隠退した。

一方、足利高基の弟義明は初め僧となり、空然と号して鎌倉雪ノ下の八正院に住んでいた。八正院は鶴岡八幡宮の若宮の別当寺の一つである。永正7年(1510)義明は還俗し、右兵衛佐と称した。そして古河に戻ってみると、父政氏と兄高基のなかはまだうまくいっておらず、義明も兄である古河公方高基と折り合いが悪く(あるいは父政氏とも不和であったという)、奥州を放浪していたらしい。黒川城に身を寄せたという話もある。

どういう訳か、足利一門は今ひとつ団結していない。足利将軍家と関東公方しかり、堀越公方しかり、古河公方の家の中しかりである。

関東が中央である京都の室町幕府と距離を置き、なかなか従わない背景には、室町幕府そのものの成り立ちからして、足利一門を中心としたかつての鎌倉の有力御家人らの連合体という基盤の弱さがあったと思うが、関東も農業などの生産力があがり、豊かな土地になってきて経済基盤が確立していたことがあると思われる。

<小弓公方足利義明が拠ったという小弓城址>

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ともかく、その後の足利義明は、真里谷武田信保(または父信勝)によって、原氏との対抗上、担ぎ出され、小弓城を奪取してからは小弓城にはいり、小弓公方あるいは小弓御所と称した。

<松戸市相模台の経世塚>

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その後、後北条氏と対立し、天文7年(1538)10月、雌雄を決すべくのぞんだ国府台合戦(第一次)において、小弓公方義明、武田、里見軍は国府台に出陣、江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍が、相模台にいた小弓軍を破って南下したことを知った義明は千の手勢を率いて北上して交戦し、義明本人とその子義純、弟基頼ら約140名が討たれた。

房総の歴史に急に表れて、いかにも暴れん坊らしく、なくなっていった足利義明であるが、その若き日、また彼が登場するまでの関東の歴史は、前述したような戦いの連続だったのである。その意味で、足利義明は、関東争乱の一種の申し子だったのかもしれない。

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2006.06.08

芝増上寺と周辺史跡

芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち♪ (端唄)

芝で生まれて神田で育ち、今じゃ浅草名物で ギター鳴らして歌うたい♪ (川田義雄とミルクブラザーズ「地球の上に朝が来る」)

Matoime_2 芝は江戸っ子が生まれるにふさわしい場所といわれていた。芝は神田や浅草という場所と同様に、江戸の「粋」や「いなせ」という言葉が似合う場所である。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事を消し止める火消しは、その「粋」のさいたる職業であったかもしれない。芝で火消しというと、「め組」である。実際、増上寺の境内には、増上寺門前を守った町火消し「め組」の碑がある。享保元年(1716)建立というから290年前に建てられたものである。これは、「め組」の殉難者・物故者の供養碑であるが、増上寺自体は寺社奉行、大名火消しの管轄である。

<増上寺境内の「め組」殉難碑>

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しかし、今では浜松町の貿易センタービルに象徴されるように周囲はビジネス街となり、愛宕山の辺りまでビルも建ち並んでいる。

芝にある増上寺は、古い浄土宗の寺である。増上寺が開かれたのは、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれ、天正十八年(1590)、小田原後北条氏にかわって関東の地を治めることになった徳川家康は、その存応上人に帰依し、徳川家の菩提寺として増上寺を選んだ。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転した増上寺は、徳川将軍家の外護のもと、大きく発展していく。三解脱門、経蔵、大殿が建立され、三大蔵経が寄進されるなどした。家康は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行い、久能山に埋葬するようにとの遺言を残し、75歳で歿した。

このように、増上寺は上野寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺であり、徳川家の庇護のもとに大きくなった寺であるが、江戸城からみると西南にあたり、鬼門を守る上野寛永寺(あるいは浅草の浅草寺)、同じく西南の裏鬼門を守る山王日吉神社などとともに、その場所には呪術的な意味もあったという。

増上寺の「大門」は、都営地下鉄の駅名にもなり、最近では浅草線にくわえて大江戸線もとおっている。大門といっても、それほど大きくはなく、現在の門は再建されたもの。他に「御成門」も現存するが、こちらも都営三田線の駅名となっている。

「御成門」は増上寺の北方馬場にあった裏門であり、なぜ「御成門」というかといえば、徳川将軍家が増上寺に参詣する折に、この裏門がもっぱら用いられたため、「御成門」と呼ばれた。今は芝公園内にあるみなと図書館の道路をはさんだ向かい側、東京プリンスホテルに隣接した場所にあるが、あまり目立たない。元々は、現在の御成門交差点付近にあったが、日比谷通りが作られた際に現在地に移された。

<現存する御成門>

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<夕暮れ時の大門>

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<昼間の大門>

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大門を抜けると、浄土宗の寺院が並ぶ大通りの突き当たりに、ひときわ大きな増上寺の三門(三解脱門)がある。これは、江戸初期の建造で、東京都内最古の建築物になるらしい。三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造りの三門で、元和八年(1622)、江戸幕府大工頭・中井正清とその配下による建立で、国の重要文化財に指定されている。

<増上寺の三門(三解脱門)>

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<近くから見た増上寺三門~朱塗りが鮮やかに目に焼きつく>

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その三門をくぐると、増上寺の境内である。増上寺の境内には、新しい本堂や鐘楼があり、本堂の裏の墓地の一角に徳川家廟所があって、徳川秀忠らの将軍が葬られている。

近くに東京プリンスホテルがあるため、その宿泊客らしい外人などの人々が境内を散歩している。こちらも出張のついでとはいえ、朝から寺の境内を歩くのも、信心深いというより、単なる気分転換に近い。

<増上寺の境内>

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この増上寺の境内には、新しい本堂や鐘楼堂があり、本堂の裏の墓地の一角に徳川家廟所があって、徳川秀忠らの将軍が葬られている。

鐘は江戸時代の川柳に、「今鳴るは芝か上野か浅草か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」などとうたわれた。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草は浅草寺、何れも徳川家が江戸の守りとして信仰した寺を示している。鐘楼堂自体は戦後の再建であるが、鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成した、江戸三大名鐘の一つに数えられた鐘だという。

<「芝の鐘」と川柳にうたわれた増上寺の鐘>

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増上寺といえば、前述のように徳川家の菩提寺である。

ここには、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍たちが眠っている。その廟所の門は「鋳抜門」といい、六代家宣の墓所にあった門であるという。上野寛永寺には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓所がある。初代家康は久能山から日光東照宮に改葬され、三代家光も日光輪王寺に墓がある。

十五代慶喜は、寛永寺の谷中霊園における飛び地にあるから、それも寛永寺に含めれば、初代から十五代の徳川将軍家は、日光に二人、寛永寺に七人、増上寺に六人が葬られていることになる。しかも、徳川家は浄土宗であったのだが、家康の東照宮の神道は良いとしても、三代家光の霊廟のある輪王寺は天台宗で、四代家綱らの眠る寛永寺は、東叡山(東の叡山の意)と号する徳川家が建てた寺で、天台宗と、なぜか数の上では天台宗のほうが優勢である。

また、各代交互に寛永寺と増上寺ではなく、四代、五代が寛永寺、六代、七代が増上寺、十代、十一代がまた寛永寺となっているのが、いかなる理由かと思ってしまう。八代吉宗と五代綱吉の墓については、「わが墓は、上野寛永寺にある常憲院様(綱吉)のそばに設けよ」と吉宗が遺言し、同じ寛永寺にあるのは納得できるにしても、それ以外については、どう配分したのかが今ひとつ分からない。

<増上寺の徳川家廟所>

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実は増上寺の徳川家廟所の前に、葵の紋を染め抜いた幕のかかった建物(安国殿)があるのだが、これは徳川家康の信仰していた黒本尊をまつっている。黒本尊とは何か、なにやらおどろおどろしい。安国殿の「安国」とは、「暗黒」なのではと思ってしまうが、何のことはない、徳川家康の法名である。

増上寺のオフィシャルHPによると、「恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願した。その歿後増上寺に奉納されたましたが、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めてきています。黒本尊の名は、永い年月の間の灯明の煤(すす)で黒ずんでいることによります。やはり家康公の命名といわれています。」とあり、「黒本尊」とは阿弥陀如来の煤で黒くなった像ということになる。

<黒本尊をまつる安国殿>

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本堂の裏に四観音という、石の観音像があるが、こちらはそれほど古くはなさそうだ。そのほか、境内には西向観音などもある。

<朝の増上寺四観音>

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都会の喧騒を一時忘れるような増上寺を出て、御成門方面を日比谷通り沿いに歩くと、かつて「田村町」と言われていた地域に出る。ここが「田村町」といわれるのは、忠臣蔵で有名な田村右京大夫の屋敷があったからである。しかし、田村右京大夫は忠臣蔵で有名といっても、浅野内匠頭が松の廊下の刃傷の後、その屋敷に預かりとなり、そこで切腹したということで、有名なのであって、直接登場してくる人物ではない。したがって、田村右京大夫とはどんな人か、東北は一関辺りの大名であること以外、よく分からないのである。そういえば三春にも田村という大名がいたが、伊達政宗の縁者であった。田村右京大夫は、その子孫なのであろう。たまたま、後世において、幕府の命令で浅野内匠頭を屋敷内で切腹させることになり、本人は忠臣蔵に登場しないのにも関わらず、「田村町」という地名は長く残った。

<田村右京大夫の屋敷址にたつ浅野内匠頭の碑>

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その辺りから霞ヶ関方面へ北上し、虎ノ門へ出る。虎ノ門は、現在ではオフィス街であり、ビルだらけであるが、かつて江戸城の外郭の門である虎ノ門があった。しかし、明治初期に、その門は撤去され、何も残っていない。地下鉄虎ノ門駅の出入り口近くに、虎の銅像があるのだが、小さい銅像で、作者には悪いが猫に見える。

<虎ノ門の虎>

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そこから再度南へ下ると、愛宕山がある。小さいとはいえ、立派な山。ここには愛宕神社があるのだが、東京都心にある山といえば、唯一ここだけである。その愛宕神社の創建は、社伝によると、慶長8年(1603)という。やはり、この小山を愛宕山というのは、京都の愛宕山から命名されたのであろうか。愛宕神社には小さな池があり、桜の季節には桜の花が水面に映えて美しい。愛宕神社は火産霊命を祭神とし、火ぶせの神社である。そして、ここも徳川家康が信仰した勝軍地蔵が祀られているとか。増上寺付近は、よほど徳川家の護りがかたいらしい。

<愛宕神社の石段>

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その愛宕神社の石段は途中におどり場がなく、高くて比較的角度も急である。石段一つ一つはそれなりに幅もあるのだが、手摺りを使わないと転げ落ちそうで、高度恐怖症の人には上ることはできないであろう。小生、鎌倉の護良親王の墓の石段を上ったときも、後ろを振り返らずひたすら上ったが、この石段は手摺りを使わずに上ることができなかった。しかし、小生が石段を下りたあと、手摺りを使わずに上っていった人を目撃し、感心したが、話している言葉からすると韓国人らしかった。韓流は強しであろうか。

<増上寺三門前>

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2006.06.03

徳川家康と知多半島(その16:幕臣になった岩滑中山氏の後裔)

前回、岩滑中山氏についてあれこれ書き、期せずして子孫の方から連絡があって、ヘロン氏も加わって、いまだにやり取りが続いている。中山氏が岩滑に来たのは、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻め下し、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたと、「阿久比町誌」など各書が書いている。これに対し、「緑区ルネッサンスフォーラム会報」では中山氏は永正年間に岩滑に来たとしているが、これも裏付資料があるようで、一説に中山勝時は岩滑生まれという。

中山氏が桶狭間(洞迫間:くけはざま)、北尾を領していたのは事実であろう。桶狭間は今の名古屋市緑区有松であり、北尾は近世での北尾村、後の北崎村で、現在の大府市北崎町である。その近くには、緒川水野氏の配下で天文年間に水野信元による成岩城攻めの後、成岩城に入ったという梶川五左衛門がそれ以前に拠った横根城があった。つまり、天文年間には、少なくとも北尾の辺りは水野氏の勢力が及んでおり、その関係で中山氏は水野氏の配下になったのではないか。やはり岩滑に中山氏、具体的には中山勝時が来たのは、宮津(現阿久比町宮津)の新海淳尚が水野信元に攻められて屈服した、天文12年(1543)以降であろう。

<水野氏が攻略した成岩城址>

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中山氏と桶狭間、それ以前の近江湖北における浅井氏や京極氏との関連などは興味が尽きないが、なにせ現在は材料が乏しく、後は現地に行くくらいしか手がない。おぼろげながら、「京極から浅井にいたり、物頭をしていた」という浅井の線では、尾張苅安賀城にいた尾張浅井氏は近江浅井氏の分流といわれ、中山氏はその尾張浅井氏から何かの事情で離れ、桶狭間に住んだということも考えられる。それは南朝云々ということではなく、別の御家の事情であったかもしれない。

また、かつて大野の一部に属した草木において、曹洞宗長松山正盛院を開いた栄信正盛尼は、水野忠政の娘で、於大の方の姉妹であるが、その正盛院の開山は快翁龍喜禅師で、禅師は水野忠政の家臣中山又助の次男だったという。この快翁龍喜禅師も、岩滑の中山氏の一族だったらしい。禅師は宝飯郡八幡村(現豊川市八幡)の西明寺実田以転和尚の法灯を継ぎ、師をたすけて曹源寺草創に参画し、その二世住職となった後、天文9年(1540)に西明寺四世住職となり、天文13年(1544)に正盛院の開山に招請されている。禅師の生年は分からないが、少なくとも水野忠政の時代には、中山氏は水野氏配下であったと思われる。晩年快翁龍喜禅師は、請われて今川義元以下桶狭間合戦で戦死した今川将士の引導供養の大導師をつとめたが、祖先が住んだ桶狭間での戦死者の供養とは如何なる偶然か。

<中山氏と親交のあったという岩滑の新美南吉生家>

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それはともかく、中山氏は勝時の代に、岩滑城主となり、水野忠政の娘婿として、また徳川家康の義理の叔父として、大いに活躍した。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三によれば、「●勝時  五郎左衛門 民部大輔」は、

「水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」

その子のうち、長男五郎左衛門(光勝か)は徳川家康に仕え、水野忠重に附属せられたというが、若くしてなくなった(その子が常滑水野氏を継いだ保雅であり、血脈は連綿として続く)。光勝と呼ばれる五郎左衛門の養子、中山重盛は水野勝成に仕え、勝成が福山に転封の後も随い、福山水野家の家老職をつとめた。この家が、本来の中山氏の嫡流である。

中山勝時の事実上の後継は「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」で、彼と弟「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」の子孫が徳川将軍家の旗本となった。すなわち、勝政は「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)につかへたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、のち大番をつとむ。慶長七年伝通院御方(於大の方)逝したまふのとき、御ゆかりあるをもって、御遺物として御茶入及び唐物箔蒔絵の盆をたまふ。九年より台徳院(徳川秀忠)につかへたてまつる。十八年三月十八日死す。年六十九。法名浄円。葬地勝時におなじ(高野山)。妻は荒川左衛門大夫某が女」と記されいる。

一方、勝尚については、「勝尚 五平次 中山民部大輔勝時が三男 母は水野右衛門大夫忠政が女」として「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)に仕へたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、其後台徳院(徳川秀忠)に奉仕し大番をつとめ、後組頭にすすむ。慶長七年四月四日死す。年四十九。法名道荷。」となっている。兄弟の事績が殆ど同じ、領地の場所も石高も同じであるが、同時に家康に召抱えられ、兄弟仲良く分けてと領地も与えられたのだろうか。ただ、弟の方が先になくなったことなどは分かる。

<江戸城の桔梗堀>

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前述のように、勝政の系統が主流となり、連綿と旗本の家督を継いでいっている。一方、勝尚の系統も、勝信、勝阜と続き、特に勝阜という人が優秀だったのか、御徒頭、御先鉄砲頭などをつとめ、上野国邑楽、下野国梁田、武蔵埼玉の采地加増あり、千三百石となり、少なくとも天明二年に家督相続した愛勝(采地千三百石)という人の代まで旗本であり続けた。尾張中山氏は、この勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まるというが、どういうわけか勝秀という名は『寛政重修諸家譜』には見当たらない。中山文夫氏調べの系図では、勝信の弟となっている。

異色なのは、勝時の末子長円で、野間大坊大御堂寺の住職となり、後に水野姓になっている。

一方、主流となった勝政の子孫であるが、長子である忠光(茂左衛門)は別家を立てている。しかし、その子孫も旗本である(後述)。

忠光の弟、勝光は大坂陣で戦死、次の重時が家を継いだ。「●重時 猪右衛門 母は左衛門大夫某が女」は、「元禄(文禄か)四年より東照宮(家康)に仕へたてまつり、のち父勝政が遺跡を継。其後大坂の御弓奉行をつとむ。寛永十五年正月九日大坂にをいて死す。年六十。法名道愛。彼地の大蓮寺に葬る。妻は堤氏の女」とある。さらに重時の弟政長は別家をたてるが、子の勝之の代で絶家、末弟忠直は徳川秀忠に仕え、下総香取郡で四百石を領し、天明六年に相続した勝直まですくなくとも続いている。重時の後は幸時が継いだが、この人は御書院番をつとめ、七十余まで生きたが、長年の精勤に対し黄金二枚を賜った。幸時は元禄四年になくなり、西久保天徳寺に葬られた。のち代々の葬地が天徳寺となる。幸時の弟時定は別家をたてた。また幸時の子時長も御書院番であったが、三百石をとりながら父より先になくなっている。その後の政時は二十四歳でなくなり、末期養子の時之が元禄四年に継ぐが、この人に認められたのは、時長-政時と受け継がれた三百石のみで、幸時の五百石は幕府へ収納とあいなった。時之も子がなく、時之が末期養子となったが、この人は御書院番となりながら行状に問題があったらしく、改易となった。

幸時の弟時定は、「寛文二年十月九日めされて、小十人に列し、」家綱のもとで御納戸番などをつとめた。その子、時春は優秀だったようで、御納戸番から御腰物奉行、御目付を歴任、五百石となり、播磨国のうちで五百石加増、勘定奉行となり、播磨のうちをあらため、上総国埴生市原両郡で千石加増され、千五百石となり、従五位下出雲守となった。この人は、相模などの川普請(治水事業)でも功績があった。その後、豊時、時富と家督は移り、時庸(ときつね)は大坂町奉行をつとめたが、新規開墾の租税を私した嫌疑をかけられ閉門となり、後許されたが上総の采地のうち五百石を削られた。その後、時寿、時章、時倫と相続、時倫は千石、御書院番に列した。

<徳川将軍家の菩提寺:増上寺>

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<増上寺にある徳川家廟所>

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では、勝政の長男である茂左衛門忠光の系統はどうか。「●忠光 茂左衛門 中山猪右衛門勝政が長男。母は荒川左衛門大夫某が女」で「水野惣兵衛忠重に仕へ、のち土方勘兵衛雄久に属し、天正十八年小田原の役に戦功ありしかば豊臣太閤より時服及び銀銭をたまふ。十月めされて東照宮(家康)に拝謁し、御家人に列し大番をつとむ。十九年七月上総国望陀周准二郡のうちにをいて采地五百石をたまふ。慶長五年関原御陣に供奉し、六年七月十四日死す。年三十六。法名清玉。高野山に葬る。」とあり、歴戦の勇者であったらしい。しかし、なぜ長男なのに別家をたてたのか。江戸時代の初め頃まではよくあった話で、二代将軍徳川秀忠も三男であったが、兄結城秀康存命であったにもかかわらず、家康の跡を継いだ。なお、文中御家人とあるが、旗本の意であろう。

忠光の子は忠勝、この人も大坂冬、夏の陣に参じ、大和国のうちで二百石加増となり、寛永元年にはその地を常陸国新治郡筑波郡にうつされ、寛永十年には筑波でさらに二百石加増となった。寛永十六年には竹橋門普請の奉行をし、慶安元年には家光の日光参詣にしたがっている。その忠勝は「万治二年十一月四日死す。法名浄林。西久保の天徳寺に葬る。後代々葬地とす。妻は荒木十左衛門元政が女」とあり、九百石の大身となり、その人の代から天徳寺が菩提寺になっているのが分かる。その後、この系統は、勝久、勝尋(かつひろ)と続くが、(江戸城の)「隍塁」や飯田町の普請を行い、御徒頭、御先鉄砲頭をつとめた勝尋は、弟久寛に二百石を分け与えている。勝尋のあとは久敬(後書院番組頭)、勝彭(かつちか:御小姓番士、御小納戸)、勝直(御小納戸)と続き、そのあとの勝高が夭折し、末期養子で入ったのは「●勝正 藤七郎 肥後守 信濃守 従五位下 実は中山大隈守時寿が三男。母は某氏。勝高が終にのぞみて養子となる」である。この人は安永8年5月に後継ぎになっているが、御小納戸から御小姓となり、将軍家斉親筆の書をもらったり、鷹狩ではいられた鳥をもらうなど、覚えめでたかったようである。その子では早世した者を除くと、幼名太郎吉、虎吉、留吉という男子がいたようだが、その後は知らない。

その他、勝政の五男である六郎右衛門忠直の系統もあり、忠直は徳川秀忠につかえ大坂の両陣に参じ、下総香取郡のうち四百石を知行されるなど、代々御天守番、大番を勤め、天明六年に相続した勝直まで続いている。ほかに、その系統から派生した家もあるが、長くなるので省略する。

                          <天徳寺門前の西之窪観音の碑>

Tentokujiちなみに、文中出てくる西久保の天徳寺とは、虎ノ門の愛宕山下の浄土宗の寺院で、松平家、大給家などの墓もある。芝には徳川将軍家の菩提寺である増上寺があり、虎ノ門あたりも浄土宗の寺が多い。しかし、なぜ尾張中山氏は日蓮宗で、旗本となり江戸に出てきた嫡流は浄土宗の寺を菩提寺にしたのであろうか。そこに、昔の武士の表と裏の二面性があるのだろうが、もし勝時が信仰していたらしい日蓮宗が、不受不施派か近いものなら、隠す必要があったであろう。中山勝時をつれて来たと『知多郡史』に出てくる日観は、身池対論で池上大坊本行寺を出た不受不施派の中妙院日観上人とは時代が合わないから別人だが、不受不施派は江戸時代も弾圧されたからである。尾張なら日蓮宗に対する風当たりは江戸ほどでなく、尾張中山氏は日蓮宗を通せたということだろうか。江戸で将軍のそばに仕える旗本としては、徳川家と同じ浄土宗であれば問題なく、中山氏の嫡流とその分かれの人々は、江戸に生活の基盤を作ってからは天徳寺を菩提寺にしたのかもしれない。

<増上寺の扁額>

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(注)天徳寺は、小生が統合プロジェクトで深夜残業あるいは徹夜のときにとまっていたホテルのすぐ近くでした。中山家の墓も拝見しましたが、他家のそれも比較的新しい墓はどうしても撮影することができませんでした(天徳寺の写真は撮りましたが)。しかし、字ばかりでは何なので、増上寺の写真を入れています。

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