船橋御殿地と徳川家康
船橋は、伝説によれば、当地に来た日本武尊が船を連ねて、橋としたことから、船橋というようになったという、古代からある集落、あるいは町である。つまり、意富比(おおい)神社ともいう船橋大神宮に関して、『日本三代実録』貞観5年(863)の古記録が存在することなどから、起源は古代といえるが、いつから船橋の集落ができたかは明確には分からない。中世においても船橋は、船橋浦から鎌倉へ船でいくことが出来、佐倉道(後に東金御成街道と重なる道)や西には海神につながる行徳道、東は大神宮下で佐倉道から分岐し、馬加(幕張)などへのびる上総道と複数の道が交わる、水陸交通の要衝であった。
<船橋大神宮>
近世においても、船橋は銚子などと同様に、海運の拠点であり、陸上交通の面でも、木下街道や東金御成街道といった新しい街道も整備され、船橋は後に宿場町として大いに繁栄することになる。その船橋に目をつけた代表人物が、徳川家康であった。その家康は、船橋に鷹狩の宿泊所と称して、船橋御殿を造営させた。JR船橋駅の南、勤労市民センターから東へ弓なりに続く道は「御殿通り」といい、しばらく行くと日本一小さいという東照宮が路地を左に入ったところにある。その東照宮がある周囲を「御殿地」といって、江戸時代初期に船橋御殿があった場所である。今でも、「御殿地」の○○屋というように屋号とあわせて呼ばれたり、○○「御殿地」と集合住宅の名前になっていたりして、「御殿地」や「御殿通り」は当地に古くから住む船橋市民には、馴染みのある地名である。
<「御殿地」付近の地図>
「御殿地」には、慶長18年(1613)に徳川家康、秀忠父子の鷹狩用の船橋御殿が建てられた。いわゆる東金御成街道沿いに鷹狩のための宿泊所という名目で御殿が建てられたが、東金街道には信玄の棒道を手本とした軍事目的の要素があったように、その御殿も諸大名の監視、情報収集の拠点という意味合いがあったらしい。慶長19年(1614)正月7日、東金で鷹狩をするといって江戸城を出立した家康は、その日の夜、船橋大神宮神主の富氏屋敷(後の船橋御殿)に宿泊したという伝承があるが、本当のところは分からない。実際には、7日宿泊したのは葛西城があった青戸御殿で、船橋に入ったのは8日で船橋御殿では休憩しただけというのが真相らしい。また家康だけでなく、その子秀忠、孫の家光も、船橋御殿に泊まったという。しかし、その東金での鷹狩で、何かヒントをつかんだのか、鷹狩でリフレッシュして頭の切替ができたからなのか、江戸城に戻った家康は、大胆な策に出た。すなわち、三河以来の譜代である大久保忠隣を追放することによって幕府内での権力争いに決着をつけ、本多正信、正純父子にニ代将軍秀忠を補佐させることにした。ついでに大久保忠隣と姻戚になる安房の大名里見氏を、慶長19年(1614)9月9日に伯耆国倉吉へ改易する。なお里見氏は、その8年後には、安房の戦国大名以来の家が絶たれることになる。さらに、大坂冬の陣がその年の10月に戦われることになる。
翌元和元年(1615)5月8日、大坂夏の陣において、豊臣秀頼、淀殿母子は大坂城内で自刃し、秀吉から二代で豊臣氏は滅亡した。そして、その年の11月に家康は再び東金遊猟を行い、帰路の25日に船橋御殿に宿泊した。昼過ぎ、家康は船橋付近でも鷹狩を行ったらしい。その宿泊した晩に船橋の通りが火事に見舞われ、家康を狙った放火かという説もあったが、船橋御殿は焼けず、家康も無事であった。その際、鉄砲で狙われた家康を船橋大神宮の神主が助けたという話もあるが、単なる伝承であろう。
当地と徳川家康を結びつける伝承は、他にもあって、例えば船橋大神宮の境内には、今も土俵があって、奉納相撲が行われるが、それは家康が当地に来た時に上覧に供したのが始まりという。また、船橋浦で獲れた江戸前の魚は、江戸城御台所に献上されたために、船橋浦は「御菜の浦」といわれるが、その起源も家康に魚を献上したことであるという。その時、漁民が内海、すなわち船橋浦の漁業権を所望したのに対し、家康は「内海」姓を希望していると勘違いして、漁師に「内海」姓を与えたが、漁業権を欲しがっていると知り、その漁業権と「内海」姓の両方を与えたという。ちなみに、この内海さん、「うつみ」ではなく、船橋の場合は「うちうみ」と読む。
それは兎も角、この「御殿地」は、中世から「御殿地」に館を構えていた富氏の当主、富中務大輔基重が江戸幕府に土地と邸宅を貸し出し、慶長17年(1612)頃、東金御成街道の建設とあわせて、江戸幕府が伊奈忠政(あるいはより古い時代に伊奈忠次)に差配させて船橋御殿を造営した場所である。実際に、船橋御殿が存在したのは、江戸時代初期のみであり、寛文11年(1671)には船橋御殿は廃され、貞享年間(1684-1688)船橋大神宮の宮司、富氏に下げ渡され、再び富氏の所有となったという。そして、富氏はかつて船橋御殿があった中心地に、船橋東照宮を建てたという。
<「御殿地」にたつ船橋東照宮>
船橋御殿は地図でもわかるように、きちんとした方形ではなく、上底が短い短冊形に近く、周囲には土居がめぐっていた。今でも土居があったらしい場所の内側はやや高く、その外側には堀があったようで少し低くなっている。また、この富氏屋敷は夏見入江の西岸に位置し、船橋城とは入江を挟んで対面の場所になる。また、この「御殿地」の北に隣接した場所に現在西福寺にある南北朝期の五輪塔や鎌倉期の宝篋印塔があったと伝えられ、そこに前述の安養寺という律宗寺院があった模様である。
<東照宮の南東地点、自販機の向こう側(東)が急に低くなっている>
<前写真の低地を南から撮った~道はかつての堀あとか>
船橋御殿があった中心地は、少し周囲より高くなっており、日本一小さいという東照宮がまつられている。もっとも、千葉県内にも、これより小さい東照宮があるといい、船橋の東照宮の宣伝勝ちといえようか。
「御殿地」を取り巻く周囲の街並みに目をむけると、その南にあたる本町三丁目には寺がいくつも固まってあり、まさに寺町の様相を呈している。そこにはかつての宿場にいた「八兵衛」と俗に言う飯盛女(下級の遊女)も薮入りの参詣を許されたという、因果(えんが)地蔵尊や船橋の漁場争いで入牢してなくなった漁師惣代を弔う意味で行われる「飯盛り大仏」の風習で知られる不動院、お女郎地蔵のある古刹浄勝寺、その他漁師町らしく難陀龍王をまつる龍王堂のある覚王寺などがある。因果地蔵尊のある寺が海岸山圓蔵院という名前であるのに象徴されるように、寺町の南はかつては海が迫っており、漁師の集落があった。そのため、漁師町特有の龍神がまつられていたり、漁師町の人々の祈りを込めた石仏や風習が残っている。そして、後に街道が発達し、宿場として繁栄するようになると、宿場の裏の世界の住人である遊女たちの信仰も集めるようになり、関連する逸話も残っている。
<因果地蔵尊>
<不動院の石造釈迦如来像~この大仏の顔に毎年2月28日に飯を盛る>
さらに、かつての宿場の西のはずれ、お仕置き場があったという場所には西向き地蔵がある。どういうわけか、お仕置き場と遊郭は場所的に近くにあることが多いようで、江戸の新吉原の近くには小塚原の刑場があり、「生まれては苦界死しては浄閑寺」という投げ込み寺で知られた三ノ輪の浄閑寺がある。品川遊郭の近くには、鈴が森の刑場があった。その例にもれず船橋も、西向き地蔵の近くに遊郭の建物が現存する。その辺りが、近世船橋の市街地の西端で、実はその付近の道路がクランクしている。
道路がクランクしているのは、城下町である佐倉や中世城館のあった手賀などの手賀沼周辺の集落、あるいは江戸川河口、東京湾に面した行徳の古い通りにも見られる。皆敵が侵入してきた場合にその勢いを減じる効果を狙ったものといえる。
船橋も「御殿地」を守る仕掛けとして、西側の道のクランク、本町通りの道を挟んだ寺町(古来、寺はいざというときに立て籠もることの出来る場所であった)の存在が意味を持っていたのではないか。
<西向き地蔵>
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