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2006.06.03

徳川家康と知多半島(その16:幕臣になった岩滑中山氏の後裔)

前回、岩滑中山氏についてあれこれ書き、期せずして子孫の方から連絡があって、ヘロン氏も加わって、いまだにやり取りが続いている。中山氏が岩滑に来たのは、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻め下し、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたと、「阿久比町誌」など各書が書いている。これに対し、「緑区ルネッサンスフォーラム会報」では中山氏は永正年間に岩滑に来たとしているが、これも裏付資料があるようで、一説に中山勝時は岩滑生まれという。

中山氏が桶狭間(洞迫間:くけはざま)、北尾を領していたのは事実であろう。桶狭間は今の名古屋市緑区有松であり、北尾は近世での北尾村、後の北崎村で、現在の大府市北崎町である。その近くには、緒川水野氏の配下で天文年間に水野信元による成岩城攻めの後、成岩城に入ったという梶川五左衛門がそれ以前に拠った横根城があった。つまり、天文年間には、少なくとも北尾の辺りは水野氏の勢力が及んでおり、その関係で中山氏は水野氏の配下になったのではないか。やはり岩滑に中山氏、具体的には中山勝時が来たのは、宮津(現阿久比町宮津)の新海淳尚が水野信元に攻められて屈服した、天文12年(1543)以降であろう。

<水野氏が攻略した成岩城址>

Narawajyou

中山氏と桶狭間、それ以前の近江湖北における浅井氏や京極氏との関連などは興味が尽きないが、なにせ現在は材料が乏しく、後は現地に行くくらいしか手がない。おぼろげながら、「京極から浅井にいたり、物頭をしていた」という浅井の線では、尾張苅安賀城にいた尾張浅井氏は近江浅井氏の分流といわれ、中山氏はその尾張浅井氏から何かの事情で離れ、桶狭間に住んだということも考えられる。それは南朝云々ということではなく、別の御家の事情であったかもしれない。

また、かつて大野の一部に属した草木において、曹洞宗長松山正盛院を開いた栄信正盛尼は、水野忠政の娘で、於大の方の姉妹であるが、その正盛院の開山は快翁龍喜禅師で、禅師は水野忠政の家臣中山又助の次男だったという。この快翁龍喜禅師も、岩滑の中山氏の一族だったらしい。禅師は宝飯郡八幡村(現豊川市八幡)の西明寺実田以転和尚の法灯を継ぎ、師をたすけて曹源寺草創に参画し、その二世住職となった後、天文9年(1540)に西明寺四世住職となり、天文13年(1544)に正盛院の開山に招請されている。禅師の生年は分からないが、少なくとも水野忠政の時代には、中山氏は水野氏配下であったと思われる。晩年快翁龍喜禅師は、請われて今川義元以下桶狭間合戦で戦死した今川将士の引導供養の大導師をつとめたが、祖先が住んだ桶狭間での戦死者の供養とは如何なる偶然か。

<中山氏と親交のあったという岩滑の新美南吉生家>

Niiminankichi_seika

それはともかく、中山氏は勝時の代に、岩滑城主となり、水野忠政の娘婿として、また徳川家康の義理の叔父として、大いに活躍した。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三によれば、「●勝時  五郎左衛門 民部大輔」は、

「水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」

その子のうち、長男五郎左衛門(光勝か)は徳川家康に仕え、水野忠重に附属せられたというが、若くしてなくなった(その子が常滑水野氏を継いだ保雅であり、血脈は連綿として続く)。光勝と呼ばれる五郎左衛門の養子、中山重盛は水野勝成に仕え、勝成が福山に転封の後も随い、福山水野家の家老職をつとめた。この家が、本来の中山氏の嫡流である。

中山勝時の事実上の後継は「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」で、彼と弟「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」の子孫が徳川将軍家の旗本となった。すなわち、勝政は「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)につかへたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、のち大番をつとむ。慶長七年伝通院御方(於大の方)逝したまふのとき、御ゆかりあるをもって、御遺物として御茶入及び唐物箔蒔絵の盆をたまふ。九年より台徳院(徳川秀忠)につかへたてまつる。十八年三月十八日死す。年六十九。法名浄円。葬地勝時におなじ(高野山)。妻は荒川左衛門大夫某が女」と記されいる。

一方、勝尚については、「勝尚 五平次 中山民部大輔勝時が三男 母は水野右衛門大夫忠政が女」として「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)に仕へたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、其後台徳院(徳川秀忠)に奉仕し大番をつとめ、後組頭にすすむ。慶長七年四月四日死す。年四十九。法名道荷。」となっている。兄弟の事績が殆ど同じ、領地の場所も石高も同じであるが、同時に家康に召抱えられ、兄弟仲良く分けてと領地も与えられたのだろうか。ただ、弟の方が先になくなったことなどは分かる。

<江戸城の桔梗堀>

Kikyobori_2

前述のように、勝政の系統が主流となり、連綿と旗本の家督を継いでいっている。一方、勝尚の系統も、勝信、勝阜と続き、特に勝阜という人が優秀だったのか、御徒頭、御先鉄砲頭などをつとめ、上野国邑楽、下野国梁田、武蔵埼玉の采地加増あり、千三百石となり、少なくとも天明二年に家督相続した愛勝(采地千三百石)という人の代まで旗本であり続けた。尾張中山氏は、この勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まるというが、どういうわけか勝秀という名は『寛政重修諸家譜』には見当たらない。中山文夫氏調べの系図では、勝信の弟となっている。

異色なのは、勝時の末子長円で、野間大坊大御堂寺の住職となり、後に水野姓になっている。

一方、主流となった勝政の子孫であるが、長子である忠光(茂左衛門)は別家を立てている。しかし、その子孫も旗本である(後述)。

忠光の弟、勝光は大坂陣で戦死、次の重時が家を継いだ。「●重時 猪右衛門 母は左衛門大夫某が女」は、「元禄(文禄か)四年より東照宮(家康)に仕へたてまつり、のち父勝政が遺跡を継。其後大坂の御弓奉行をつとむ。寛永十五年正月九日大坂にをいて死す。年六十。法名道愛。彼地の大蓮寺に葬る。妻は堤氏の女」とある。さらに重時の弟政長は別家をたてるが、子の勝之の代で絶家、末弟忠直は徳川秀忠に仕え、下総香取郡で四百石を領し、天明六年に相続した勝直まですくなくとも続いている。重時の後は幸時が継いだが、この人は御書院番をつとめ、七十余まで生きたが、長年の精勤に対し黄金二枚を賜った。幸時は元禄四年になくなり、西久保天徳寺に葬られた。のち代々の葬地が天徳寺となる。幸時の弟時定は別家をたてた。また幸時の子時長も御書院番であったが、三百石をとりながら父より先になくなっている。その後の政時は二十四歳でなくなり、末期養子の時之が元禄四年に継ぐが、この人に認められたのは、時長-政時と受け継がれた三百石のみで、幸時の五百石は幕府へ収納とあいなった。時之も子がなく、時之が末期養子となったが、この人は御書院番となりながら行状に問題があったらしく、改易となった。

幸時の弟時定は、「寛文二年十月九日めされて、小十人に列し、」家綱のもとで御納戸番などをつとめた。その子、時春は優秀だったようで、御納戸番から御腰物奉行、御目付を歴任、五百石となり、播磨国のうちで五百石加増、勘定奉行となり、播磨のうちをあらため、上総国埴生市原両郡で千石加増され、千五百石となり、従五位下出雲守となった。この人は、相模などの川普請(治水事業)でも功績があった。その後、豊時、時富と家督は移り、時庸(ときつね)は大坂町奉行をつとめたが、新規開墾の租税を私した嫌疑をかけられ閉門となり、後許されたが上総の采地のうち五百石を削られた。その後、時寿、時章、時倫と相続、時倫は千石、御書院番に列した。

<徳川将軍家の菩提寺:増上寺>

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<増上寺にある徳川家廟所>

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では、勝政の長男である茂左衛門忠光の系統はどうか。「●忠光 茂左衛門 中山猪右衛門勝政が長男。母は荒川左衛門大夫某が女」で「水野惣兵衛忠重に仕へ、のち土方勘兵衛雄久に属し、天正十八年小田原の役に戦功ありしかば豊臣太閤より時服及び銀銭をたまふ。十月めされて東照宮(家康)に拝謁し、御家人に列し大番をつとむ。十九年七月上総国望陀周准二郡のうちにをいて采地五百石をたまふ。慶長五年関原御陣に供奉し、六年七月十四日死す。年三十六。法名清玉。高野山に葬る。」とあり、歴戦の勇者であったらしい。しかし、なぜ長男なのに別家をたてたのか。江戸時代の初め頃まではよくあった話で、二代将軍徳川秀忠も三男であったが、兄結城秀康存命であったにもかかわらず、家康の跡を継いだ。なお、文中御家人とあるが、旗本の意であろう。

忠光の子は忠勝、この人も大坂冬、夏の陣に参じ、大和国のうちで二百石加増となり、寛永元年にはその地を常陸国新治郡筑波郡にうつされ、寛永十年には筑波でさらに二百石加増となった。寛永十六年には竹橋門普請の奉行をし、慶安元年には家光の日光参詣にしたがっている。その忠勝は「万治二年十一月四日死す。法名浄林。西久保の天徳寺に葬る。後代々葬地とす。妻は荒木十左衛門元政が女」とあり、九百石の大身となり、その人の代から天徳寺が菩提寺になっているのが分かる。その後、この系統は、勝久、勝尋(かつひろ)と続くが、(江戸城の)「隍塁」や飯田町の普請を行い、御徒頭、御先鉄砲頭をつとめた勝尋は、弟久寛に二百石を分け与えている。勝尋のあとは久敬(後書院番組頭)、勝彭(かつちか:御小姓番士、御小納戸)、勝直(御小納戸)と続き、そのあとの勝高が夭折し、末期養子で入ったのは「●勝正 藤七郎 肥後守 信濃守 従五位下 実は中山大隈守時寿が三男。母は某氏。勝高が終にのぞみて養子となる」である。この人は安永8年5月に後継ぎになっているが、御小納戸から御小姓となり、将軍家斉親筆の書をもらったり、鷹狩ではいられた鳥をもらうなど、覚えめでたかったようである。その子では早世した者を除くと、幼名太郎吉、虎吉、留吉という男子がいたようだが、その後は知らない。

その他、勝政の五男である六郎右衛門忠直の系統もあり、忠直は徳川秀忠につかえ大坂の両陣に参じ、下総香取郡のうち四百石を知行されるなど、代々御天守番、大番を勤め、天明六年に相続した勝直まで続いている。ほかに、その系統から派生した家もあるが、長くなるので省略する。

                          <天徳寺門前の西之窪観音の碑>

Tentokujiちなみに、文中出てくる西久保の天徳寺とは、虎ノ門の愛宕山下の浄土宗の寺院で、松平家、大給家などの墓もある。芝には徳川将軍家の菩提寺である増上寺があり、虎ノ門あたりも浄土宗の寺が多い。しかし、なぜ尾張中山氏は日蓮宗で、旗本となり江戸に出てきた嫡流は浄土宗の寺を菩提寺にしたのであろうか。そこに、昔の武士の表と裏の二面性があるのだろうが、もし勝時が信仰していたらしい日蓮宗が、不受不施派か近いものなら、隠す必要があったであろう。中山勝時をつれて来たと『知多郡史』に出てくる日観は、身池対論で池上大坊本行寺を出た不受不施派の中妙院日観上人とは時代が合わないから別人だが、不受不施派は江戸時代も弾圧されたからである。尾張なら日蓮宗に対する風当たりは江戸ほどでなく、尾張中山氏は日蓮宗を通せたということだろうか。江戸で将軍のそばに仕える旗本としては、徳川家と同じ浄土宗であれば問題なく、中山氏の嫡流とその分かれの人々は、江戸に生活の基盤を作ってからは天徳寺を菩提寺にしたのかもしれない。

<増上寺の扁額>

Zoujyou003_1

(注)天徳寺は、小生が統合プロジェクトで深夜残業あるいは徹夜のときにとまっていたホテルのすぐ近くでした。中山家の墓も拝見しましたが、他家のそれも比較的新しい墓はどうしても撮影することができませんでした(天徳寺の写真は撮りましたが)。しかし、字ばかりでは何なので、増上寺の写真を入れています。

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コメント

mori-chanさんへ
本当に有難う御座います。
知多半島からの中山家の長い歴史の流れがわかりました。
そして、御先祖にこんなに詳しい物語があったとは感激ですね。
記述の中の「●勝正 藤七郎 肥後守 信濃守 従五位下 実は中山大隈守時寿が三男。母は某氏。勝高が終にのぞみて養子となる」当人の墓石が虎ノ門の愛宕山下栄寿寺(芝西久保巴町)で私共が日頃お参りしているお墓です。
栄寿寺も平成7年7月に関東大震災(大正12年9月)で焼け落ちた本堂・客殿・庫裡が先代住職の永年の努力で再建されました。
桜の季節は愛宕山の桜と本堂の屋根とが何とも言えぬ良い眺めです。
mori-chanさんの書かれた記述を全てプリントして、99歳の親父の
楽しみに読むように持って行きます。

投稿: s.nakayama | 2006.06.04 11:33

小生の拙い文章がお役にたつなら、幸いです。
愛宕山は、去年まで従事していたシステム統合の仕事で遅くなったりしたときに泊まっていたホテルがすぐ近くにあり、朝愛宕神社のところまでのぼったり、近くのファミレスで食事したりしていた場所で、虎ノ門から御成門にかけては、勤務先、会社の事務所が近かっただけでなく、昔から何かと縁がありました。
去年11月知多に来るまで、中山氏についてもよく知らなかったのに、徳川家康の行動を追ううちに興味をもち調べるようになったのが実態です。それが、東京の自分がよく立ち寄っていた地域と関係あるとは、世の中広いようで狭いのかもしれません。

投稿: mori-chan | 2006.06.07 07:56

先般、予告しました
特別展:「ごんぎつね」の殿様 中山家と新美南吉
の紹介記事を投稿しました。御覧下さいませ。


http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/4da2278b1f624ba964a3d4429a2fd830

投稿: 「ごんぎつね」展 | 2006.06.26 02:30

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受信: 2006.06.26 02:31

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