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2006.06.08

芝増上寺と周辺史跡

芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち♪ (端唄)

芝で生まれて神田で育ち、今じゃ浅草名物で ギター鳴らして歌うたい♪ (川田義雄とミルクブラザーズ「地球の上に朝が来る」)

Matoime_2 芝は江戸っ子が生まれるにふさわしい場所といわれていた。芝は神田や浅草という場所と同様に、江戸の「粋」や「いなせ」という言葉が似合う場所である。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事を消し止める火消しは、その「粋」のさいたる職業であったかもしれない。芝で火消しというと、「め組」である。実際、増上寺の境内には、増上寺門前を守った町火消し「め組」の碑がある。享保元年(1716)建立というから290年前に建てられたものである。これは、「め組」の殉難者・物故者の供養碑であるが、増上寺自体は寺社奉行、大名火消しの管轄である。

<増上寺境内の「め組」殉難碑>

Megumihi

しかし、今では浜松町の貿易センタービルに象徴されるように周囲はビジネス街となり、愛宕山の辺りまでビルも建ち並んでいる。

芝にある増上寺は、古い浄土宗の寺である。増上寺が開かれたのは、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれ、天正十八年(1590)、小田原後北条氏にかわって関東の地を治めることになった徳川家康は、その存応上人に帰依し、徳川家の菩提寺として増上寺を選んだ。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転した増上寺は、徳川将軍家の外護のもと、大きく発展していく。三解脱門、経蔵、大殿が建立され、三大蔵経が寄進されるなどした。家康は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行い、久能山に埋葬するようにとの遺言を残し、75歳で歿した。

このように、増上寺は上野寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺であり、徳川家の庇護のもとに大きくなった寺であるが、江戸城からみると西南にあたり、鬼門を守る上野寛永寺(あるいは浅草の浅草寺)、同じく西南の裏鬼門を守る山王日吉神社などとともに、その場所には呪術的な意味もあったという。

増上寺の「大門」は、都営地下鉄の駅名にもなり、最近では浅草線にくわえて大江戸線もとおっている。大門といっても、それほど大きくはなく、現在の門は再建されたもの。他に「御成門」も現存するが、こちらも都営三田線の駅名となっている。

「御成門」は増上寺の北方馬場にあった裏門であり、なぜ「御成門」というかといえば、徳川将軍家が増上寺に参詣する折に、この裏門がもっぱら用いられたため、「御成門」と呼ばれた。今は芝公園内にあるみなと図書館の道路をはさんだ向かい側、東京プリンスホテルに隣接した場所にあるが、あまり目立たない。元々は、現在の御成門交差点付近にあったが、日比谷通りが作られた際に現在地に移された。

<現存する御成門>

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<夕暮れ時の大門>

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<昼間の大門>

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大門を抜けると、浄土宗の寺院が並ぶ大通りの突き当たりに、ひときわ大きな増上寺の三門(三解脱門)がある。これは、江戸初期の建造で、東京都内最古の建築物になるらしい。三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造りの三門で、元和八年(1622)、江戸幕府大工頭・中井正清とその配下による建立で、国の重要文化財に指定されている。

<増上寺の三門(三解脱門)>

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<近くから見た増上寺三門~朱塗りが鮮やかに目に焼きつく>

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その三門をくぐると、増上寺の境内である。増上寺の境内には、新しい本堂や鐘楼があり、本堂の裏の墓地の一角に徳川家廟所があって、徳川秀忠らの将軍が葬られている。

近くに東京プリンスホテルがあるため、その宿泊客らしい外人などの人々が境内を散歩している。こちらも出張のついでとはいえ、朝から寺の境内を歩くのも、信心深いというより、単なる気分転換に近い。

<増上寺の境内>

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この増上寺の境内には、新しい本堂や鐘楼堂があり、本堂の裏の墓地の一角に徳川家廟所があって、徳川秀忠らの将軍が葬られている。

鐘は江戸時代の川柳に、「今鳴るは芝か上野か浅草か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」などとうたわれた。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草は浅草寺、何れも徳川家が江戸の守りとして信仰した寺を示している。鐘楼堂自体は戦後の再建であるが、鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成した、江戸三大名鐘の一つに数えられた鐘だという。

<「芝の鐘」と川柳にうたわれた増上寺の鐘>

Zoujyojikane

増上寺といえば、前述のように徳川家の菩提寺である。

ここには、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍たちが眠っている。その廟所の門は「鋳抜門」といい、六代家宣の墓所にあった門であるという。上野寛永寺には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓所がある。初代家康は久能山から日光東照宮に改葬され、三代家光も日光輪王寺に墓がある。

十五代慶喜は、寛永寺の谷中霊園における飛び地にあるから、それも寛永寺に含めれば、初代から十五代の徳川将軍家は、日光に二人、寛永寺に七人、増上寺に六人が葬られていることになる。しかも、徳川家は浄土宗であったのだが、家康の東照宮の神道は良いとしても、三代家光の霊廟のある輪王寺は天台宗で、四代家綱らの眠る寛永寺は、東叡山(東の叡山の意)と号する徳川家が建てた寺で、天台宗と、なぜか数の上では天台宗のほうが優勢である。

また、各代交互に寛永寺と増上寺ではなく、四代、五代が寛永寺、六代、七代が増上寺、十代、十一代がまた寛永寺となっているのが、いかなる理由かと思ってしまう。八代吉宗と五代綱吉の墓については、「わが墓は、上野寛永寺にある常憲院様(綱吉)のそばに設けよ」と吉宗が遺言し、同じ寛永寺にあるのは納得できるにしても、それ以外については、どう配分したのかが今ひとつ分からない。

<増上寺の徳川家廟所>

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実は増上寺の徳川家廟所の前に、葵の紋を染め抜いた幕のかかった建物(安国殿)があるのだが、これは徳川家康の信仰していた黒本尊をまつっている。黒本尊とは何か、なにやらおどろおどろしい。安国殿の「安国」とは、「暗黒」なのではと思ってしまうが、何のことはない、徳川家康の法名である。

増上寺のオフィシャルHPによると、「恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願した。その歿後増上寺に奉納されたましたが、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めてきています。黒本尊の名は、永い年月の間の灯明の煤(すす)で黒ずんでいることによります。やはり家康公の命名といわれています。」とあり、「黒本尊」とは阿弥陀如来の煤で黒くなった像ということになる。

<黒本尊をまつる安国殿>

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本堂の裏に四観音という、石の観音像があるが、こちらはそれほど古くはなさそうだ。そのほか、境内には西向観音などもある。

<朝の増上寺四観音>

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都会の喧騒を一時忘れるような増上寺を出て、御成門方面を日比谷通り沿いに歩くと、かつて「田村町」と言われていた地域に出る。ここが「田村町」といわれるのは、忠臣蔵で有名な田村右京大夫の屋敷があったからである。しかし、田村右京大夫は忠臣蔵で有名といっても、浅野内匠頭が松の廊下の刃傷の後、その屋敷に預かりとなり、そこで切腹したということで、有名なのであって、直接登場してくる人物ではない。したがって、田村右京大夫とはどんな人か、東北は一関辺りの大名であること以外、よく分からないのである。そういえば三春にも田村という大名がいたが、伊達政宗の縁者であった。田村右京大夫は、その子孫なのであろう。たまたま、後世において、幕府の命令で浅野内匠頭を屋敷内で切腹させることになり、本人は忠臣蔵に登場しないのにも関わらず、「田村町」という地名は長く残った。

<田村右京大夫の屋敷址にたつ浅野内匠頭の碑>

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その辺りから霞ヶ関方面へ北上し、虎ノ門へ出る。虎ノ門は、現在ではオフィス街であり、ビルだらけであるが、かつて江戸城の外郭の門である虎ノ門があった。しかし、明治初期に、その門は撤去され、何も残っていない。地下鉄虎ノ門駅の出入り口近くに、虎の銅像があるのだが、小さい銅像で、作者には悪いが猫に見える。

<虎ノ門の虎>

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そこから再度南へ下ると、愛宕山がある。小さいとはいえ、立派な山。ここには愛宕神社があるのだが、東京都心にある山といえば、唯一ここだけである。その愛宕神社の創建は、社伝によると、慶長8年(1603)という。やはり、この小山を愛宕山というのは、京都の愛宕山から命名されたのであろうか。愛宕神社には小さな池があり、桜の季節には桜の花が水面に映えて美しい。愛宕神社は火産霊命を祭神とし、火ぶせの神社である。そして、ここも徳川家康が信仰した勝軍地蔵が祀られているとか。増上寺付近は、よほど徳川家の護りがかたいらしい。

<愛宕神社の石段>

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その愛宕神社の石段は途中におどり場がなく、高くて比較的角度も急である。石段一つ一つはそれなりに幅もあるのだが、手摺りを使わないと転げ落ちそうで、高度恐怖症の人には上ることはできないであろう。小生、鎌倉の護良親王の墓の石段を上ったときも、後ろを振り返らずひたすら上ったが、この石段は手摺りを使わずに上ることができなかった。しかし、小生が石段を下りたあと、手摺りを使わずに上っていった人を目撃し、感心したが、話している言葉からすると韓国人らしかった。韓流は強しであろうか。

<増上寺三門前>

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