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2006.06.15

関東争乱と小弓公方足利義明

小弓公方足利義明は、関東に覇を唱えようとして、第一次国府台合戦で後北条氏の軍勢と戦い、なくなった人物として有名である。しかし、その若い頃については余り知られていない。

<鎌倉鶴岡八幡宮の三の鳥居>

Hachimangu

元々室町将軍家は、鎌倉に出先機関のような一族(彼ら自らは「関東公方」、あるいは「鎌倉公方」と僭称)を置いて、東国を統治させようとした。足利尊氏は建武3年(1336)に京都に幕府を開いたが、鎌倉には一族の基氏をおいた。それが代々世襲されたのだが、配下の上杉氏と対立するようになり、同時に室町将軍家とも不和になり、また上杉氏は室町将軍家につくなどして、鎌倉での政治勢力は、複雑な様相を呈することになる。応永23年(1416)関東管領であった上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏に対して挙兵する事件が置き、その乱(上杉禅秀の乱)は室町幕府と協力した持氏によって鎮圧された。しかし、その後独立を志向する持氏は室町幕府に反抗するようになる。

<関東公方足利氏所縁の「竹の寺」、報国寺の庭>

Houkokuji

そして、関東管領となった上杉憲実が、持氏を制止しようとすると、逆に持氏は上杉憲実を攻め、逃れた憲実を救援すべく、室町将軍家義教は足利満直や今川範忠に命じて持氏を討伐しようとし、また持氏の周辺でも寝返りがあって、持氏は称名寺で出家、移った永安寺で、義教に命じられた上杉憲実の軍勢に囲まれて自刃した。その長子義久も竹の寺として有名な功臣山報国寺に入って自刃した。これが世に言う永享の乱で、永享10年(1439)のことであった。さらに、翌年、持氏遺児春王丸、安王丸は、結城氏朝らに擁立され、結城氏が室町幕府に対して反乱を起こし、幕府軍と戦い、敗れるという事件が起きた(結城合戦)。その際、捕えられた春王丸、安王丸は美濃で斬られたが、一人残った遺児永寿王丸は信濃に逃れていた。永寿王丸は、後に関東公方足利成氏となり、享徳4年(1455)に父の仇である上杉憲実の子憲忠を謀殺、室町幕府の追討軍と戦ったが、下総の古河に入って鎌倉陥落の報を聞き、その地に留まった(享徳の乱)。これが、古河公方の始まりである。

<報国寺の滝>

Houkokujitaki

その古河公方に対する態度をどうするかは、周辺諸豪の関心事で、その去就と大いに関係があった。足利成氏に従うか否かをめぐって対立した千葉宗家胤と千葉氏庶長子馬加康胤や原胤房は同族相戦うことになる。当時千葉氏はかつての勢いがなく、また一族で重臣である原氏と円城寺氏が対立していた。馬加康胤は、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきたが、足利成氏を支持する立場であった。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が円城寺氏の勢力に傾き、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を攻め、千葉城を落とし、千葉宗家は一旦滅ぶ。また馬加康胤、胤持父子も、市原の八幡で、室町幕府から出兵を許された千葉氏一門の東常縁の軍勢と戦って、討死している。その後、康胤の実子とも養子ともいわれる岩橋輔胤が、原胤房らとともに、分散して抵抗を続け、馬加系の千葉氏が宗家となる。

鎌倉を追われ、古河公方となった成氏のあとをついだのは、その子政氏である。以降、古河公方も代々世襲されていく。しかし、政氏は、その長男高基と折り合いが悪かった。父子で争っていたために、高基は宇都宮にいた。しかし、永正6年(1509)にようやく両者は和解し、高基は古河に帰り、やがて政氏は久喜に隠退した。

一方、足利高基の弟義明は初め僧となり、空然と号して鎌倉雪ノ下の八正院に住んでいた。八正院は鶴岡八幡宮の若宮の別当寺の一つである。永正7年(1510)義明は還俗し、右兵衛佐と称した。そして古河に戻ってみると、父政氏と兄高基のなかはまだうまくいっておらず、義明も兄である古河公方高基と折り合いが悪く(あるいは父政氏とも不和であったという)、奥州を放浪していたらしい。黒川城に身を寄せたという話もある。

どういう訳か、足利一門は今ひとつ団結していない。足利将軍家と関東公方しかり、堀越公方しかり、古河公方の家の中しかりである。

関東が中央である京都の室町幕府と距離を置き、なかなか従わない背景には、室町幕府そのものの成り立ちからして、足利一門を中心としたかつての鎌倉の有力御家人らの連合体という基盤の弱さがあったと思うが、関東も農業などの生産力があがり、豊かな土地になってきて経済基盤が確立していたことがあると思われる。

<小弓公方足利義明が拠ったという小弓城址>

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ともかく、その後の足利義明は、真里谷武田信保(または父信勝)によって、原氏との対抗上、担ぎ出され、小弓城を奪取してからは小弓城にはいり、小弓公方あるいは小弓御所と称した。

<松戸市相模台の経世塚>

Keisei

その後、後北条氏と対立し、天文7年(1538)10月、雌雄を決すべくのぞんだ国府台合戦(第一次)において、小弓公方義明、武田、里見軍は国府台に出陣、江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍が、相模台にいた小弓軍を破って南下したことを知った義明は千の手勢を率いて北上して交戦し、義明本人とその子義純、弟基頼ら約140名が討たれた。

房総の歴史に急に表れて、いかにも暴れん坊らしく、なくなっていった足利義明であるが、その若き日、また彼が登場するまでの関東の歴史は、前述したような戦いの連続だったのである。その意味で、足利義明は、関東争乱の一種の申し子だったのかもしれない。

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鎌倉市には鶴岡八幡宮があり、有名ですが、ここ逗子には亀岡八幡宮があります。相模国風土記に記述があるということで年代不詳ながら由緒は古いようです。 [続きを読む]

受信: 2006.06.22 16:24

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