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2006.07.24

京都三哲~西本願寺周辺を行く

京都には、歴史のある地名が多いが、そのなかで京の通りの名となっているものは、「丸竹夷」など歌にもなっており、親しみを感じさせるものである。しかし、由来がよく分からないものもあった。例えば、京都駅近くにある「三哲」が、小生にとっては長年の謎であった。

<京都の駅前は変わってしまったが、京都タワーは健在>

Kyototower

以前、当ブログの「数字と地名」という記事(去年の8月の記事)で、小生以下のように書いていた。

「例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。」

この三哲、いかなるいわれのある地名なりやと、思い続けていた小生、案ずるより産むがやすしではないが、関西出張の際に、また京都を訪ねたのである。

京都駅からほど近い場所に、三哲のバス停がある。近所の喫茶店のマスターにお聞きすると、以前三哲町という町名(といっても家が十数軒集まったような場所)があり、それから三哲通りとなったのではないかとのこと。近くの「魚の棚」や「大工町」、「油小路」といった地名についても、その周辺は本願寺の影響のあった場所で、そのため職人や商人が住んで本願寺に物品を納めていた関係からついたものだと教えられた。

<三哲のバス停>

Santetsu

しかし、三哲とは「大工町」というような商工業に関連した地名ではない。別のいわれがあるのだろうと思いつつ、その周辺を歩き回った。すると、小さな看板があり、「梅ヶ枝の手水鉢」とある。

Umegaechouzubachi

昔はやった、「梅ヶ枝の手水鉢、たたいてお金がでるならば」の「梅ヶ枝の手水鉢」である。これは、円柱状の石の上部がくり貫かれているもの。江戸末期まで堀川通下魚棚にあったが、長らく行方不明となり、太平洋戦争中に堀川の改修で発見され、その後円山公園に一時あったが、昭和45年(1970)地元の声により、元の場所に戻すことになり、現在地に移され今日に至っている。

<「梅が枝の手水鉢」を元の場所に移した地元自治会の人々>

Chouzubachi

それはともかく、三哲に話を戻すと、喫茶店のマスターの話で、三哲も本願寺に関係あるかもしれないと思った小生、一路本願寺へ。

<西本願寺>

Nisihonngannji

本願寺と言っても、行ったのは西本願寺である。東本願寺には以前時々行って、その庭園の見事さに驚いたものだ。西本願寺は、平成の大改修ということで、工事中のところ、御影堂など以外は、工事前そのままであった。国宝の唐門は、思ったより小さかったが、華麗な彫刻が目に付く。想像上の動物であろうが、一角獣のようなものが彫られている。麒麟ではないような。獅子なども、躍動感十分だ。

<壮麗な唐門>

Karamon_1

<唐門の彫刻>

Karamon2

西本願寺の隣というか、寺域の中というべき場所に、龍谷大学がある。綺麗な講堂に惹かれて、中をのぞくと、何と京都地名研究会が講演会をしているではないか。しかも、途中ではあるが、まだ十分聴講できるし、ついでに三哲について聞いてしまえ、とばかりに会場へ。

<龍谷大学の講堂>

Ryuukokudai

ここでの講演内容はおくとして、京都地名研究会の人に三哲について聞いたみた。すると、意外や「そんなこと、急に聞かれても、答えられますかいな」という返事。「京都の通りの名の歌にもなっている地名でっせ」という言葉を押し殺し、小生帰路についた。

悶々とした気持ちを抱きつつ、快速電車で京都から神戸へ向い、外人さんがよく泊まっている、ホリデイインホテルで一泊した。ホテルにはインターネットが使えるパソコンがあるので、英語モードでない日本語キーボードのついているパソコンを借りて「三哲」を検索してみた。

すると、何のことはない、京菓子の老舗、鼓月さんのHPに「三哲」の解説が載っているではないか。「京ことば通信」というコンテンツで、「京ことば 『さんてつ』 相馬 大」のなかに、その答えはあった。

「『いま、三哲と呼ぶこと、この通り、大宮東入る町、北側に、渋川三哲と言ひし人の屋敷ありし故』(京町鑑)とある。三哲は、その屋敷を、立願寺(りゅうがんじ)という寺にした。古地図の立願寺をみると、三哲が、見える。」とあり、渋川三哲という人が住んでいたことから、三哲という地名が出来たというのが明快に書かれている。

あちこち聞き歩いたことは、無駄ではなかった。しかし、人名から来た地名という、あっけなく分かった真相に、世の中分からないことの種は尽きず、分かってしまっても、次に疑問が出てくると思った次第。立願寺(りゅうがんじ)という寺まで建てた、渋川三哲という人とは、何者?また、調べるネタが出来たというものか。

<民家横の消火器の箱に残る「三哲町」の文字>

Santetsuchou

参考サイト: 京菓子處   鼓月

http://www.kogetsu.com 

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2006.07.22

「軍都柏」のロケット戦闘機 秋水の地下燃料格納庫址など

1.ロケット戦闘機 秋水の地下燃料格納庫

柏は、現在は東京のベッドタウンとして発展し、商業地や住宅地が多く、かつて太平洋戦争の頃に様々な施設が建設された軍都であったことは、地元の人でなければ知らない人も多い。例えば、戦争中に開発されたロケット戦闘機 秋水の地下燃料格納庫の址も柏には現存する。

秋水は、ロケット戦闘機であり、昭和19年9月にドイツから図面を譲り受け、設計開発してわずか1年以内に飛行までこぎつけたものの、昭和20年(1945)に実際に飛行機が作られ、昭和20年7月に初飛行を飛行士(大尉)搭乗で行い、300m飛んで墜落したというもの。秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという、まさに名刀で一撃必殺の期待をこめて作られようとしていた迎撃戦闘機であった。

<秋水の地下燃料貯蔵庫址~実際はこの上に土を覆う予定であった>

Shusui1_1

この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、また陸軍専用機でも海軍専用機でもなく、陸海軍の垣根を越えて開発されるという珍しい事例でもあったが、結局燃料生産がうまくいかず、また完成機も上述の状況となった。
そもそも、秋水のエンジンは、甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)、乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)を反応させて推力を得るが、過酸化水素の扱いが難しかった。強い酸化作用で容器を溶かしてしまい、いくつかの試行ののち、たどりついたのが鉄分の少ない常滑焼の陶器であった。また、有機物が微量でも混ざると爆発するため、その取扱には注意を要した。そして、その危険な燃料の貯蔵庫が、陸軍柏飛行場(現柏の葉公園一帯)の東約2Kmの地域にいくつか作られたのである。

柏にはこの燃料貯蔵庫が作られたほか、秋水用の飛行場も建設されつつあった。それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、中は中空になっており、出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。

住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのこと。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。終戦直後、この燃料貯蔵庫址の一つの貯蔵庫に何家族も住んでいた。近所の子供が、遊びに出入りしようとすると、怒られたという話も伝わっている。

<出入口からは小さなタンク車が出入りするようになっていた>
Shusui2

Shusui6胴体部分も結構長い
(10mくらいはあるか)

この貯蔵庫自体は国有地にあるようだが、すぐ近くは私有地になっており、奥までは立ち入りできない。

<秋水の地下燃料貯蔵庫址~台地端の斜面に開く出入口>

Shusui3

<秋水地下燃料貯蔵庫址~~下の写真は通気孔として突き出たヒューム管>

Shusui5_1台地の縁辺に出入口があり、台地上には通気孔としてヒューム管が斜めにつきだしている。
(左側は分かりにくいが階段の途中に、燃料庫の出入口のコンクリートが見える)

Shusui4

国家予算を投じて作られた秋水は、着手して1年足らずで5機が完成、昭和20年(1945)7月に前述のように海軍が横須賀で初飛行を行ったが、不時着大破し、陸軍も昭和20年(1945)8月20日に阿南惟幾陸軍大臣立会いのもと、お披露目飛行する予定であったが、その前に終戦、阿南陸軍大臣は割腹して自決し、お披露目飛行すらかなわなかった。

註:写真は筆者(すなわち森兵男)の親類(すなわち小生mori-chan)が地域の催しの際に写したもので、写っている人物は当ブログの内容とは関係ありません。

2.高射砲部隊関連

JR北柏駅を北上し、東へいくと布施弁天方面となる布施入口のバス停付近をしばらくそのまま行くと、富勢の大きな交差点に出る。その交差点を西側(柏方面)に進めば、高野台児童公園に出る。昭和12年(1937)高野台に駐屯した高射砲第二連隊が、翌昭和13年(1938)11月に元あった市川市国府台から当地へ移動し、飛行場の防空に当たった。隊は昭和16年(1941)に主力が東京へ移り、昭和18年(1943)に廃されるまで続いた。その後、東部十四部隊、東部八十三部隊が進駐した。高射砲部隊が置かれたのは、柏市根戸の市営住宅一帯で、あちこちに残骸ともいうべき遺物が残っている。しかし、8千メートルまでしか弾が飛ばない高射砲は、高度1万メートルを飛ぶB29にはとどかなかったという。現在、高射砲第二連隊の営門の門柱の一部が高野台児童公園に移築、保存されている。

<高射砲連隊の門跡>

Koushahoumon

なお、その高野台周辺には、陸軍の馬糧庫跡がほぼ完全な形で、現在柏市西部消防署根戸分署として使用されている。ほぼ六十年前の陸軍の施設ながら、一見すると戦後建てられた小さな消防署としか見えない。この馬糧庫の屋上には、荷物を吊り上げる滑車が附いていたと思われるクレーン状の支柱が残っている。

<馬糧庫跡>

Baryouko

<屋上のクレーン状の支柱>

Baryoukosichu

3.柏飛行場

陸軍東部第百五部隊は、昭和13年(1938)に当地に開設された。その飛行場、すなわち柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置した。柏飛行場には、第五、八十七、一、十八、七十の各飛行戦隊があって、昭和19年(1944)末から激しくなったB-29による空襲に対して、B-29を迎撃し首都防衛の任務にあたった。柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、市内各所に軍事施設や軍需工場があったが、柏飛行場としては、1500mの滑走路と周辺設備を持っていて、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。現在、滑走路が柏の葉公園の脇を通る街路樹のある通りとなっているほか、何も残っていない。終戦間際の昭和20年(1945)頃になると、空襲に際して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。この柏飛行場は、戦後米軍に接収され、朝鮮戦争時にはアンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。その後、昭和54年(1979)に日本に返還され、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学、千葉大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。柏の葉公園は、休みには周囲をジョギングしたり、散歩する市民の目立つ、周辺住民の憩いの場になっており、かつてここから多くの飛行機が飛び立ち、帰還しなかったことなど嘘のようである。

陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

<陸軍柏飛行場の滑走路跡>

Hikoujyou

<東部第百五部隊の営門跡>

Hikoujyoumon1

(註)以上は、「千葉県の戦争遺跡」(森兵男)から転載(ただし、一部カット、あるいは加筆等して編集)。秋水関連の写真は、小生mori-chanが撮影しましたが、写っている人物は、地域のイベントの参加者であり、当ブログとは関係ありません。

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2006.07.19

船橋市市場にあった鴨川ニッケル製錬所

1.船橋にあった軍需工場

船橋は、昭和10年代(1935年以降)になるまで、工業といっても手工業的なものが中心であり、大規模な工場などはなかった。船橋は昭和12年(1937)に市制に移行したが、その頃から船橋に新会社の工場を設立、あるいは東京から生産拠点を船橋に移す会社が増え、一気に工業化が進んだ。その中心が、軍需に基づく金属加工や機械部品の生産であった。

昭和10年(1935)にJR船橋駅の近く、現在の西武百貨店のある場所に、昭和製粉船橋工場のビルがたったのを皮切りに、昭和14年(1939)には鴨川ニッケル工業が設立され、現在の船橋中央卸売市場にある場所に船橋製錬所が建設されて操業を開始、昭和16年(1941)には日本建鉄が行田の海軍無線電信所の西の20万坪という敷地で、軍需製品を生産した。そのほか、三菱化工、野村製鋼が船橋に工場を設けたが、何れも軍需関連である。

<船橋の中央を流れる海老川>
Matumi

2.鴨川ニッケル工業の成り立ち

鴨川ニッケル工業とは、現在の紀文フードケミファ株式会社であるが、かつては千葉県の鴨川の山中から採掘した、ニッケル原石から、特殊金属といわれたニッケルを製錬し、金属部品加工を行っていた会社で、戦時中は製錬したニッケルで飛行機部品の加工を行っていた。
紀文フードケミファ株式会社の有価証券報告書を見ると、会社の沿革については、以下抜粋したように書かれている(西暦は筆者が付記)。

昭和14年(1939)12月 鴨川ニッケル工業(株)として創業
昭和23年(1948)1月 アルギン酸製造開始(鴨川工場)
昭和31年(1956)10月  ロイド製造開始(鴨川工場)
昭和36年(1961) 10月  東京証券取引所市場第二部に株式上場
昭和37年(1962)6月  社名鴨川化成工業(株)と変更
昭和58年(1983)4月  社名(株)紀文フードケミファと変更
             (株)紀文ヘルスフーズより、岐阜工場を譲り受ける。
              豆乳の製造を開始(岐阜工場)
昭和60年(1985)9月 (株)紀文ヘルスフーズより、埼玉工場を譲り受ける。豆乳の製造を開始(埼玉工場)
昭和62年(1987)10月 子会社(株)アグミンを吸収合併。調味料製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)2月 ヒアルロン酸の製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)9月 (株)紀文ヘルスフーズ、(株)紀文フーズより営業を譲り受ける。業務用食材の販売を開始。 (略)
平成15年(2003)6月 埼玉工場がISO(国際標準化機構)14001 認証を取得
              医薬用ヒアルロン酸原体の製造承認と製造業許可を取得
              (鴨川工場)       (以下略)

上記沿革には書かれていないが、元々鴨川ニッケルが設立されたのは、特殊金属であるニッケルの軍事利用が、アジアへの侵略戦争の遂行上必要となり、その安定的な確保が要求されていたからである。昭和12年(1937)の時点では、「千葉県鴨川町郊外嶺岡山脈一帯の蛇紋岩鉱区より貧鉱処理による純ニッケル生産を計画、会社は資本金二千万円、創立委員長に日鉄会長平生釟三郎氏を推す予定」*1であったのが、翌年には「千葉県鴨川町附近の蛇紋岩を原鉱として貧鉱処理による国産ニッケルの精錬に着手」*2となり、鴨川町では既に製錬が始まったことが分かる。
そして、昭和14年(1939)12月には、正式に鴨川ニッケル工業株式会社として設立されている。 *1、*2:朝日新聞より 神戸大学調べ

船橋では昭和14年まで鴨川ニッケルの工場用地とされた、中世に船橋城があった「城の腰」が整地され、船橋製錬所建設が行われて、昭和15年(1940)には工場が操業されている。

<鴨川ニッケル船橋製錬所のあった船橋中央卸売市場>
Ichiba

その後、昭和16年(1941)12月8日には、太平洋戦争が日本軍による真珠湾攻撃によって始まり、以降日本は満州事変以降の戦線を太平洋全体に拡大するという無謀な戦争に突入した。それは、昭和天皇が陸軍の杉山元帥に中国戦線が収まらないことを問いただし、杉山元帥が「中国は奥がふかいので」と言い訳したことに対し、「太平洋はもっと奥が深いではないか」と叱責したのに象徴されるように、天皇、軍部も戦局の大局観を失い、無闇に戦線を拡大したがゆえに、経済は軍事一辺倒となり、国民生活は犠牲にされていった。

3.鴨川ニッケルの戦時下の事故

工業生産もまた、軍需優先となり、多くの国民や朝鮮人、中国人が徴用されて、工場労働に強制的に従事されることになる。
そのような状況下で、鴨川ニッケルでは、昭和18年(1943)1月10日午前1時20分頃に船橋製錬所第一工場の溶鉱炉が爆発し、従業員20名が死傷するという事故が発生した。その翌日の朝日新聞によれば、「千葉県船橋市宮本町鴨川ニッケル船橋製錬所第一工場溶鉱炉が一大音響とともに爆発、天井を破壊、作業中の従業員三十名中即死者九名、重軽傷者十一名を出した」とあり、記事には即死者の氏名、住所、年齢が記されている。即死者の住所は千葉県内八名(うち船橋市内が三名)、あと一名は茨城県結城郡五箇村となっている。年齢は二十代、三十代が多く、二十歳の者が犠牲者の最年少のようだ。また、九名全て日本人名で、なくなった人々は日本人であったのだろう。

<事故を伝える新聞(昭和18年(1943)1月11日の朝日新聞)>
Asahi_s18_1_11

彼らが徴用工であったのか、否かは不明であるが、船橋市の三名は一人が宮本町、残り二名が湊町と近所であり、湊町の一名は船橋に多い滝口姓であることから、少なくとも船橋の三名は近所に工場が出来て就職した地元青年であろう。前途有為な青年が、無謀な戦争を遂行するための「産業戦士」として動員され、事故であっけなくなくなったのは慙愧に耐えない。

<事故の後、昭和18年(1943)4月19日に建てられた慰霊碑>
Ireihi

(註)以上は、「千葉県の戦争遺跡」(森兵男)より転載。よって、上記文中で、筆者とあるのは、兵男のことです。

なお、上記に関する船橋市郷土資料館への取材は、小生mori-chanが行いました。その際、船橋市郷土資料館 山口学芸員、船橋市立図書館の綿貫啓一氏には、お世話になりました。改めて、御礼申し上げます。

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2006.07.17

徳川家康と知多半島(その17:尾張に残った中山氏の後裔)

前々回、「岩滑の中山氏」というタイトルで、現在半田市岩滑となっている知多半島は岩滑に居城を構え、徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)でもあった中山勝時の系譜について書いた。また、前回は「幕臣となった岩滑中山氏の後裔」と題して、中山勝時の子、勝政、勝尚の子孫で旗本になった中山氏後裔について述べた。これらについては、旗本となった中山氏の御子孫から、コメントを頂いたりしたが、前回までの記事では地元尾張に残った中山氏、つまり尾張徳川家に仕えた尾張中山氏については、あまり触れていなかった。

この7月15日、愛知県半田市岩滑西町にある新美南吉記念館において、「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」という特別展が開催され、その開催初日に尾張中山氏の御子孫とヘロン氏と小生で、新美南吉記念館を訪れた。新美南吉記念館では矢口館長、遠山学芸員が応対してくれ、記念館側の計らいで尾張中山氏子孫の中山文夫氏と生前懇意だった郷土史家小栗大造氏も同席し、色々と中山氏と岩滑の昔について聞くことができた。

今回、新美南吉記念館で尾張中山氏を取り上げるのも、「ごんぎつね」に「むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです」というくだりがあるように、岩滑の象徴的存在でもあるし、新美南吉自身が岩滑に帰って住み着いていた尾張中山氏の子孫の人々と深い付き合いがあったからであろう。

<矢勝川河畔にある南吉の碑>

Nankichihi

前に述べたように、尾張中山氏は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時の三男、五平次勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる。安井長高は御弓役、御馬廻、中山瀬左衛門長清が御徒頭、その子清純は御馬廻頭などをつとめた。そのように、尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。武術師範では千人を越える門弟がいたといい、そのなかには附家老の成瀬氏など尾張藩でも要職にあった人達もみられる。

<岩滑八幡社境内にたつ岩滑開村の石碑>

Yanabe

中山勝時の子勝政、勝尚の血をひく他の系統が徳川将軍家に仕えたのに対し、尾張徳川家に仕えるもう一つの系統を残した訳である。古来、武家の慣習として、嫡流家以外に、地元に別系統をたてる例は多い。この尾張中山氏、明治維新の後、かつての旧領である岩滑に移住した。それは、地元に在住していた森権左衛門家からの勧誘による。実は、その森家のルーツをたどると、中山氏の家老格であったといわれる。そして、小学校校長をしていた中山元若(勝重の子)の代には、家の近かった新美南吉と中山家とは深い交流があったという。すなわち、中山家の六女ちゑに対して南吉は思いを寄せていたし、ちゑだけでなく、母しゑや妹なつ、弟文夫とも家族ぐるみの付き合いがあった。実は新美南吉の童話のもとになっているのは、中山元若の妻しゑが語る民話だったという説もある。そうなると、新美南吉の童話のオリジナルは、中山家にあったということになる。

<「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」特別展の案内>

Niiminankichinakayama_1

それはともかく、徳川家康の従兄弟中山勝尚のひ孫にあたる中山瀬左衛門長清から始まる尾張中山氏、その系譜については、亡き中山文夫氏が書いた資料や今回の展示内容から、もう少し掘り下げてみたい。それについては次回。

なお、中山文夫氏の著書「私の南吉覚書」のまえがきにある、小栗大造氏の俳句が印象に残った。

半田口 言わねど語る 彼岸花

<甲城山常福院~南吉の童話の舞台にもなった>

Jyouhuku

<常福院の前の道>

Jyouhukuinmae

<Wikipedia 「中山勝時」の項で、一部このブログから引用して投稿しましたが、それは作者の森です>

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