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2006.07.24

京都三哲~西本願寺周辺を行く

京都には、歴史のある地名が多いが、そのなかで京の通りの名となっているものは、「丸竹夷」など歌にもなっており、親しみを感じさせるものである。しかし、由来がよく分からないものもあった。例えば、京都駅近くにある「三哲」が、小生にとっては長年の謎であった。

<京都の駅前は変わってしまったが、京都タワーは健在>

Kyototower

以前、当ブログの「数字と地名」という記事(去年の8月の記事)で、小生以下のように書いていた。

「例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。」

この三哲、いかなるいわれのある地名なりやと、思い続けていた小生、案ずるより産むがやすしではないが、関西出張の際に、また京都を訪ねたのである。

京都駅からほど近い場所に、三哲のバス停がある。近所の喫茶店のマスターにお聞きすると、以前三哲町という町名(といっても家が十数軒集まったような場所)があり、それから三哲通りとなったのではないかとのこと。近くの「魚の棚」や「大工町」、「油小路」といった地名についても、その周辺は本願寺の影響のあった場所で、そのため職人や商人が住んで本願寺に物品を納めていた関係からついたものだと教えられた。

<三哲のバス停>

Santetsu

しかし、三哲とは「大工町」というような商工業に関連した地名ではない。別のいわれがあるのだろうと思いつつ、その周辺を歩き回った。すると、小さな看板があり、「梅ヶ枝の手水鉢」とある。

Umegaechouzubachi

昔はやった、「梅ヶ枝の手水鉢、たたいてお金がでるならば」の「梅ヶ枝の手水鉢」である。これは、円柱状の石の上部がくり貫かれているもの。江戸末期まで堀川通下魚棚にあったが、長らく行方不明となり、太平洋戦争中に堀川の改修で発見され、その後円山公園に一時あったが、昭和45年(1970)地元の声により、元の場所に戻すことになり、現在地に移され今日に至っている。

<「梅が枝の手水鉢」を元の場所に移した地元自治会の人々>

Chouzubachi

それはともかく、三哲に話を戻すと、喫茶店のマスターの話で、三哲も本願寺に関係あるかもしれないと思った小生、一路本願寺へ。

<西本願寺>

Nisihonngannji

本願寺と言っても、行ったのは西本願寺である。東本願寺には以前時々行って、その庭園の見事さに驚いたものだ。西本願寺は、平成の大改修ということで、工事中のところ、御影堂など以外は、工事前そのままであった。国宝の唐門は、思ったより小さかったが、華麗な彫刻が目に付く。想像上の動物であろうが、一角獣のようなものが彫られている。麒麟ではないような。獅子なども、躍動感十分だ。

<壮麗な唐門>

Karamon_1

<唐門の彫刻>

Karamon2

西本願寺の隣というか、寺域の中というべき場所に、龍谷大学がある。綺麗な講堂に惹かれて、中をのぞくと、何と京都地名研究会が講演会をしているではないか。しかも、途中ではあるが、まだ十分聴講できるし、ついでに三哲について聞いてしまえ、とばかりに会場へ。

<龍谷大学の講堂>

Ryuukokudai

ここでの講演内容はおくとして、京都地名研究会の人に三哲について聞いたみた。すると、意外や「そんなこと、急に聞かれても、答えられますかいな」という返事。「京都の通りの名の歌にもなっている地名でっせ」という言葉を押し殺し、小生帰路についた。

悶々とした気持ちを抱きつつ、快速電車で京都から神戸へ向い、外人さんがよく泊まっている、ホリデイインホテルで一泊した。ホテルにはインターネットが使えるパソコンがあるので、英語モードでない日本語キーボードのついているパソコンを借りて「三哲」を検索してみた。

すると、何のことはない、京菓子の老舗、鼓月さんのHPに「三哲」の解説が載っているではないか。「京ことば通信」というコンテンツで、「京ことば 『さんてつ』 相馬 大」のなかに、その答えはあった。

「『いま、三哲と呼ぶこと、この通り、大宮東入る町、北側に、渋川三哲と言ひし人の屋敷ありし故』(京町鑑)とある。三哲は、その屋敷を、立願寺(りゅうがんじ)という寺にした。古地図の立願寺をみると、三哲が、見える。」とあり、渋川三哲という人が住んでいたことから、三哲という地名が出来たというのが明快に書かれている。

あちこち聞き歩いたことは、無駄ではなかった。しかし、人名から来た地名という、あっけなく分かった真相に、世の中分からないことの種は尽きず、分かってしまっても、次に疑問が出てくると思った次第。立願寺(りゅうがんじ)という寺まで建てた、渋川三哲という人とは、何者?また、調べるネタが出来たというものか。

<民家横の消火器の箱に残る「三哲町」の文字>

Santetsuchou

参考サイト: 京菓子處   鼓月

http://www.kogetsu.com 

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