船橋市市場にあった鴨川ニッケル製錬所
1.船橋にあった軍需工場
船橋は、昭和10年代(1935年以降)になるまで、工業といっても手工業的なものが中心であり、大規模な工場などはなかった。船橋は昭和12年(1937)に市制に移行したが、その頃から船橋に新会社の工場を設立、あるいは東京から生産拠点を船橋に移す会社が増え、一気に工業化が進んだ。その中心が、軍需に基づく金属加工や機械部品の生産であった。
昭和10年(1935)にJR船橋駅の近く、現在の西武百貨店のある場所に、昭和製粉船橋工場のビルがたったのを皮切りに、昭和14年(1939)には鴨川ニッケル工業が設立され、現在の船橋中央卸売市場にある場所に船橋製錬所が建設されて操業を開始、昭和16年(1941)には日本建鉄が行田の海軍無線電信所の西の20万坪という敷地で、軍需製品を生産した。そのほか、三菱化工、野村製鋼が船橋に工場を設けたが、何れも軍需関連である。
2.鴨川ニッケル工業の成り立ち
鴨川ニッケル工業とは、現在の紀文フードケミファ株式会社であるが、かつては千葉県の鴨川の山中から採掘した、ニッケル原石から、特殊金属といわれたニッケルを製錬し、金属部品加工を行っていた会社で、戦時中は製錬したニッケルで飛行機部品の加工を行っていた。
紀文フードケミファ株式会社の有価証券報告書を見ると、会社の沿革については、以下抜粋したように書かれている(西暦は筆者が付記)。
昭和14年(1939)12月 鴨川ニッケル工業(株)として創業
昭和23年(1948)1月 アルギン酸製造開始(鴨川工場)
昭和31年(1956)10月 ロイド製造開始(鴨川工場)
昭和36年(1961) 10月 東京証券取引所市場第二部に株式上場
昭和37年(1962)6月 社名鴨川化成工業(株)と変更
昭和58年(1983)4月 社名(株)紀文フードケミファと変更
(株)紀文ヘルスフーズより、岐阜工場を譲り受ける。
豆乳の製造を開始(岐阜工場)
昭和60年(1985)9月 (株)紀文ヘルスフーズより、埼玉工場を譲り受ける。豆乳の製造を開始(埼玉工場)
昭和62年(1987)10月 子会社(株)アグミンを吸収合併。調味料製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)2月 ヒアルロン酸の製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)9月 (株)紀文ヘルスフーズ、(株)紀文フーズより営業を譲り受ける。業務用食材の販売を開始。 (略)
平成15年(2003)6月 埼玉工場がISO(国際標準化機構)14001 認証を取得
医薬用ヒアルロン酸原体の製造承認と製造業許可を取得
(鴨川工場) (以下略)
上記沿革には書かれていないが、元々鴨川ニッケルが設立されたのは、特殊金属であるニッケルの軍事利用が、アジアへの侵略戦争の遂行上必要となり、その安定的な確保が要求されていたからである。昭和12年(1937)の時点では、「千葉県鴨川町郊外嶺岡山脈一帯の蛇紋岩鉱区より貧鉱処理による純ニッケル生産を計画、会社は資本金二千万円、創立委員長に日鉄会長平生釟三郎氏を推す予定」*1であったのが、翌年には「千葉県鴨川町附近の蛇紋岩を原鉱として貧鉱処理による国産ニッケルの精錬に着手」*2となり、鴨川町では既に製錬が始まったことが分かる。
そして、昭和14年(1939)12月には、正式に鴨川ニッケル工業株式会社として設立されている。 *1、*2:朝日新聞より 神戸大学調べ
船橋では昭和14年まで鴨川ニッケルの工場用地とされた、中世に船橋城があった「城の腰」が整地され、船橋製錬所建設が行われて、昭和15年(1940)には工場が操業されている。
その後、昭和16年(1941)12月8日には、太平洋戦争が日本軍による真珠湾攻撃によって始まり、以降日本は満州事変以降の戦線を太平洋全体に拡大するという無謀な戦争に突入した。それは、昭和天皇が陸軍の杉山元帥に中国戦線が収まらないことを問いただし、杉山元帥が「中国は奥がふかいので」と言い訳したことに対し、「太平洋はもっと奥が深いではないか」と叱責したのに象徴されるように、天皇、軍部も戦局の大局観を失い、無闇に戦線を拡大したがゆえに、経済は軍事一辺倒となり、国民生活は犠牲にされていった。
3.鴨川ニッケルの戦時下の事故
工業生産もまた、軍需優先となり、多くの国民や朝鮮人、中国人が徴用されて、工場労働に強制的に従事されることになる。
そのような状況下で、鴨川ニッケルでは、昭和18年(1943)1月10日午前1時20分頃に船橋製錬所第一工場の溶鉱炉が爆発し、従業員20名が死傷するという事故が発生した。その翌日の朝日新聞によれば、「千葉県船橋市宮本町鴨川ニッケル船橋製錬所第一工場溶鉱炉が一大音響とともに爆発、天井を破壊、作業中の従業員三十名中即死者九名、重軽傷者十一名を出した」とあり、記事には即死者の氏名、住所、年齢が記されている。即死者の住所は千葉県内八名(うち船橋市内が三名)、あと一名は茨城県結城郡五箇村となっている。年齢は二十代、三十代が多く、二十歳の者が犠牲者の最年少のようだ。また、九名全て日本人名で、なくなった人々は日本人であったのだろう。
<事故を伝える新聞(昭和18年(1943)1月11日の朝日新聞)>
彼らが徴用工であったのか、否かは不明であるが、船橋市の三名は一人が宮本町、残り二名が湊町と近所であり、湊町の一名は船橋に多い滝口姓であることから、少なくとも船橋の三名は近所に工場が出来て就職した地元青年であろう。前途有為な青年が、無謀な戦争を遂行するための「産業戦士」として動員され、事故であっけなくなくなったのは慙愧に耐えない。
<事故の後、昭和18年(1943)4月19日に建てられた慰霊碑>
(註)以上は、「千葉県の戦争遺跡」(森兵男)より転載。よって、上記文中で、筆者とあるのは、兵男のことです。
なお、上記に関する船橋市郷土資料館への取材は、小生mori-chanが行いました。その際、船橋市郷土資料館 山口学芸員、船橋市立図書館の綿貫啓一氏には、お世話になりました。改めて、御礼申し上げます。
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