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2006.08.14

徳川家康と知多半島(その18:桶狭間合戦の実相)

徳川家康にとって、長年隷属していた今川からの呪縛から解き放たれる契機となったのは、永禄3年(1560)の桶狭間合戦である。桶狭間合戦で今川方が敗れ、大高城に入っていた家康も、一転して敗軍の将となり、三河に逃げ帰ることになったが、それは勿論危機であったけれども、その後今川義元の嫡子氏真は亡き義元の仇を討つどころか、領土を他国の大名達に蚕食され、家臣にも離反されて掛川城に移らざるをえず、家康はようやく岡崎の旧領を取り戻すにいたる。

<桶狭間合戦時、徳川家康が兵糧入れと同時に入城した大高城>

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しかし、そもそも桶狭間の合戦で敗れてなくなった、今川義元はなぜ大軍を動かし、西をめざしたのであろうか。最近の研究では、それは上洛が目的ではなく、織田軍を打ち負かして尾張の領地を得るため、あるいは織田軍にダメージを与えるための局地的な戦いであったらしいとされている。もともと、今川氏が支配していた駿河、遠江、三河の三国を合わせても七十万石程度の石高だったといわれる。遠江や三河は山間部が多く、面積が広い割には、石高は小さかった。それに対し、尾張は面積こそ三河などより小さいが、濃尾平野の肥沃な土地に恵まれ、尾張一国で五十七、八万石あったようである。しかも、織田信長の父信秀の代から、支配していた津島の港湾から上る収入も多かった。したがって、彼我の経済力は大差なかった。兵力についても、今川の二万五千に対して、織田の二千とか三千といわれていたのは、かなり誇張されていて、実態とは異なり、織田軍の本隊だけで五千はいたようで、周辺の兵力も入れれば、織田軍でも1万名くらいは集められたのではないだろうか。

従来は、鷲津、丸根の両砦を落として、油断し、田楽狭間で休憩(宴会)をしていた今川軍に対し、織田軍が高所から奇襲をかけて、今川義元をあっけなく討ち取った、電撃奇襲作戦の見本のようにいわれてきた。これは、江戸時代から面白おかしく伝えられ、その田楽狭間での休憩に際して、蜂須賀小六が現地の農民に変装し、「礼の者」として酒などを差し入れたなどと脚色された。勿論、蜂須賀小六は木曽川の川並衆であり、織田軍の美濃攻めには貢献したかもしれないが、活躍の場所が違うし、登場時期が早すぎ、時代的にもあわない。

<今川方の大高城に備えて織田信長が築き、桶狭間合戦で落ちた鷲津砦>

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実は桶狭間合戦は後世に脚色され、また奇襲作戦の見本のようにされてしまったために、明治時代から軍部のゆがんだ研究対象にもされ、その実相が正しく語られなかった。また、今川義元や松井宗信の供養墓が豊明市の高徳院にあるため、その向い側の低地が桶狭間古戦場として国指定の史跡となっており、本来名古屋市緑区から豊明市にかけて広範囲に合戦が展開されたはずのものが、狭い地域に局所化されて伝承されてしまった。

<名古屋市緑区の「田楽坪」にある桶狭間古戦場公園>

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最近の研究では、信長公記にあるように、今川義元が本陣をはった場所は「おけはざま山」であったことが主流の学説となっている。織田軍は大胆にも敵の手に落ちた鷲津砦や鳴海城に近い中島砦を発して、まっすぐに桶狭間の今川軍本隊を襲撃し、大将である今川義元を討ち取ったのである。従来は、今川義元が油断して田楽狭間で休憩し、それを迂回しながら今川軍の本陣をめざしていた織田軍が発見して、高所から奇襲をかけて義元を討ち取ったとされてきた。しかし、これはほとんど虚構であり、織田軍は正面から今川軍の本隊をめざし、しかも高所から奇襲ではなく、逆に高所にいた敵軍を低地から正面突破したことになる。

では「おけはざま山」とはどこであろうか。勿論桶狭間山という山はない。桶狭間は起伏の多い土地であり、丘陵を小さな川が侵食し、低地と台地が入り組んだ複雑な地形になっている。「山」といっても、桶狭間周辺には、又八山、坊主山、漆山、左京山、生山(はえやま)、高野山、三丁山、巻山、幕山など「山」と名のつく地名はいろいろある。何れも本当の山というより、丘陵である。また「狭間」、「廻間」のつく地名も多く、丘陵の間の谷間のような低地を指している。おそらく「おけはざま山」は桶狭間という地域の「山」つまり「丘陵」であり、兵を沢山配置できるような、ある程度広く、馬ものぼることのできる、なだらかな台地であったのであろう。

この「おけはざま山」はどこなのか。江戸時代に書かれた絵図(蓬左文庫所蔵)によれば、義元本陣の位置は以下の図の通りである。

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この絵図で、義元本陣とあるのが「おけはざま山」ということになる。これでは、丘陵が広がる場所の向い東側に低地を挟んで小丘陵があり、そこに義元は本陣を置いた、その義元本陣は旧東海道よりは南である、その本陣の向いには「明神森」があり神社があった、そして東南には「雨池」があると地図に書かれている。また当然ながら、それは沓掛城よりは西にあり、先陣が攻略した鷲津、丸根の両砦よりは東に位置することはいうまでもない。

この絵図は、江戸時代に書かれた地図で約束事となっているように、西が上になっている。そこで、現代の地図を西を上に回転させ、絵図にある他の位置が明確になっている部分との位置関係から、「おけはざま山」の場所を考えてみたい。

<現代の地図を元に桶狭間周辺の史跡などを追記したもの>

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(原図:国土地理院 地形図閲覧システム)

絵図にある「明神森」が今の「愛宕」を指すのか、「神明廻間」を指すかひっかかったが、天保12年に書かれた村絵図を見ると「愛宕森」も、「神明廻間」も近くにかかれている。「明神森」は「愛宕」とも、神明社のある「神明廻間」とも解釈できる。

みられるように、「義元本陣」の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊は展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。それに前出の絵図が正しいとすれば、高徳院が本陣では本隊と他の砦などとの位置関係が少しずれてくる。やはり、高徳院に供養墓があるなどして今川方と関係があるために、そのような説が出てきたのであろう。

<国の史跡となっている豊明市の「桶狭間古戦場」>

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一方、上記のように「おけはざま山」の位置を推定すると、そのすぐ南に田楽狭間に比定されている「田楽坪」がある。これは高徳院の向い側の狭い文字通りの「狭間」を古戦場というより、広々しており、織田・今川両軍が激突したとしてもおかしくない。この「田楽坪」の近くには、「七つ塚」という今川将兵を葬った塚がある。それは勿論伝承であるが、合戦場の周りに、そうした伝承の地があることは、興味深い。

さらに、「田楽坪」のすぐ南には「セナ藪」あるいは「センノ藪」という陣所跡があった。これは瀬名氏俊という今川方の武将が先発隊として当地に着陣し、大高・鳴海・大府方面の物見にあたるとともに本陣設営の準備をしたとされる。今はわずかに竹篠が残るだけであるが、かつては陣所の形が見られたという。そのすぐ南には、今川義元の茶坊主であった林阿弥が、桶狭間合戦後今川義元の首実験をしたという長福寺がある。また長福寺には、林阿弥が寄進したという義元の木像が安置されている。そのほか、瀬名氏俊が軍議をした場所という「戦評の松」があったり、桶狭間合戦の後、持ち主をなくした馬の鞍が流れていたという鞍流瀬(くらながせ)川など、地名にも桶狭間合戦の名残りがある。まさに、桶狭間は桶狭間合戦ワールドである。

<セナ藪~瀬名氏俊の陣所跡>

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<長福寺>

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しかし、元をただせば、桶狭間は南朝の落人が開拓した場所だという。岩滑城主となった中山勝時の先祖も、そうした落人の子孫たち、すなわち梶野氏、青山氏と当地で暮らしていたといわれる。その館は長福寺の裏手であったともいわれるが、正確にはどこであったか、あるいは現在長福寺がある場所がかつては法華寺で、それは中山氏の館の持仏堂のような形か、ごく近傍に中山氏らが住んでいたのであろうか。また同時に領有していたらしい北尾にも城館があったのかは、現時点では明確ではない。しかし、広くみれば、戦国期における当地は、場所的にも、今川の勢力と織田の勢力の緩衝地帯のような所であり、尾張守護であった斯波氏の支配力が衰えた室町末期頃には、外部からでも入り込みやすかったと思われる。そして起伏の多い、この桶狭間の複雑な地形に隠れるように、彼らは暮らしたのであろう。その子孫たちがひっそり暮らそうとしていたこの土地も、戦国の世となれば戦乱の渦に巻き込まれることになった。そして、ついに永禄3年(1560)、桶狭間合戦が勃発した。

<瀬名氏のいわゆる「戦評の松」>

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桶狭間合戦は兵力に劣る織田軍の勝利におわり、今川義元はあえない最後をとげ、その所持した宗三左文字の大刀も分捕られた。陣地を急襲された今川軍本隊は、近くの台地に展開していた先遣隊と合流しようと台地を下りたものと思われる。しかし、移動しようとした兵たちは低地にある深田で足を取られ、次々に討ち取られた。今川義元も旗本に守られて逃げ回ったあげく、取り巻く武士達も減り、最後には自ら太刀をふるって、槍をつけられた服部小平太の膝頭を斬り割ったが、毛利新介に首級をあげられてしまう。

なぜ、今川軍本隊が兵力に劣る織田軍に敗れたのか、いろいろ理由があるのだろうが、まず遠征してきた疲れが今川全軍にあったといえるであろう。それに対し、今川軍を急襲した織田軍は新手の戦力であった。また今川軍が内部に三河の松平(徳川)など本来独立した領主であった者たちを多く擁していたことから、兵力でまさるのにかかわらず、士気の面では織田軍に対して不利な状況にあった。そして、やはり織田軍が、なんらかの策略を使ったのではないだろうか。その辺りは、また次回。

<今川義元の供養塔(豊明市)>

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