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2006.09.17

愛知県美浜町の河和海軍航空隊跡

河和海軍航空隊跡のある美浜町は、知多半島の中央よりやや南に下がったところにある。武豊からはお隣の町とはいえ、休みでもたまにしか行かず、それも野間以外の場所には、とんと縁遠かったが、そんな美浜町に最近二度ほど続けて行った。

というのも、「千葉県の戦争遺跡」HPに、「日本各地の戦争遺跡」をのせる手始めに河和海軍航空隊について記載するということで、何でもいいから写真でも撮ってきてくれという森兵男からのアバウトな指示があり、まあ隣町だしちょっと行ってくるか、という軽い気持ちで行ったのである。

河和の古布地区に、航空隊跡があるとは知っていたが、行ってみると目ぼしい遺構らしきものは、海岸のスリップ以外は見当たらず、近所の人に聞いても知らないので、一旦美浜町生涯学習センターへ。美浜町生涯学習センターでは、まさに「河和海軍航空隊と美浜町」という展示を行っており、特攻隊の鉢巻やら士官、下士官の軍装の一部、飛行機のプロペラ、水上機の訓練風景を描いた絵などとともに、遺構の場所と写真をパネルにしていて、最初から美浜町生涯学習センターへ行けばよかったと思った次第。

<心育館前の「未来へ」(竹内英章)>

Miraie

なお、河和海軍航空隊は、第一航空隊(整備、新兵教育)と第二航空隊(水上機訓練と実戦部隊)とあり、それぞれ歴史がある。

昭和16年(1941)、海軍は河和の古布に海軍航空隊を建設し、水上機の基地としようと計画、古布の集落の用地を買収して、古布集落の人々は山間部へ強制移転される(『美浜町誌』によれば、その折衝の際、「買収に同意しない者は非国民である」という海軍側の発言に対し、「今の発言を取り消せ」という住民側の応酬もあったという)

昭和18年(1943)6月、追浜海軍航空隊知多分遣隊 開設(整備教育)

昭和18年(1943)12月、河和海軍航空隊 設立、第十八連合航空隊 編入(整備教育)

昭和19年(1944)4月 第二河和海軍航空隊 開設、第十一連合航空隊 編入(水上機操縦教育で航空艇の搭乗員の養成が行われた)

昭和20年(1945)2月、河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊となる

昭和20年(1945)5月、第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入

昭和20年(1945)2月26日、第二河和海軍航空隊でも神風特別攻撃隊が編成される(神風特別攻撃隊御楯隊河和隊)

昭和20年(1945)8月5日、零式観測機35機と48名の隊員が出撃のため河和から福岡県深江へ移動、8月15日未明特攻出撃命令あるも、終戦のため命令解除

終戦により、武装解除され、昭和20年(1945)9月航空隊員は解員帰郷

戦後、基地跡は農地などになった。内陸部の第一航空隊地区は、土地が払い下げられ、多くは農耕地となり、海に近い第二航空隊のほうは学校、住宅地になっている部分が多いが、工場、港湾設備が民生用に転用された。

<河和漁港~かつて石炭などの陸揚港として利用された>

Kouwagyokou

太平洋戦争直前の昭和16年(1941)に、海軍がこの地を買い上げて、水上機基地建設を計画、実際に土地買収(というより強制収用に近い)により、旧古布地区(旧都築紡績工場跡から旧大川周辺の一角)の住民は、窮屈な強制移住を余儀なくされたのは、前述の通り。道路の付け替えや大川の流路変更なども含んだ大規模な工事(いわゆる海軍道路が建設された)の後、当初、昭和18年(1943)12月には、水上機整備員の教育を目的とした河和海軍航空隊(後の第一河和海軍航空隊)が設立され、翌19年4月には、水上機操縦教育を目的とした第二河和海軍航空隊が開設され、航空艇の搭乗員の養成が行われるなど、整備要員の養成から搭乗員の養成まで行う航空隊となった。

<第一航空隊本部用シェルター>

Honbugou

これほど、大規模な教育訓練を主たる目的とした航空隊が戦争も敗色が濃くなってきたころに建設されたのは、多くの実戦要員が戦死してしまい、その補充を急いだということであろう。小生の父も、実は奈良の海軍航空隊に所属していた(ニ飛曹)が、兵舎は天理教の教会を改造したもので、皆畳敷きの部屋にハンモックを吊って寝ていたそうである。それも、航空兵を収容する広い場所ということで、戦時中弾圧をうけて休業(宗教の場合はなんと言うのかわからないが)状態であった奈良県天理の天理教の教会に目をつけたらしい。 ちなみに、同じ理由で、戦争末期には高野山の宿坊が兵舎にされ、高野山海軍航空隊も開設された(海軍基地を山の上に作ってどうしようというのであろうか)。

今は第二航空隊跡は海に近く、しかも国道沿いで、学校と住宅地、農地となり、第一航空隊のほうは航空標識所のほかは、ほとんど農地になっている。第一航空隊跡は内陸部にあり、航空標識所の敷地に防空壕などが残っている。しかし、大規模な遺構が残っているのは、第二航空隊のほうであろう。

その遺構をニ三紹介する。

まずは、水上機のスリップ。河和漁港に近い、北側スリップ一箇所と東側スリップ二箇所があるが、特に東側の実戦機用機体に使われたスリップは200m以上の長さがあり、大規模である。細い道路が海沿いにあり、堤防が4mほど開口しているため、スリップへ向う通路となり、車も出入する。東側スリップは、今やマリンスポーツのメッカであるが、水上機の離陸場所であったことを知っている人がどれだけいるのであろうか。小生が行った時には、9月にも関わらず、泳いだり、水遊びをしている人も大勢いた。北側も、東側もスリップに大きなひびがはいっている場所が何箇所かあったが、爆撃によるものだそうである。

*スリップとは、日本語では「すべり」。水上機は海から飛び立ち、海へ着水するので、陸上から海へ下ろし、海からまた陸へ引揚げねばならない。普通の飛行機は、足にタイヤが付いているが、水上機の場合は小さな船のようなものが付いている。飛行場がいらない代わりに、スリップがないと海から飛び立ったり、海に着いたのが陸へ上れなくなってしまう訳である。

<北側スリップ>

Suberi4

<東側の大きなスリップ>

Suberi1

<東側スリップの北端>

Suberi3

東側スリップの南には、故障、墜落した機体を台船で運びこむ軍港跡があるが、入江となっており、白鷺が住んでいる。多分えさとなるゴカイの類がいるからであろう。この軍港跡の入り江の周囲をぐるりと石垣が取り囲んでいるが、その下段部分が軍港当時のものである。

<軍港跡>

Gunkou

<軍港跡に群れる白鷺>

Shirasagi

その入江の山側には、第一航空隊と第二航空隊の連絡用陸橋跡(入江に近い東側のみ)がある。当然、第一航空隊に繋がる山側には通路があったはずであるが、現在では陸橋跡の道を挟んで山側(西側)は藪になっていて国道から入る通路自体はなくなっている(ちょうど陸橋跡の西側の藪があいて牛舎への通路があるが、その通路ではなく、その通路南側の水路のすぐ南に当時の通路があった)。*2006年9月22日改

<連絡用陸橋跡>

Rennrakurikkyou

ちょっと変わった所では、田圃の中にある修理工場の土台。これは稲が伸びている頃には撮影できない。9月初めに行った時には、稲がまだ刈り取られておらず、見えなかったので、後日行って撮ってきた次第。ちょうど稲刈りに出ていた農家の方にことわって、田の中に入り、その土台を撮影した。「河和航空隊について調べているので、工場の土台を撮影させてほしい」旨告げると、農家の方は快諾してくれたが、「珍しいかねー」と言っていた。土台はなんていうこともないコンクリートの塊ではあるが、鉄筋が通り、整然と並んでいた。上ものもきっちり作ってあったのであろう。

<「珍しいかねー」という農家のおじさん>

Shurikoujyoato1

<顔を出した河和海軍航空隊の修理工場土台>

Shurikoujyoato2

そのほか、河和航空隊の石碑があったが、そのような石碑(隊碑、忠魂碑など)には小生あまり関心がないので省略する。

河和中学校の敷地に、第二航空隊で使っていた水タンクがあるが、訪問した日は土曜日で教職員の方がおらず、敷地内に入って撮影する許可をとる相手がいなかったため、撮影できず。水タンクについては、後日、連絡して撮影させてもらうことにする。河和中学校は、兵舎跡に建っており、水タンクの他にも第二航空隊の本部正門の基部が残っていた。それについては道路上であったため、撮影した。海軍の兵舎だけあって、周囲の道は直線で、しかも海まで続いている。他にも、河和の内陸部の神社で、偶然見つけたものもあり、帰りに寄った半田の旧カブトビールの機銃掃射跡も写真に撮ったが、本文とそれるのでこの辺で。

<第二航空隊本部正門の基部>

Dai2koukumon

なお、美浜町社会教育課、生涯学習センターの皆さんには、お世話になりました。多分、この記事を含めて、取材内容は「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/ )、「日本各地の戦争遺跡」に掲載されると思います。

*2006.09.21追記 以下の記事(森兵男)参照 (2007.9.19 HP移転に伴い、URL変更)

http://www.geocities.jp/takechan_mori/kowa/kokutai.html

註)当記事内容が「千葉県の戦争遺跡」HP http://www.shimousa.net/ 
に掲載された場合、それは小生の同意に基づくものであり、著作権侵害にはあたりません。また美浜町生涯学習センターから、「河和海軍航空隊と美浜町」の展示内容のHP掲載を許可されたのは、小生のブログではなく、森兵男の上記HPですので、今回美浜町の河和海軍航空隊の展示については紹介しませんでした。

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2006.09.02

徳川家康と知多半島(その19:続・桶狭間合戦の実相)

前回、桶狭間合戦が、従来言われていたように、織田信長による奇襲で休息中の今川軍を攻め今川義元を討ち取ったというよりは、「おけはざま山」に陣取った今川義元本陣に攻め上り、崩れた今川軍の乱れに乗じて今川義元を討った、また、そもそも今川義元が大軍を率いて駿府を出立し、織田軍を攻めた目的もすぐに上洛ということではなく、織田軍を打ち負かして尾張の領地を得るため、あるいは織田軍にダメージを与えるための局地的な戦いであったらしいと述べた。

<田楽坪の桶狭間古戦場公園> 

Okehazama_2

この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではない。長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきであろう。

戦国時代の初期、尾張は守護である斯波氏の支配体制が弱体化し、実権は守護代である織田氏に移ったが、その織田氏も岩倉織田氏と清洲織田氏が尾張の北と南に分立、分裂抗争するという複雑な状況にあった。両織田氏の分立と抗争の状況から、清洲織田氏の家老であった織田弾正忠信秀が経済力をバックに尾張統一に動き、それは信秀死後、嫡子信長によって完結する。その信秀が当主の頃、後述するように、尾張における今川氏の拠点那古野を天文7年(1538)頃奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

一方、駿河・遠江の守護今川氏は、自ら戦国大名化していた。北条早雲の支援で家督を継ぎ、内政を固めた今川氏親が大永6年(1526)になくなると、若くして家督を継いだ今川氏輝が英明な君主ぶりを発揮していた。しかし、その氏輝も天文5年(1536)急死してしまい、出家した兄弟同士で家督をめぐって争うという、花倉の乱が起こる。勝った義元が今川の家督を継いだ。義元は甲斐武田氏の駿河進出を食い止めるとともに、西へ進攻し、三河の松平氏を屈服させ、事実上その版図を三河に広げたため、織田、今川の争いには松平、水野という三河地方や知多半島を拠点にしていた豪族が巻きこまれていった。

<水野氏が拠った緒川城>

Ogawajyositakara

今川氏は、室町将軍足利家の親戚であるとともに、駿河、遠江の守護大名である。今川という名字の地は現在の愛知県西尾市今川であり、もともと三河に拠点をもっていた。それは吉良国氏が、今川姓を名乗ったことにはじまる。国氏の孫、範国の代に、建武新政、室町幕府創生と足利尊氏に属して戦功があり、建武3年(1336)遠江の守護職、のちに駿河の守護職に任ぜられた。今川範国は、岸城に居城し、その後の今川氏の基盤が築かれる。永亨4年(1432)、範政の代のとき、駿府に築城して移り、その子範忠の代には将軍足利義教から副将軍に任じられた。今川氏は駿河、遠江だけでなく、尾張の中にも那古野に鎌倉時代より柳之丸という館を構えていた。今川家仮名目録を制定した氏親は、この柳之丸に子の氏豊を置いて、尾張に楔を打ち込んでいた。

<那古野城があった場所にたつ名古屋城>

Nagoya

一方、尾張守護斯波氏は庶流の斯波義敏が享徳元年(1452年)宗家を継ぐと、越前、遠江守護代の甲斐常治と対立し、長禄2年(1458)に義敏派の国人と常治派の朝倉孝景の合戦に発展、傍系の斯波義廉が山名宗全らにかつがれて家督を継承すると、斯波義敏は復帰工作を行い、文正元年(1466)義敏が尾張、越前、遠江の守護に任命されるという、複雑な状況となった。この斯波氏内部の争いが、畠山氏の家督争い、細川氏、山名氏の勢力争いと絡んで、応仁の乱へと発展していく。こうして斯波氏は混乱の中で力を失い、遠江は今川氏、越前は朝倉氏に奪われ、尾張のみの守護となったが、尾張における実権も守護代であった織田氏に奪われてしまう。その織田氏も岩倉織田氏(伊勢守) と清洲織田氏(大和守) の両家で対立、抗争を続ける。

織田信長の父、織田信秀は清洲織田氏の三家老の一つ弾正忠家の当主であり、勝幡城主であった。この織田信秀は、斯波氏からみれば陪臣にあたる。しかし、尾張国南部の津島をおさえ、津島の海運・交易で得られる経済力を背景に頭角をあらわし、清洲織田氏の実権を握り、さらに岩倉織田氏を攻めて尾張を統一しつつあった。

この勝幡城主織田信秀が、那古野に今川氏豊を攻め、これを追放した。天文元年(1532)のことである。信秀はこの柳之丸を改修し、那古野城を築いた。織田信長が生まれたのは、この那古野である。那古野に移った信秀は、古渡城を築城、古渡に信秀、那古野に子の信長が居住した。天文20年(1551)信秀卒後、家督を継いだ信長は、弘治元年(1555)清洲にいた自らの主君である守護代織田信友を攻め、これを滅ばした。これには信秀の弟信光が信長の後見として加わっている。実は信光も、その直後に信友の遺臣坂井孫八郎により暗殺されたというが、信長が暗殺した可能性も否定できない。

一方、徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一し、その勢いで天文4年(1535)には尾張の織田信秀を討つため守山まで出張ってきた。同年12月岡崎城を出発した松平清康が守山に陣を張っていたとき、家臣阿部弥七郎によって殺害されるという事件、「守山崩れ」が起き、若く病弱な広忠が後を継いだ。清康亡き後、弱体化した松平氏に対し、織田信秀は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図った。これを迎え撃つべく、今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、その家督相続をめぐって、嫡子信長と林佐渡、柴田勝家という家老らに擁立された弟信行とで争いがおき、信長が信行を殺害するという内紛が起きる。それを今川義元は、見逃さなかった。今川義元は天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。これに対し、近隣の緒川城、刈谷城に拠っていた水野氏は、忠政の代には今川、織田双方によしみを通じる身であったのが、信元の代になると織田方の旗幟を鮮明にしており、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野金吾忠分の軍勢が今川軍と村木砦をめぐって合戦、織田、水野軍が勝利している。なお、この戦いでは、通説いわれるように水野の軍勢が織田の援軍を受けて戦ったというより、織田信長の率いる軍勢が主軍であって、既に桶狭間合戦以前に織田軍、今川軍の直接対決があり、しかも織田軍が勝利しているのである。

<村木砦址の碑>

Muaraki

<石ヶ瀬古戦場風景>

Ishigase

永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦をめぐる攻防戦のリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。既に村木砦で織田軍に敗れた今川軍は、慎重に軍を進めたと考えられる。このように村木砦の戦いは、桶狭間合戦の前哨戦とでもいうべき戦いであり、既に勝利している織田方に対し、今川方が優位である訳ではなかった。今川義元が松平元康や井伊直盛に命じて、大高城の兵糧入れやその周辺の鷲津、丸根の両砦の攻略を行い、その後続として、桶狭間の高根山に松井宗信の一部の軍勢、幕山、巻山にも松井宗信ら先鋒を配したのも、慎重に進んでいたことの証であろう。
沓掛城を出た今川義元の本隊は、それら前衛部隊から、大きく離れた場所に位置していた訳ではなく、後方1Km 以内の場所に陣取っていたと思われる。それは、瀬名氏俊の部隊が、今川義元本隊が桶狭間に到着する2、3日前に、現在の長福寺のすぐ北の裏山の山裾に駐留して、本隊の駐屯場所の設営にあたったことでも分かる。もし、一部伝承されているように、義元本隊が現在の豊明市の館狭間もしくはその前の高徳院境内に陣取っていたならば、非常に窮屈な場所に、しかも先陣である松井宗信らと少し離れていたことになり、不自然である。先日、桶狭間の郷土史家、梶野渡氏にお会いしたおり、その件について聞いてみたが、国指定の史跡となっている桶狭間合戦場伝承地には、昔道がなく、また周辺の「館」という地名にしても、江戸時代の学者が「屋形」、すなわち今川義元が陣を張ったであろうと机上で推論したものが、地名となったということであった。つまり、「館狭間」にしても、「館」から派生している地名であり、中世に城館があったとかいう地名ではない。
それに対し、桶狭間の武路(たけじ)あるいはそのすぐ南の高地は、西に高根山、幕山、巻山を一望することが出来、本陣を構えるのにふさわしい場所である。大体、館狭間のほうは、高根山などとの間に、現在名古屋短大敷地となっている低地が挟まっていて、かつては小川の流れる低湿地があって、部隊の移動には無理のある場所と思われる。

しかし、なぜ織田信長は、今川の大軍の本陣をピンポイントで特定し、そこに急襲をかけることができたのか。多勢に無勢でありながら、思いつきで小人数で出陣し、偶然見つけた今川の本陣に、それも偶然相手が油断して休憩をとっていて、「東海の覇者」と言われた今川義元を偶然発見、これを討ち取ったなら、奇跡としかいいようがない。勿論、そのような奇跡ではなく、事前に織田信長は今川軍の動きを察知していた、特に今川軍の本陣の動向を知悉していたと思われる。

よく桶狭間合戦は情報戦であったといわれる。それは、論功行賞において、実際に今川義元を討ち取った毛利新介や服部小平太が功名第一ではなく、一番手柄は今川義元本陣を正確に把握し、これを織田軍に伝えた簗田政綱であったことでもいえる。勿論、簗田政綱の功績大であったのであろうが、元々桶狭間に住んでいた住民、桶狭間に知行地のある武士たちが一役かっていたと思われる。それは、南北朝の昔、南風競わず、桶狭間の草分けになった梶野、青山らの人々であり、元は桶狭間にいて、天文年間に岩滑城城主となった中山勝時その人である。寛政譜、寛政重修書家譜によれば、中山勝時の先祖は、藤原氏で近江の八幡中山(現在の長浜市八幡中山町)を名字の地とし、坂田庄司の武田兵庫頭の命で尾張に下向したともいわれ、室町初期頃に南朝方であった梶野氏らがいた桶狭間に来たらしい。そこで現在長福寺のある場所に住み、長福寺の本堂の東側の湧水を共用しながら暮らしていた。小生の想像も混じっているが、長福寺の場所に中山氏が館を構え、そこに法華の庵があって、現在セト山公園のある一帯に草分けの人々が住んでいた、鞍流瀬川は堀代わりに使われていたのではないだろうか。

一方、緒川の水野貞守は、徐々に勢力を伸ばし、桶狭間を含む知多半島北部を自らの勢力下に置いていった。徳川家康の母、於大の方の父、水野忠政の頃には、中山氏は水野氏の重臣クラスになっており、永見氏、久松氏などとともに、知多半島北部における水野氏配下の部将であった。中山勝時も、実は水野氏の本拠地緒川の生まれという説があり、勝時の叔父か大叔父にあたる快翁龍喜禅師も父は中山又助で水野氏の家臣ということである。また、寛政重修書家譜の水野貞守に関する記述に「十六歳にして志を立て、隣国を遊歴し人材を得るを心とす。このときにあたり、旧臣牛田某に逢て興復の事を謀り、永見某・中山某・久松某と君臣の義を結び、小河の旧塁を修築し、三河国刈谷・熊村・大日・大高・常滑の諸士其手に属せしかば、やがて刈谷に城を築きて移る」とあり、中山氏は早いうちに水野氏配下になったようである。

つまり、中山氏から桶狭間の地理、地形の情報は、水野氏を経由して織田信長にあがっていたであろうし、桶狭間で今川本陣の設営をした瀬名氏俊が軍夫として使った桶狭間の人々は、中山氏の息がかかっていたと思われ、そこからも情報があがっていたであろう。

さて、先日半田市岩滑の新美南吉記念館において、新美南吉と岩滑城主中山勝時の子孫で明治以降再び岩滑に住んだ元尾張徳川家家臣の中山家との関わりについての企画展「『ごんぎつね』の殿様中山家と新美南吉」が開かれた際、桶狭間の梶野氏ら20余名の人々が岩滑に来て、その企画展を見学し、岩滑城址や南吉生家などをたずねたのである。その際、尾張中山家の子孫である鈴木氏が説明、案内を行った(新美南吉記念館においては、遠山学芸員が説明)。ちなみに、テレビドラマにもなった、中山家で女子医専に行った六女ちゑと新美南吉とのラブストーリーは、だいぶ虚構が混じっていたようで(二人は恋人ではなかった)。

こうして、中山勝時の血をひく尾張中山家の子孫と、桶狭間に最初に住み着き、中山氏の旗下となった人々の出会いが、何百年もの時をこえてあった訳である。その際、中山氏の近江から桶狭間に来て、そして岩滑城主となったという壮大な歴史が鈴木氏、梶野氏によって語られた。大体の場合、そこまで昔の先祖にまではたどれないのであるが、歴史のロマンを感じたひとときであった。

<新美南吉記念館に来られた桶狭間の人々に説明する尾張中山家子孫の鈴木氏>

Nankichi1

(左側パネルの説明をしているのが、尾張中山家の子孫(中山元若の孫)である鈴木氏。中央後ろ向きの男性が遠山学芸員。右側が梶野氏ら桶狭間の人々)

<桶狭間草分けの人々が共同使用した湧水>

Wakimizu

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