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2006.10.26

ああ掛川城

「歴史川柳」というのを密かにやっている。昔からであるが、一種の自己満足の世界かもしれない。

あまり面白くないかもしれないが、以下に披露する。

掛川城 個人の家と 間違われ

新幹線に乗っていると、掛川駅の辺りで、車窓から掛川城が見えるのであるが、小山の上に天守閣が建っている様は、割とこじんまりしていて個人の邸宅に見えないこともない。先日、新幹線で東京に向う途中、若い女性4人組が乗っていて、そのうちの1人が掛川城を見て、「あんな家を建てるなんて、趣味悪いよね」とか言っていた。これは、青森の某H藤吉郎秀吉さんの邸宅(Hさんの家が趣味悪いとは小生思っていませんが)と混同していたのだろうか。しかし、良く見れば、やっぱり城だろうと思うのだが。。。

気になるので、新幹線を降りてみた。
掛川には、10年以上前に来たことがあるが、あまり変わったところもない、田舎の町という感じであった。今回掛川の町を歩いてみると、大河ドラマを意識して「功名が辻」の幟はそこらじゅうにあり、観光都市になったかのよう。

<掛川駅>

Kakegawaeki

駅のロータリーからも掛川城の天守の頭の部分は見えるが、北のほうへ歩くにつれて、掛川城が近くなる。途中、清水銀行の壁に山内一豊と千代の像がレリーフになって取り付けられている。千代が馬のくつわをとっているが、この図はジェンダー的には問題にならないのだろうか。高知城の千代の像は千代が馬を引いているというものだが、この像では馬の上に一豊が乗っている。

<清水銀行の一豊、千代像>

Shimizubank

掛川城は、美しい城であったらしい。今の天守閣は再建されたものであるが、嘉永7年(1854)に地震で倒壊して以来、最近まで天守は建てられなかった。今日の天守は平成6年(1994)に再建されたが、嘉永年間に書かれた絵図面や同じく山内一豊が建てた高知城の天守を参考にして、比較的往時を忠実にうつしているという。

<掛川城の天守閣(再建)>

Kakegawa11

<ライトアップされた掛川城の天守閣>

Kakegawayakei_1

掛川城といえば、大河ドラマ「功名が辻」で俄かに注目を浴びることになった山内一豊の居城として知られる。元は今川氏の家臣である朝比奈泰煕が築城した城であるが、桶狭間合戦で今川義元が戦死した後、後継者となった今川氏真が武田信玄の進攻を受け、また内部的には家臣の離反にあい、駿河の城を維持できずに、掛川城を一時居城とするということもあった。今川義元は、桶狭間合戦で討たれはしたが、やはり乱世の雄の一人であった。しかし、子の氏真は全く武将に不向きな人物で、政治や軍事より蹴鞠が得意というのだから、今川氏の崩壊は早かった。

今川氏真が後北条氏の食客として去り、大名としての今川氏が滅びると、掛川も徳川家康が領するところとなった。掛川城には、城代として石川家成が入った。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで敗れた後北条氏のあとに、徳川家康が関東に移封されると、今度は掛川城に豊臣秀吉の直臣、山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。山内一豊は、後に土佐高知城主として有名になったが、関ヶ原合戦前は掛川城主であり、掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣を構え、瓦葺の櫓や天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。

<掛川城遠景>

Kakegawa21

本来岩倉織田氏の重臣の家柄の出身で、尾張や美濃に所縁のある山内一豊にとって、掛川は縁のある土地ではなかったが、秀吉から近江唐国、長浜に続いて掛川5万1千石が与えられ、掛川城主になった訳である。この山内一豊という人物、女房のお千代さんの内助の功で有名であるが、一豊自身は武断派の武将とはいえ、それほど豪傑ではなく、平凡な人物に近かった。むしろ世渡りのうまさ、運の良さで、実力以上の出世をした感が強い。

雲霧城 霧吹き井戸の 底深し 

この掛川城、その美しさもさることながら、色々な伝説のある城である。例えば、霧吹き井戸。その昔、城主朝比奈氏が守るこの城を、徳川家康が攻めた折、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い、城は危難を避けることができたといわれている。霧隠才蔵のお城版ともいうべき、アンビリーバボーな伝説である。

<伝説の霧吹き井戸>

Kakegawaido_1

掛川城 天下分け目の 出世城

小山にて 一豊一声 土佐を得る

一豊は 口先一つで 国をとり

これらは、すべて関ヶ原合戦の直前、上杉景勝を討伐する道すがらの小山で行われた、小山評定での山内一豊の発言が、関ヶ原合戦で東軍に武将たちを結束させることになり、一豊は合戦でさしたる武功はないものの、土佐高知城の城主となり、二十万石を賜る結果となったことをいっている。

小山評定では、まだ徳川につくかどうか去就を決めていない武将もいたと思われる。その折に、家康に味方する発言の口火を切ったのは福島正則、その後をうけて山内一豊が関ヶ原への道中の途中にある掛川城を家康に提供するという大胆な発言をした。これによって同じように家康に城や知行を差し出すという申し出が東海地方の武将から相次ぎ、去就を決めかねていた武将たちが家康方となるとともに、結局徳川家康の関ヶ原入りが容易になったのである。

しかし、この発案、山内一豊のオリジナルではないようだ。藩翰譜にあるように堀尾忠氏の受け売りだったか(あるいは、堀尾忠氏の親父の堀尾茂助もしくは中村一氏の発案かもしれない)、千代の入れ知恵であったかよく分からないが、とにかくその一言で、山内一豊は土佐二十万石を手に入れたといっても過言ではない。

<掛川で見た、これは???>

Tukutuku

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2006.10.09

続・船橋寺町周辺の石仏たち

船橋市役所の北東、船橋中央図書館のある本町通りの南側の、かつての海岸近くの一角は寺町と呼ばれ、寺が集まっている地域である。明応5年(1496)にはじまるという浄勝寺は浄土宗の古刹であり、かつては大きな伽藍を有して、徳川家康から朱印状をもらっていたという。そのほか、飯盛り大仏で有名な不動院、難陀龍王堂のある覚王寺、因果(えんが)地蔵尊の圓蔵院などがあり、本町通りから奥まった寺町は、寺の多い、細い路地が幾筋もある静かな場所である。

以前、不動院の飯盛り大仏、圓蔵院の因果地蔵尊については、紹介した。その際、浄勝寺のお女郎地蔵については、別の機会にといって、1年近く放置していたので、ここで紹介することにする。

<彫刻の見事な難陀龍王堂>

Nanda

浄勝寺は、前述の通り、明応5年(1496)創建というから、もう五百年以上前からの古刹である。浄勝寺は船橋スクエア21や市民文化ホールの東南、道路を挟んだ向いで、大きな本堂があり、隣には境内の一部を幼稚園とした、船橋幼稚園がある。大きな本堂以外には、別段建物がないのだが、裏の専修院は、かつては浄勝寺の塔頭の一つだったという。往時は七堂伽藍を有する大きな寺で、敷地もひろかったが、幕末から火事に見舞われることがしばしばで、明治期だけで三回焼け、本堂と鐘突堂だけになってしまったそうである。徳川家康と当寺の専誉大潮(大超)上人は旧知の間柄であったといわれ、この寺は天正19年(1591)に関東に入部してまもない徳川家康から御朱印十石を拝領し、芝増上寺の末寺となっている。

<浄勝寺>

Jyoushouji

例の「お女郎地蔵」は境内の一隅に祀られている。その由来について、お寺の方に聞いてみたが、昔、常陸国(今の茨城県)の身分の高い女性が、行き倒れとなり、元は別の場所に墓があったが、なぜか浄勝寺が引き取ることになり、それが江戸時代になってお女郎地蔵として、新地の遊女の信仰を集めるようになった。その際、「下の病」に効くという霊験あらたかな地蔵として、病に苦しむ遊女たちが参ったという。江戸時代の遊女云々は、実際にそういう伝承があったのであろうが、この「お女郎地蔵」とは、元々は「お上臈地蔵」で、身分の高い女性の行路病者の死を悼んだものであったのだろう。祀られている「お女郎地蔵」とは板碑の形をした墓塔であって、あまり古そうなものではないのだが、銘文等は読み取れなかった。この浄勝寺には、元中の碑もあるし、元々は別に板碑などもあったのかもしれない。

<お女郎地蔵>

Ojyoroujizou

もう一つ、不思議なのは浄勝寺の寺紋が「三ツ鱗」であること。つまり、後北条氏と何らかの関係があったのではないかということである。確かに徳川家康と住職が知り合いで、寺が徳川家康から御朱印十石をもらったかもしれないが、その前はれっきとした後北条氏系の寺だったのではないか。専誉大潮(大超)上人は、元は別のところにいたらしく、あるいは徳川家康が天正18年(1590)の関東入部に伴って、招いて船橋の浄勝寺の住職としたのかもしれない。戦国後期には、船橋は後北条氏の分国衆ともいうべき高城氏の支配下にあった。家康が小田原合戦後、後北条氏のあとの関東に入って、後北条氏の旧臣を召抱え、伝馬制などの優れた制度も取込んだことは良く知られている。寺についても、同様のことがあったのではないか、と想像するものである。

本文と関係ないが、市民文化ホールの出入口のところに、太宰治が植えた夾竹桃がある。太宰治は、昭和10年(1935)7月、当時の船橋町五日市本宿(現:宮本一丁目)の借家に内妻の小山初代とともに、移り住んだ。太宰治は、以後一年三ヶ月、船橋に住んだ。当時太宰治は盲腸炎から腹膜炎を併発、病身であったが、船橋への移住はその転地療養のためである。船橋では旺盛に小説を書いたようで、「ダス・ゲマイネ」など短編小説を十篇以上発表している。市民文化ホール側の夾竹桃は太宰治が、住んでいた借家の玄関のところに植えたのを、後に植え替えたものである。

<太宰治が植えた夾竹桃>

Dazaikyouchikuto

さて、市民文化ホール脇の道を西へ行った、船橋のかつての宿の西のはずれには、西向地蔵尊というのがある。これは、西方浄土に向いているというよりは(もちろんそういう意味はあろうが)、宿場の西はずれでお仕置き場があったという跡で供養のためにたてられたものらしい。宿のはずれには、お仕置き場とか遊郭があることが多いが、船橋も例外ではない。

<西向地蔵尊>
nishimukai

この西向地蔵として祀られている中に、万治元年(1658)の地蔵菩薩がある。丸い頭に柔和な表情をしているが、船橋市で最古の石造地蔵菩薩像だそうだ。西向地蔵は、当時の処刑場になくなった罪人の供養のために建てられ、宿に疫病が入ってこないようにするという意味もあった模様。お堂に入っている石仏は、そのほか聖観音、阿弥陀立像などで、地蔵といえば、万治元年銘の地蔵ともう一つ素朴なつくりの地蔵がある。堂の外にも地蔵があり、歌碑もあるのだが、歌碑の文字は風化していてよく読めない。

<万治元年銘の地蔵(右側)>

Saikojzou

前にも述べたが、この西向地蔵の辺りで、かつては道がクランクしており、船橋宿に入る軍勢の勢いを減じる効果があった。それは市川妙典の伊勢宿辺りの道のクランクなどと同様であり、船橋は江戸初期に建てられた船橋御殿を中心に、西側の道のクランク、本町通りの道を挟んだ寺町(古来、寺はいざというときに立て籠もることの出来る場所であった)の存在が軍事的な意味を持っていたのであろう。

<西向地蔵の堂内>

Nishomuki

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