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2006.10.09

続・船橋寺町周辺の石仏たち

船橋市役所の北東、船橋中央図書館のある本町通りの南側の、かつての海岸近くの一角は寺町と呼ばれ、寺が集まっている地域である。明応5年(1496)にはじまるという浄勝寺は浄土宗の古刹であり、かつては大きな伽藍を有して、徳川家康から朱印状をもらっていたという。そのほか、飯盛り大仏で有名な不動院、難陀龍王堂のある覚王寺、因果(えんが)地蔵尊の圓蔵院などがあり、本町通りから奥まった寺町は、寺の多い、細い路地が幾筋もある静かな場所である。

以前、不動院の飯盛り大仏、圓蔵院の因果地蔵尊については、紹介した。その際、浄勝寺のお女郎地蔵については、別の機会にといって、1年近く放置していたので、ここで紹介することにする。

<彫刻の見事な難陀龍王堂>

Nanda

浄勝寺は、前述の通り、明応5年(1496)創建というから、もう五百年以上前からの古刹である。浄勝寺は船橋スクエア21や市民文化ホールの東南、道路を挟んだ向いで、大きな本堂があり、隣には境内の一部を幼稚園とした、船橋幼稚園がある。大きな本堂以外には、別段建物がないのだが、裏の専修院は、かつては浄勝寺の塔頭の一つだったという。往時は七堂伽藍を有する大きな寺で、敷地もひろかったが、幕末から火事に見舞われることがしばしばで、明治期だけで三回焼け、本堂と鐘突堂だけになってしまったそうである。徳川家康と当寺の専誉大潮(大超)上人は旧知の間柄であったといわれ、この寺は天正19年(1591)に関東に入部してまもない徳川家康から御朱印十石を拝領し、芝増上寺の末寺となっている。

<浄勝寺>

Jyoushouji

例の「お女郎地蔵」は境内の一隅に祀られている。その由来について、お寺の方に聞いてみたが、昔、常陸国(今の茨城県)の身分の高い女性が、行き倒れとなり、元は別の場所に墓があったが、なぜか浄勝寺が引き取ることになり、それが江戸時代になってお女郎地蔵として、新地の遊女の信仰を集めるようになった。その際、「下の病」に効くという霊験あらたかな地蔵として、病に苦しむ遊女たちが参ったという。江戸時代の遊女云々は、実際にそういう伝承があったのであろうが、この「お女郎地蔵」とは、元々は「お上臈地蔵」で、身分の高い女性の行路病者の死を悼んだものであったのだろう。祀られている「お女郎地蔵」とは板碑の形をした墓塔であって、あまり古そうなものではないのだが、銘文等は読み取れなかった。この浄勝寺には、元中の碑もあるし、元々は別に板碑などもあったのかもしれない。

<お女郎地蔵>

Ojyoroujizou

もう一つ、不思議なのは浄勝寺の寺紋が「三ツ鱗」であること。つまり、後北条氏と何らかの関係があったのではないかということである。確かに徳川家康と住職が知り合いで、寺が徳川家康から御朱印十石をもらったかもしれないが、その前はれっきとした後北条氏系の寺だったのではないか。専誉大潮(大超)上人は、元は別のところにいたらしく、あるいは徳川家康が天正18年(1590)の関東入部に伴って、招いて船橋の浄勝寺の住職としたのかもしれない。戦国後期には、船橋は後北条氏の分国衆ともいうべき高城氏の支配下にあった。家康が小田原合戦後、後北条氏のあとの関東に入って、後北条氏の旧臣を召抱え、伝馬制などの優れた制度も取込んだことは良く知られている。寺についても、同様のことがあったのではないか、と想像するものである。

本文と関係ないが、市民文化ホールの出入口のところに、太宰治が植えた夾竹桃がある。太宰治は、昭和10年(1935)7月、当時の船橋町五日市本宿(現:宮本一丁目)の借家に内妻の小山初代とともに、移り住んだ。太宰治は、以後一年三ヶ月、船橋に住んだ。当時太宰治は盲腸炎から腹膜炎を併発、病身であったが、船橋への移住はその転地療養のためである。船橋では旺盛に小説を書いたようで、「ダス・ゲマイネ」など短編小説を十篇以上発表している。市民文化ホール側の夾竹桃は太宰治が、住んでいた借家の玄関のところに植えたのを、後に植え替えたものである。

<太宰治が植えた夾竹桃>

Dazaikyouchikuto

さて、市民文化ホール脇の道を西へ行った、船橋のかつての宿の西のはずれには、西向地蔵尊というのがある。これは、西方浄土に向いているというよりは(もちろんそういう意味はあろうが)、宿場の西はずれでお仕置き場があったという跡で供養のためにたてられたものらしい。宿のはずれには、お仕置き場とか遊郭があることが多いが、船橋も例外ではない。

<西向地蔵尊>
nishimukai

この西向地蔵として祀られている中に、万治元年(1658)の地蔵菩薩がある。丸い頭に柔和な表情をしているが、船橋市で最古の石造地蔵菩薩像だそうだ。西向地蔵は、当時の処刑場になくなった罪人の供養のために建てられ、宿に疫病が入ってこないようにするという意味もあった模様。お堂に入っている石仏は、そのほか聖観音、阿弥陀立像などで、地蔵といえば、万治元年銘の地蔵ともう一つ素朴なつくりの地蔵がある。堂の外にも地蔵があり、歌碑もあるのだが、歌碑の文字は風化していてよく読めない。

<万治元年銘の地蔵(右側)>

Saikojzou

前にも述べたが、この西向地蔵の辺りで、かつては道がクランクしており、船橋宿に入る軍勢の勢いを減じる効果があった。それは市川妙典の伊勢宿辺りの道のクランクなどと同様であり、船橋は江戸初期に建てられた船橋御殿を中心に、西側の道のクランク、本町通りの道を挟んだ寺町(古来、寺はいざというときに立て籠もることの出来る場所であった)の存在が軍事的な意味を持っていたのであろう。

<西向地蔵の堂内>

Nishomuki

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