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2006.11.23

知多半島半田・武豊地名考

地名の由来を考えると、隠れた歴史が分かることがあるので面白い。

小生知多半島は武豊町に住んではいるが、会社勤務、外食や余暇もあわせて一日の大部分をお隣の半田市で過ごしているので、実際に住んでいる武豊より半田にいる時間のほうが長い。まあ、隣接しているので、半田も武豊も大きな違いもないが、地名としての武豊は旧長尾村と旧大足村の合併に際して、長尾村の鎮守の武雄神社と大足神社の鎮守の豊石神社の頭文字をとった合成地名であり、分かりやすい。一方、地名の由来が分からないのは、半田のほうである。

もっとも、武豊の元の地名はといえば、長尾は長い尾根のような台地が続いているという意味だろうが、大足のほうは、まさか本当に大きな足ではないだろう。

<JR武豊駅>

Teketoyoeki

大足とは、今では武豊町の一地区で「おおあし」と読む。しかし、本来は「おおたり」だったらしい。つまり、大きく足りる、豊かな場所という意味であろう。それで、鎮守も豊石神社というわけか。

実は、長尾村の鎮守、武雄神社は長尾城という城があった場所である。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。

周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」。「上ゲ」の「ゲ」はカタカナのゲであり、変わった地名である。これは名鉄の駅名になっており、戦時中上ゲ駅は空襲を受け、電車待ちをしていたサラリーマンら2名が駅でなくなっている。上ゲ駅自体は、「下門」という場所にあり、この「下門」も城址の北側に位置し、関連地名らしい。

<上ゲ駅>

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かつて、この「上ゲ」という場所には、岩田氏および有力家臣の屋敷があったという。周辺の民衆からは敬われるような存在の人たちが住んでいたから「上ゲ」なのか、土地が高いから「上ゲ」なのだろうか。やはり、尊ばれる人たちが住んでいたために「上ゲ」というらしい。一説では、武雄神社の氏神を「上げ」奉ることから、「上ゲ」というという説もある。

その「上ゲ」の近くには「ヱヶ屋敷」という地名があり、大日寺という寺のある古そうな住宅地である。こちらは何がなんだか分からない地名であるが、「ヱヶ屋敷」と書いて、「えげやしき」と読む。「屋敷」というのは、愛知県では誰かの屋敷と言う意味ではなく、集落のことを指すことが多い。「ヱヶ」の集落ということになるが、一体「ヱヶ」とは何であろうか。一説には、岩田氏が神官だったことから、その屋敷があったということで、禰宜屋敷となり、それが訛ったものという。以前、住んでいた兵庫県でも神戸市と芦屋市に会下山(えげのやま、えげやま)といった地名があったが、全国各地に頭のように高くなった場所という意味の「会下」の地名はあり、その「会下」の表記が変わったということも考えられる。「ヱヶ屋敷」とは、「会下」の集落という意味ではないか。

一方、半田はどうだろうか。半田とは、半分の田?そんな地名はおかしいように思う。

<半田の運河沿いの蔵>

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半田といえば蔵の町として有名だが、元々酒や酢といった醸造業が盛んであった。また水運なども、そうした生産とともに発達した。物が生産され、物資が行き来されると、人も大勢住み着くことになる。

今年も「はんだふれあい産業まつり」があり、当日出勤していたこともあり、ふらりと会場を覘いた。半田消防署によるブラスバンド演奏やフリーマーケット、地元企業団体による模擬店などがあった。竹細工のコーナーがあり、青竹で作った器やおもちゃなどが売られていたが、凝った細工のものは非売品ということであった。この非売品のほうが良いのだが、もちろん非売品だから売ってもらえない。久保田早紀の「異邦人」の音楽が聞こえてきたので、寄ってみるとバンド演奏をしていたのだが、演奏の方はなかなかうまい。だが、女性のボーカルが今ひとつ。折角、うまく演奏できたのに惜しいと思った次第。

<はんだふれあい産業まつり>

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<竹細工の販売会場>

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それは良いとして、この半田は、上半田、下半田、亀崎、乙川、岩滑、成岩、板山の各地区とも古い歴史もあり、それぞれに特色のある地域である。

ではなぜ半田というのだろうか。乙川や岩滑もひとくせある地名であるが、まずは半田を片付けたい。ところが、半田のルーツがよく分からない。そもそも平安時代以前、半田辺りが何と呼ばれていたかがよく分からないのである。北隣の阿久比については、英比と書いて、「あぐい」で古くからある地名である。

<戦国時代頃の常滑焼>

Tokonameyaki2

平安時代、知多半島に荘園がみられるようになったころは、野間内海庄という知多半島南部の荘園など伊勢湾に面した荘園とは別に、小河庄、生道郷、乙川御薗、英比郷といった荘園があった。堤田庄という荘園があったことは、長らく所伝のままであったが、治暦2年(1066)に藤原頼通の弟教通によって、仁和寺に寄進されたことが、仁和寺資料にあるのが分かり、古文書の上でも実在が確認された。その堤田庄が、現在の常滑、半田の両市域を含む海東、知多、丹羽、中嶋の四郡に渡って存在したと考えられている。

その後の中世の半田も、よく分からない。応仁、文明の乱で、守護一色氏の支配力が衰退し、遂に退転した後も知多郡には守護の補任もなく、尾張守護斯波氏や守護代織田氏の支配も及ばず、中小の在地領主が割拠することになった。その頃、いくつかの城が築かれたようである。

中世の半田は、知多半島の他の地域、常滑などと同様に古窯があったり、前述のように一色氏退転後に中小領主が局地的な支配を行った。戦国時代、天文年間くらいになると、岩滑城に中山勝時が拠り、成岩城は榎本了圓が城主であったが、水野信元に攻められて落ちたなどという話は、比較的よく知られている。そのほかにも、飯森(ゆもり)城には水野氏の水軍衆であった稲生光春が拠ったとか、亀崎にも亀崎城が飯森城と同時期に築かれたようで、やはり水野氏配下の稲生政勝が入った。

実は、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城が半田市堀崎にあった。現在、その辺りは古い住宅街で、大きな寺や教会があり、美しい洋館のある新美眼科(小生も一時通院)など、住宅が密集した場所であり、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。

この辺りに住んでいる人から、近くに紺屋海道という古い道があることを聞いていた小生、少々紺屋海道について調べてみた。そもそも、紺屋海道の紺屋とは染物屋であるが、その染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道が、紺屋海道である。また、紺屋海道の付近には摂取院、龍台院、薬師寺とともに、浄土真宗の順正寺が出ており、順正寺に半田の地名の由来を語る物的証拠があることが分かった。小生、順正寺は新美眼科のすぐ近くにあるので、新美眼科に行く時に常にその前を通っていた。しかし、そんな歴史資料のある寺とは知らなかった。順正寺に伝わる絵像阿弥陀如来は永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とあるが、この坂田郷というのが問題だ。

<紺屋海道>

Konyakaido

「順正寺(堀崎町)には、蓮如上人の第八子で本願寺九世の實如上人より、永正10年(1513)6月28日に下附された絵像本尊が伝えられていて、その裏書きには「尾州智多郡坂田郷」と記されている。これによると、上半田地域を16世紀頃には坂田郷と書き、「サカタ」と称していたのが、音読みして「ハンダ」となり、半田と書かれるようになったのではないかとも考えられる」(1998年7月1日「はんだ市報」:はんだの歴史散歩(47) 「半田の地名」 津田豊彦)とあるように、元々は半田ではなく、坂田といっていたようである。順正寺の山号は坂田山、半田城が別名坂田城というのも、もともと坂田郷だったからであろう。半田郷という日本酒があるが、それは現代のネーミングである。

<順正寺>

Jyunnseiji

ところで、紺屋海道という名の通り、半田の東半分は海で、堀崎町が海岸線であったのだろう。薬師寺という寺の山号は、海照山である。紺屋海道は、詳細な道筋はよく分からなくなっているが、大雑把にいえば海岸線沿いを通っていたのである。

<海照山薬師寺>

Yakusiji

乙川などの地名の由来については、別に述べることにする。

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2006.11.10

「戦国の城」展と本土寺参り

松戸は北小金にある本土寺、一名「あじさい寺」といい、北鎌倉の明月院の向うをはっている。実際、紫陽花の咲くころには、多くの観光客が詰めかけ、参道も混雑するために、今では参道は歩道と車道が完全に分離しているほどである。

<北小金駅前にある本土寺への道標>

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<本土寺の仁王門>

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もちろん、知名度からすれば鎌倉の明月院が全国区なら、本土寺は千葉地方区か。しかし、本土寺は今でも大きな寺地を有し、古文書を収める宝物館まである。

<北鎌倉の明月院>

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<明月院は、紫陽花の季節には参道が紫陽花で埋る>

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ついで参りが良くないのは重々承知しているが、先日松戸市立博物館に行った折に、帰りに本土寺に寄って境内を歩いた。

当初、ただ松戸市立博物館にいくのが目的であった。松戸市立博物館では、「戦国の城をさぐる」という企画展を行っており、同じ会に入っている人から、企画展の招待券をもらって見に行った次第。その企画展は、残った城址を歴史公園化した根木内城に焦点を当てたもので、根木内城の発掘で出てきた遺物などの展示があった。

展示内容は写真に撮ることができなかったが、根木内城や小金城で出土した陶磁器や関連する古文書などが展示されていた。なかでも目をひいたのが、織田信長の朱印状、これは祐筆が書いたものに信長とサインがあり、「天下布武」の朱印が押してあるもの。小生たまたま最近も、常滑で織田信長の黒印状を見ていたが、朱印状というのは珍しいようだ。

<常滑市民俗資料館に展示された織田信長の黒印状>

Kokuin_1

Kokuin2

しかし、一番ギョッとしたのは、葛西城址から出土した成人前の女性の頭骨、しかも三回刀で斬って、三度目にやっと首を落としたことが骨にある刀傷で分かるというもの。実際にその頭骨が展示されていた。これはあることは知っており、写真で見た覚えはあるが、実物は葛西の博物館でも見た覚えがない。展示の説明では詳しく書いてなかったが、この頭骨は葛西城の上杉氏時代の古い堀の中から出てきたもので、上杉氏の城代として大石氏が入っていたころに何らかの事情で処刑されたものか、葛西城が後北条氏に攻められて一旦落城したときに捕えられた大石氏の身内が後北条氏の手の者に斬られたものと考えられる。戦国時代は現代の感覚とは違う、野蛮なこともあったのである。

<松戸市立博物館>

Matudohakubutukan_1

記念講演で峰岸純夫氏の「関東戦国時代と城」という講演があり、拝聴した。関東の情勢、古河公方や下総における千葉氏さらに臼井領を中心とした原氏、小金領の高城氏の動向、そして下総を取り巻く相模の後北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏など周辺の戦国大名の角逐などの状況が、分かりやすく講演されていた。意外というか、よく知らなかったのが、戦国時代の終焉は小田原合戦というが、殆ど同時期の天正12年(1584)に戦われた後北条氏と佐竹氏との沼尻合戦という合戦があり、それが後北条氏と組んだ徳川家康と佐竹氏を後援した豊臣秀吉の代理戦争であったということ。これは中公新書で斎藤慎一氏が『戦国時代の終焉―「北条の夢」と秀吉の天下統一 』という本を出しているが、その本に詳しく記載されているとのことであった。

その講演の後、松戸市立博物館を出て、北小金まで行き、本土寺に参った。以前来た時は紫陽花の季節とあって参道は人で溢れかえっていたが、今回は夕方でもあり、人影もまばらである。

<仁王門を入り、しばらく行くと五重塔がある>

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この本土寺とは、日蓮宗の古刹で、『本土寺過去帳』で知る人ぞ知る、歴史研究者にとって非常にありがたい資料を有した寺であるが、そもそもどういう歴史をもった寺であろうか。

本土寺のHP(参拝の折に頂いたパンフレットにもほぼ同様の記載あり)によれば、

「当山は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、今をさかのぼる事およそ七百年前の建治三年(1277年)に、領主の曽谷教信卿の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まります。

池上の長谷山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に朗門の三長三山と呼ばれ、宗門中屈指の大山として末寺百数十を統べ、山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に、七堂伽藍がその山容を誇ったものでありますが、惜しいかな度々の不受不施の法難と明治維新の廃仏毀釈運動(仏教とりつぶし)のために衰滅し、今は昔の威容とてうかがえません。

しかしながら三聖人ご出生の聖跡として今尚名高く、又開運、乳出子育、学業増進、所願成就のご霊験で知られている名刹であります。

三聖人と申しますのは平賀の三兄弟で、師孝第一と讃えられる日朗聖人、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人、そして池上本門寺、比企ケ谷妙本寺の大成者日輪聖人であります。」 とある。

すなわち、開創には、曽谷教信が関わっており、曽谷氏自身が日蓮の弟子であったために、日蓮から寺号をもらうなどして寺の基礎が出来たようだ。他の資料をみると、日朗上人が開創したと書かれたものもある。この日朗(寛元3年(1245)~ 元応2年(1320))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧であり、父は印東有国という。その印東氏は、上総氏の流れをくむ有力武士である。上総広常の没落、宝治合戦後の下総、上総の有力氏族の衰退の後、印東氏の一部は鎌倉の奉公衆となり、里見に仕えた者もあったが、日朗がどういう背景で出家したかなどはよく分からない。

ともかくも日朗は、日蓮六老僧の一人となったが、日蓮と同様、激しい迫害を受けたようで、右腕の肘を折られ生涯不治であった。佐渡島に配流となっていた師日蓮のもとを八回訪ね、文永11年(1274)には赦免状を携えて佐渡に渡った。その後、鎌倉の比企ヶ谷にある妙本寺(元比企氏の館址)を建立し、そこを拠点として同じく六老僧の一人日昭とともに教線を延ばした。正応元年(1288)、池上宗仲の協力のもと日蓮の御影像を造立し、武蔵国池上本門寺の基礎を築いたという高僧である。

<本堂>

Hondo_1

本堂では、アベックがお祈りをしていた。小生も、現在のゴールが迫っているプロジェクトの無事本番カットオーバーを祈ったのであった(そんな現世的なことで良いのだろうか)。

本堂を過ぎると、秋山夫人の墓があった。秋山夫人は甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、俗名はお都摩(おつま)。武田家が滅んだ後、15歳で徳川家康の側室となり、後に小金3万石の領主となる武田信吉を産んだ。武田、徳川と翻弄された人生のようで、墓もなんとなく寂しげのように感じた。

<秋山夫人の墓>

Akiyama

墓を過ぎ、しばらく行くと池があるが、その池を右に見て進むと、像師堂がある。ここは、日像上人の日像菩薩を祀っている。 日像は文永6年(1269)生、康永元年(1342)没で鎌倉後期から南北朝にかけての人である。この日像こそが、当地に屋敷を構えていたという平賀氏の出身で、日朗に師事したが、のちに日蓮の直弟子になった高僧である。日像は、日蓮の遺言で京都で布教を行ったが、弾圧にあい、三度追放され、その度に許されている。日像菩薩とは、日像自身が仏になったということか。

<像師堂付近から池を望む>

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<像師堂>

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その像師堂の近くには弁天堂と池がある。そして、池のほとりに石碑があり、文化元年(1804)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑がある。

<弁天堂と池>

Hondoji1

<句碑>

Kuhi

 世は夢の みな通ひ路か 梅の花     元夢

その句を読み、小生本土寺をあとにしたのであった。

<本土寺を次にたずねるのはいつだろうか>

Hondoji

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2006.11.02

常滑に呂号甕をたずねて

先日、常滑に行ってきた。といっても住んでいる武豊からは車で20分もあれば中心街にたどり着くので、たいしたことはない。これは、また森タケ男さんからの「秋水燃料を製造する際に使った常滑焼の呂号甕について調べてきてほしい」との要請(というより命令)による。最近、常滑にも行っていないからたまにはいいかと思いつつ、保示の正住院の前を通って一路、常滑市民俗資料館へ。

<正住院の山門>

Shoujyuin

常滑市民俗資料館の駐車場に車を置き、中に入ろうとすると、いきなり園庭に置かれた大きな甕が目に付く。これこそ、呂号甕と思い、とりあえず撮影した。ずらっと呂号甕が並んでいる(写真手前は普通の土管)。ちなみに、この呂号の’呂’とは、ロケットの’ロ’だそうだ。昔の軍部も単純なネーミングをしたもんで。

<常滑市民俗資料館の庭にあった呂号甕>

Rogo5

早速、民俗資料館の中に入ると、平成18年度第4回収蔵品展として「重要文化財・涅槃図と常滑水野家文書を中心として」というものが開催されていた。小生、呂号甕より、こちらのほうに興味があるのだが。

涅槃図は中国の寧波で元末明初の頃に書かれたもので、中之坊寺に伝わった。常滑水野家文書は、以前当ブログでも紹介したもので、水野監物にあてた織田信長の黒印状や徳川家康の書状などである。水野監物守隆は、本能寺の変の際に明智方についたため没落、常滑に帰ることなく京に隠棲せざるを得ず、その未亡人総心が岩滑城主中山勝時の長子光勝の子保雅を養子に迎え、常滑水野氏は尾張徳川家家臣として存続した。

また、戦国時代から安土桃山時代の壺とか、尾張徳川家で使っていた煙硝壺などが展示されていた。よく分からないが、茶陶として使われたらしい壺は、全体に自然釉がかかって良いもののように思える。鑑定団に出したら、いくらぐらいの値段がつくのだろうか。

<常滑水野家文書~織田信長の黒印状>

Kokuin

<戦国時代~安土桃山時代の壺>

Tokonameyaki1

<尾張徳川家の煙硝壺>

Enshoutsubo

話がそれたが、民俗資料館の中には、常設展示として平安時代から江戸時代の甕や壺、茶碗、朱泥急須といった陶器、現代の陶製土管、電線を埋設するための電纜管やら器具の類が展示されている。そのなかに、一際大きな呂号甕がある。高さは2mほどもあろうか。人間の背丈より大きそうである。この呂号甕には2,000リットル入るそうである。つまり1升ビン1,111本分である。これが、硫酸瓶などと一緒に展示されている。

<民俗資料館に展示されている呂号甕>

Rogo1

よく見ると、下部に小さな口が開いており、フレンジパイプが繋がっている。呂号コニカルフレンジパイプというものらしい。他にフレンジの繋がっていない、口の部分が露出したものが民俗資料館の庭にもあったが、丁度口の部分はラッパ状に突起しており、呂号コニカルフレンジパイプの管端部も張り出していて、パイプの先端がはまるようになっていた。

<呂号甕下部の拡大写真>

Rogo2

<民俗資料館の庭にある呂号甕>

Rogo6

常滑市民俗資料館の職員の方にうかがったが、呂号甕に関するまとまった資料はないそうだ。しかし、太平洋戦争当時の常滑については、いろいろな文献で知ることが出来た。

戦時統制下、食料増産のため湿田改良が行われ、常滑では農地改良用の土管などが量産されていた。太平洋戦争末期になると戦局は暗転し、一発逆転を狙う軍部はロケット機とその燃料の生産が急務としたが、燃料については厄介な問題があった。

ロケット機「秋水」は、甲液すなわち過酸化水素80%と安定剤の混合と、乙液すなわち水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加したものを反応させて推力を得る。ロケット燃料として、大量の濃縮過酸化水素の生産が計画されたが、その過酸化水素濃縮装置には耐酸性が必要であった。鉄などの一般的な金属製では、すぐに腐食してしまい、使い物にならない。そこで、過酸化水素の濃縮装置には陶磁器が最適とされ、日本碍子(現日本ガイシ)をはじめとして陶磁器業界が必要な装置類を生産した。その陶磁器を利用した燃料装置、特に貯蔵槽等の一大生産拠点が常滑であった。なかでも高さが1.5m以上、容量も3,000リットルもあるような貯蔵用の大甕は、大型土管製造の技術をもつ、伊奈製陶でなければ難しかった。

実は、常滑の土は鉄分を多く含んでいる。たとえば、朱泥の急須が常滑焼では有名であるが、常滑焼の赤い色は、陶土自体に鉄分を含んでいるから、そういう色になるのである。この鉄分を多く含むという陶土の性質から、呂号甕などの容器には常滑以外の適地の土が使用され、製造は常滑で行ったというのが実態である。伊奈製陶(現INAX)の元部長、渡辺栄造氏が「戦争と常滑焼」(『友の会だより』第五号所収 常滑市民俗資料館)に当時の状況を書いている。

昭和19年(1944)7月下旬、伊奈製陶へ海軍省燃料局から呂号兵器の生産命令がきた
(呂号兵器とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置といい、酸やアルカリに最も強い耐酸炻器を、ロケット推進に必要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもの)。
その生産命令の中身は、大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというもので、この新兵器は航空機以上の急用品だという。
伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。

このように、昭和19年(1944)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

この呂号甕、常滑では大量に生産されたようで、街中でよく見かけた。結局、ロケット機「秋水」が実用に乗らず、呂号兵器は常滑に溢れかえったのであろう。例えば、下の喫茶店の看板代わりに使われている大甕、これも呂号甕である。口が小さく、ほぼ球体をしている。 喫茶店の名前も「壺」といい、そのままである。

<喫茶店「壺」店頭の呂号甕>  

Rogo3

さらに常滑市陶磁器会館の前にも、小ぶりながら呂号甕がある。この甕は、下部の開口部がきちんと残っている。実は、前に紹介した民俗資料館の呂号甕を、陶磁器会館にあると間違って紹介しているHPがあったのであるが、確かに呂号甕は陶磁器会館のにはあった。ちょっと小振りではあるが。

Rogo4

さらに陶磁器会館から歩いて、「散歩道」を行くと、懐かしいレンガ作りの煙突など、常滑らしい風景に出会うことになる。「散歩道」周辺でも、呂号甕はありそうである。その途中で、妙齢の女性2人組が細い路地に入っていくので、ふと見るとギャラリー何とかという案内板があった。ギャラリーとは壺か何かを展示しているのか、それとも絵?と、その女性2人に導かれるように、小生路地に入ったとたん、呂号甕が道の脇の雑草の中にあるのを発見。女性2人はお互いに記念写真を撮っていたが、小生は雑草の中の甕にカメラを向けたのであった。多分、「何でこの人は雑草だらけのところを撮っているのかしら」と思われていたであろう。また、ギャラリー何とかという店に行くことも忘れ、俄然呂号甕探しを思い出したのであった。

今回写真に撮らなかったが、陶芸工房の敷地に呂号甕が置いてあったりした。また、呂号のパイプを壁にしている呂号壁というのもある。

<懐かしいレンガ作りの煙突>

Tokoname

<散歩道の途中で>

Sampomichi1

<雑草に隠れた呂号甕>

Rogo7

帰りがけ、陶芸道場の前に動物たちを陶器にした陶製人形が飾ってあった。猫と豚と、あとは何かな?近くには土管坂という、尺土管を土留めにした坂道がある。一つの観光スポットなのだが、それほど驚くほどのものではない。やれやれ、今日は、呂号甕で終った一日であった。そこを通って、帰ることにした。

<陶芸道場前の陶製人形>

Tougeidoujyo 

すると、土管坂のところで、猫がこちらを見ていた。そして、ゆっくりと土管坂を登っていったのである。

一句浮かんだ。

秋日和 猫のぼりける 土管坂

<土管坂にいた猫>

Dokanzaka1

<猫が悠然と土管坂を登る>

Dokanzaka3

参考文献

・『常滑陶業の100年』 とこなめ焼協同組合 常滑市民俗資料館 (2000年)

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