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2006.11.10

「戦国の城」展と本土寺参り

松戸は北小金にある本土寺、一名「あじさい寺」といい、北鎌倉の明月院の向うをはっている。実際、紫陽花の咲くころには、多くの観光客が詰めかけ、参道も混雑するために、今では参道は歩道と車道が完全に分離しているほどである。

<北小金駅前にある本土寺への道標>

Hondojimichi

<本土寺の仁王門>

Sanmon_3

もちろん、知名度からすれば鎌倉の明月院が全国区なら、本土寺は千葉地方区か。しかし、本土寺は今でも大きな寺地を有し、古文書を収める宝物館まである。

<北鎌倉の明月院>

Meigetuin

<明月院は、紫陽花の季節には参道が紫陽花で埋る>

Ajisai

ついで参りが良くないのは重々承知しているが、先日松戸市立博物館に行った折に、帰りに本土寺に寄って境内を歩いた。

当初、ただ松戸市立博物館にいくのが目的であった。松戸市立博物館では、「戦国の城をさぐる」という企画展を行っており、同じ会に入っている人から、企画展の招待券をもらって見に行った次第。その企画展は、残った城址を歴史公園化した根木内城に焦点を当てたもので、根木内城の発掘で出てきた遺物などの展示があった。

展示内容は写真に撮ることができなかったが、根木内城や小金城で出土した陶磁器や関連する古文書などが展示されていた。なかでも目をひいたのが、織田信長の朱印状、これは祐筆が書いたものに信長とサインがあり、「天下布武」の朱印が押してあるもの。小生たまたま最近も、常滑で織田信長の黒印状を見ていたが、朱印状というのは珍しいようだ。

<常滑市民俗資料館に展示された織田信長の黒印状>

Kokuin_1

Kokuin2

しかし、一番ギョッとしたのは、葛西城址から出土した成人前の女性の頭骨、しかも三回刀で斬って、三度目にやっと首を落としたことが骨にある刀傷で分かるというもの。実際にその頭骨が展示されていた。これはあることは知っており、写真で見た覚えはあるが、実物は葛西の博物館でも見た覚えがない。展示の説明では詳しく書いてなかったが、この頭骨は葛西城の上杉氏時代の古い堀の中から出てきたもので、上杉氏の城代として大石氏が入っていたころに何らかの事情で処刑されたものか、葛西城が後北条氏に攻められて一旦落城したときに捕えられた大石氏の身内が後北条氏の手の者に斬られたものと考えられる。戦国時代は現代の感覚とは違う、野蛮なこともあったのである。

<松戸市立博物館>

Matudohakubutukan_1

記念講演で峰岸純夫氏の「関東戦国時代と城」という講演があり、拝聴した。関東の情勢、古河公方や下総における千葉氏さらに臼井領を中心とした原氏、小金領の高城氏の動向、そして下総を取り巻く相模の後北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏など周辺の戦国大名の角逐などの状況が、分かりやすく講演されていた。意外というか、よく知らなかったのが、戦国時代の終焉は小田原合戦というが、殆ど同時期の天正12年(1584)に戦われた後北条氏と佐竹氏との沼尻合戦という合戦があり、それが後北条氏と組んだ徳川家康と佐竹氏を後援した豊臣秀吉の代理戦争であったということ。これは中公新書で斎藤慎一氏が『戦国時代の終焉―「北条の夢」と秀吉の天下統一 』という本を出しているが、その本に詳しく記載されているとのことであった。

その講演の後、松戸市立博物館を出て、北小金まで行き、本土寺に参った。以前来た時は紫陽花の季節とあって参道は人で溢れかえっていたが、今回は夕方でもあり、人影もまばらである。

<仁王門を入り、しばらく行くと五重塔がある>

Gojyutou

この本土寺とは、日蓮宗の古刹で、『本土寺過去帳』で知る人ぞ知る、歴史研究者にとって非常にありがたい資料を有した寺であるが、そもそもどういう歴史をもった寺であろうか。

本土寺のHP(参拝の折に頂いたパンフレットにもほぼ同様の記載あり)によれば、

「当山は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、今をさかのぼる事およそ七百年前の建治三年(1277年)に、領主の曽谷教信卿の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まります。

池上の長谷山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に朗門の三長三山と呼ばれ、宗門中屈指の大山として末寺百数十を統べ、山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に、七堂伽藍がその山容を誇ったものでありますが、惜しいかな度々の不受不施の法難と明治維新の廃仏毀釈運動(仏教とりつぶし)のために衰滅し、今は昔の威容とてうかがえません。

しかしながら三聖人ご出生の聖跡として今尚名高く、又開運、乳出子育、学業増進、所願成就のご霊験で知られている名刹であります。

三聖人と申しますのは平賀の三兄弟で、師孝第一と讃えられる日朗聖人、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人、そして池上本門寺、比企ケ谷妙本寺の大成者日輪聖人であります。」 とある。

すなわち、開創には、曽谷教信が関わっており、曽谷氏自身が日蓮の弟子であったために、日蓮から寺号をもらうなどして寺の基礎が出来たようだ。他の資料をみると、日朗上人が開創したと書かれたものもある。この日朗(寛元3年(1245)~ 元応2年(1320))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧であり、父は印東有国という。その印東氏は、上総氏の流れをくむ有力武士である。上総広常の没落、宝治合戦後の下総、上総の有力氏族の衰退の後、印東氏の一部は鎌倉の奉公衆となり、里見に仕えた者もあったが、日朗がどういう背景で出家したかなどはよく分からない。

ともかくも日朗は、日蓮六老僧の一人となったが、日蓮と同様、激しい迫害を受けたようで、右腕の肘を折られ生涯不治であった。佐渡島に配流となっていた師日蓮のもとを八回訪ね、文永11年(1274)には赦免状を携えて佐渡に渡った。その後、鎌倉の比企ヶ谷にある妙本寺(元比企氏の館址)を建立し、そこを拠点として同じく六老僧の一人日昭とともに教線を延ばした。正応元年(1288)、池上宗仲の協力のもと日蓮の御影像を造立し、武蔵国池上本門寺の基礎を築いたという高僧である。

<本堂>

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本堂では、アベックがお祈りをしていた。小生も、現在のゴールが迫っているプロジェクトの無事本番カットオーバーを祈ったのであった(そんな現世的なことで良いのだろうか)。

本堂を過ぎると、秋山夫人の墓があった。秋山夫人は甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、俗名はお都摩(おつま)。武田家が滅んだ後、15歳で徳川家康の側室となり、後に小金3万石の領主となる武田信吉を産んだ。武田、徳川と翻弄された人生のようで、墓もなんとなく寂しげのように感じた。

<秋山夫人の墓>

Akiyama

墓を過ぎ、しばらく行くと池があるが、その池を右に見て進むと、像師堂がある。ここは、日像上人の日像菩薩を祀っている。 日像は文永6年(1269)生、康永元年(1342)没で鎌倉後期から南北朝にかけての人である。この日像こそが、当地に屋敷を構えていたという平賀氏の出身で、日朗に師事したが、のちに日蓮の直弟子になった高僧である。日像は、日蓮の遺言で京都で布教を行ったが、弾圧にあい、三度追放され、その度に許されている。日像菩薩とは、日像自身が仏になったということか。

<像師堂付近から池を望む>

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<像師堂>

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その像師堂の近くには弁天堂と池がある。そして、池のほとりに石碑があり、文化元年(1804)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑がある。

<弁天堂と池>

Hondoji1

<句碑>

Kuhi

 世は夢の みな通ひ路か 梅の花     元夢

その句を読み、小生本土寺をあとにしたのであった。

<本土寺を次にたずねるのはいつだろうか>

Hondoji

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