知多半島半田・武豊地名考
地名の由来を考えると、隠れた歴史が分かることがあるので面白い。
小生知多半島は武豊町に住んではいるが、会社勤務、外食や余暇もあわせて一日の大部分をお隣の半田市で過ごしているので、実際に住んでいる武豊より半田にいる時間のほうが長い。まあ、隣接しているので、半田も武豊も大きな違いもないが、地名としての武豊は旧長尾村と旧大足村の合併に際して、長尾村の鎮守の武雄神社と大足神社の鎮守の豊石神社の頭文字をとった合成地名であり、分かりやすい。一方、地名の由来が分からないのは、半田のほうである。
もっとも、武豊の元の地名はといえば、長尾は長い尾根のような台地が続いているという意味だろうが、大足のほうは、まさか本当に大きな足ではないだろう。
<JR武豊駅>
大足とは、今では武豊町の一地区で「おおあし」と読む。しかし、本来は「おおたり」だったらしい。つまり、大きく足りる、豊かな場所という意味であろう。それで、鎮守も豊石神社というわけか。
実は、長尾村の鎮守、武雄神社は長尾城という城があった場所である。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。
周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」。「上ゲ」の「ゲ」はカタカナのゲであり、変わった地名である。これは名鉄の駅名になっており、戦時中上ゲ駅は空襲を受け、電車待ちをしていたサラリーマンら2名が駅でなくなっている。上ゲ駅自体は、「下門」という場所にあり、この「下門」も城址の北側に位置し、関連地名らしい。
<上ゲ駅>
かつて、この「上ゲ」という場所には、岩田氏および有力家臣の屋敷があったという。周辺の民衆からは敬われるような存在の人たちが住んでいたから「上ゲ」なのか、土地が高いから「上ゲ」なのだろうか。やはり、尊ばれる人たちが住んでいたために「上ゲ」というらしい。一説では、武雄神社の氏神を「上げ」奉ることから、「上ゲ」というという説もある。
その「上ゲ」の近くには「ヱヶ屋敷」という地名があり、大日寺という寺のある古そうな住宅地である。こちらは何がなんだか分からない地名であるが、「ヱヶ屋敷」と書いて、「えげやしき」と読む。「屋敷」というのは、愛知県では誰かの屋敷と言う意味ではなく、集落のことを指すことが多い。「ヱヶ」の集落ということになるが、一体「ヱヶ」とは何であろうか。一説には、岩田氏が神官だったことから、その屋敷があったということで、禰宜屋敷となり、それが訛ったものという。以前、住んでいた兵庫県でも神戸市と芦屋市に会下山(えげのやま、えげやま)といった地名があったが、全国各地に頭のように高くなった場所という意味の「会下」の地名はあり、その「会下」の表記が変わったということも考えられる。「ヱヶ屋敷」とは、「会下」の集落という意味ではないか。
一方、半田はどうだろうか。半田とは、半分の田?そんな地名はおかしいように思う。
<半田の運河沿いの蔵>
半田といえば蔵の町として有名だが、元々酒や酢といった醸造業が盛んであった。また水運なども、そうした生産とともに発達した。物が生産され、物資が行き来されると、人も大勢住み着くことになる。
今年も「はんだふれあい産業まつり」があり、当日出勤していたこともあり、ふらりと会場を覘いた。半田消防署によるブラスバンド演奏やフリーマーケット、地元企業団体による模擬店などがあった。竹細工のコーナーがあり、青竹で作った器やおもちゃなどが売られていたが、凝った細工のものは非売品ということであった。この非売品のほうが良いのだが、もちろん非売品だから売ってもらえない。久保田早紀の「異邦人」の音楽が聞こえてきたので、寄ってみるとバンド演奏をしていたのだが、演奏の方はなかなかうまい。だが、女性のボーカルが今ひとつ。折角、うまく演奏できたのに惜しいと思った次第。
<はんだふれあい産業まつり>
<竹細工の販売会場>
それは良いとして、この半田は、上半田、下半田、亀崎、乙川、岩滑、成岩、板山の各地区とも古い歴史もあり、それぞれに特色のある地域である。
ではなぜ半田というのだろうか。乙川や岩滑もひとくせある地名であるが、まずは半田を片付けたい。ところが、半田のルーツがよく分からない。そもそも平安時代以前、半田辺りが何と呼ばれていたかがよく分からないのである。北隣の阿久比については、英比と書いて、「あぐい」で古くからある地名である。
<戦国時代頃の常滑焼>
平安時代、知多半島に荘園がみられるようになったころは、野間内海庄という知多半島南部の荘園など伊勢湾に面した荘園とは別に、小河庄、生道郷、乙川御薗、英比郷といった荘園があった。堤田庄という荘園があったことは、長らく所伝のままであったが、治暦2年(1066)に藤原頼通の弟教通によって、仁和寺に寄進されたことが、仁和寺資料にあるのが分かり、古文書の上でも実在が確認された。その堤田庄が、現在の常滑、半田の両市域を含む海東、知多、丹羽、中嶋の四郡に渡って存在したと考えられている。
その後の中世の半田も、よく分からない。応仁、文明の乱で、守護一色氏の支配力が衰退し、遂に退転した後も知多郡には守護の補任もなく、尾張守護斯波氏や守護代織田氏の支配も及ばず、中小の在地領主が割拠することになった。その頃、いくつかの城が築かれたようである。
中世の半田は、知多半島の他の地域、常滑などと同様に古窯があったり、前述のように一色氏退転後に中小領主が局地的な支配を行った。戦国時代、天文年間くらいになると、岩滑城に中山勝時が拠り、成岩城は榎本了圓が城主であったが、水野信元に攻められて落ちたなどという話は、比較的よく知られている。そのほかにも、飯森(ゆもり)城には水野氏の水軍衆であった稲生光春が拠ったとか、亀崎にも亀崎城が飯森城と同時期に築かれたようで、やはり水野氏配下の稲生政勝が入った。
実は、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城が半田市堀崎にあった。現在、その辺りは古い住宅街で、大きな寺や教会があり、美しい洋館のある新美眼科(小生も一時通院)など、住宅が密集した場所であり、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。
この辺りに住んでいる人から、近くに紺屋海道という古い道があることを聞いていた小生、少々紺屋海道について調べてみた。そもそも、紺屋海道の紺屋とは染物屋であるが、その染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道が、紺屋海道である。また、紺屋海道の付近には摂取院、龍台院、薬師寺とともに、浄土真宗の順正寺が出ており、順正寺に半田の地名の由来を語る物的証拠があることが分かった。小生、順正寺は新美眼科のすぐ近くにあるので、新美眼科に行く時に常にその前を通っていた。しかし、そんな歴史資料のある寺とは知らなかった。順正寺に伝わる絵像阿弥陀如来は永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とあるが、この坂田郷というのが問題だ。
<紺屋海道>
「順正寺(堀崎町)には、蓮如上人の第八子で本願寺九世の實如上人より、永正10年(1513)6月28日に下附された絵像本尊が伝えられていて、その裏書きには「尾州智多郡坂田郷」と記されている。これによると、上半田地域を16世紀頃には坂田郷と書き、「サカタ」と称していたのが、音読みして「ハンダ」となり、半田と書かれるようになったのではないかとも考えられる」(1998年7月1日「はんだ市報」:はんだの歴史散歩(47) 「半田の地名」 津田豊彦)とあるように、元々は半田ではなく、坂田といっていたようである。順正寺の山号は坂田山、半田城が別名坂田城というのも、もともと坂田郷だったからであろう。半田郷という日本酒があるが、それは現代のネーミングである。
<順正寺>
ところで、紺屋海道という名の通り、半田の東半分は海で、堀崎町が海岸線であったのだろう。薬師寺という寺の山号は、海照山である。紺屋海道は、詳細な道筋はよく分からなくなっているが、大雑把にいえば海岸線沿いを通っていたのである。
<海照山薬師寺>
乙川などの地名の由来については、別に述べることにする。
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コメント
半田市出身の者です。非常に興味深く拝読いたしました。私は乙川東小及び乙川中の卒業生で、乙川の地名由来についても興味深々です。因みに、貴殿は半田のミツカン酢の隆盛は、江戸前寿司の流行と関係があったことを御存じでしたでしょうか。小生もつい最近NHKの番組で知りました。北前船同様、太平洋岸の航路もそれなりに経済的な影響を持った様です。因みに
タウンゼント・ハリスの侍女となった唐人お吉は内海の出身です。今後の益々のご健勝を期待致します。
投稿: 李 完植 | 2015.06.09 01:28