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2006.12.31

お城めぐりの心得?

これは、筆者の経験と聞いた話から書くものなので、一般的でないものもあるかもしれない。城跡といっても、名古屋城とか姫路城のような、一種の公園のようなきれいな城ではなく、山や藪の中にありがちな中世城郭をさしている。

<白井市にある小森城址>

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1.城跡に行くときには、長袖、長ズボン、靴は底が固いものでいくべし。

なぜなら、藪の雑木、とげのある植物、虫などはつきもので、特に竹やぶのような場所は要注意。尖った切り口の切り株などを踏むと、スニーカーとかでは大変。

2.できれば夏は避け、冬いくべし

夏は虫が多い。この虫は「ムシ」できない。冬場にあがれないような山は別として、それ以外の場所は冬に行ったほうがよい。冬であれば、下草も枯れていて、土塁なども見やすい。

3.車で行けないところもある

車は便利だが、駐車場がない城跡のほうが圧倒的に多い。駐車場がある臼井城や公園化されている師戸城などは特別であり、あの国指定史跡の本佐倉城ですら、駐車場がない(かくいう小生、京成大佐倉駅から本佐倉城の「セッテイ山」までよく歩いていた)。それに周辺の道が狭い、あるいは道らしい道がない、場合もある。電車やバスを乗り継いで、城跡の周りはじっくり歩いたほうが、いろいろ発見があるかもしれない。

4.山城では熊など野生動物に注意

千葉では、そんなこともないが、山城へ行くととんでもない動物に遭遇することがあるらしい。小生、幸いにして一度もないが、熊も本当に出る場合がある。まあ、兵庫に住んでいたときは、猪はたまに見かけましたが。なお、未経験者は山城に行くこと自体、危険なので、どうしても行きたい場合は単独ではなく、経験者と一緒に行くべし。

5.新住民には聞くべからず

あまり、無闇に城主が誰かとか故事来歴のようなことを付近の人に聞くのは、やめたほうが良い。たまたま近くに住んでいる普通の人たちは、郷土史家ではないのである。特に新住民らしい人に聞いても、城跡があることすら知らない人も多い。そういう新住民の人に聞いても、相手も困るだろうし、お互いに時間の無駄。聞くなら旧住民の年配者に限る。

6.無用なものは持ち歩くな

持ち物は必要最小限にしないと、身動きがわるくなり、躓きのもとにもなる。斜面を上り下りするような場合、特に困る。筆者もデジカメのケースを落としたことがある。特に藪の中に落としたら、まず見つからない。

7.携帯電話は持っていけ

万一の場合に備え、携帯電話は持っていくほうが良い。初めての場合は、地図や方位磁石も必要でしょう。

以上、気付いたことを列記したが、筆者は元々無計画な人間ゆえ、服装とかをのぞけばなかなか守れず、迷子になりかけたこともしばしば。

<津城の堀にて~津城は上記のような難しい城ではない>

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2006.12.26

軍歌・懐メロから盗用されたフレーズ

以前、松本零士の「銀河鉄道999」のなかのセリフを槇原敬之が盗作したという、疑惑報道がなされ、両者の間で争う動きがあった。その後、10月下旬一旦和解に向ったというが、11月には再燃しており、一体どうなったのか、良く分からないが、最近は報道がないことから収束したのかも。本件、松本零士の側が「無断使用と指摘したのは、歌詞の『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」とのサビの部分。これが『銀河鉄道-』の名セリフ「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」に合致すると主張。(以下省略)この騒動は、ネット上でも話題になり、掲示板やブログでたくさん取り上げられたが、どちらかというと槇原支持が多いようだ。『短い文章だけに、似てしまうこともある』『2つの文は意味が異なる』『大御所なのに小さいことを気にしている』 」(J-CASTニュース、2006年11月9日)と報じられた。

「短い文章だけに、似てしまうこともある」という槇原支持の声に対し、小生疑問を感じる。短くても印象的なフレーズは、インパクトがあり、盗作もされやすい。かくいう小生、「夜霧の古城」とは「夜霧の慕情」のタイトルをパクったのではという疑惑を持たれても仕方がない。一時は「夜霧の第二古城」という、明らかに「夜霧の第二国道」をパクったブログもあり、「薔薇の古城」と改名した。

したがって、そんな小生が言っても、あまり説得力がないが、結構歌謡曲のタイトルや決めゼリフのようなフレーズが、古い歌、それも軍歌や何らかの事情で著作権が放棄されたような懐メロの類から剽窃されているのに、最近気付いた。

<陸軍四式戦闘機「疾風」>

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例えば、「燃える闘魂」、これはアントニオ猪木の専売特許のようになっている。もっとも、アントニオ猪木の発案ではなく、NET(現テレビ朝日)のアナウンサーの命名だという。

ところが、「燃える闘魂」というフレーズは、「特幹の歌」という軍歌の歌詞に出てくるのである。もちろん、「特幹の歌」は陸軍特別幹部候補生を歌った、戦時中の歌であるから、アントニオ猪木の方が新しい。

「特幹の歌」では、

「翼輝く 日の丸に 燃える闘魂 眼にも見よ 今日もさからう 雲切れば 風も静まる 太刀洗 ああ特幹の 太刀洗」

というように歌われている。この「太刀洗」とは陸軍の太刀洗航空隊のことで、陸軍特別幹部候補生とは、海軍の予科練にあたる少年航空兵たちのことである。

<陸軍一式戦闘機「隼」>

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それから、軍歌、「皇軍大捷の歌」。この中のフレーズが武田鉄矢、海援隊の歌の題名になっていることを、最近ある人から教えてもらった。その人のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/jyo_takuya/folder/946233.html)を引用すると、

「実は、小生、新たな疑惑を発見した。それは軍歌のあるフレーズに、海援隊の有名な歌のフレーズ、というか題名がそっくりなのである。

その軍歌とは『皇軍大捷の歌』。知らない人は知らないだろうが、割と有名な軍歌である。

皇軍大捷の歌
作詞 福田米三郎 作曲 堀内敬三 

一番 国を発つ日の万歳に しびれるほどの感激を こめてふったもこの腕ぞ 
   今その腕に長城を こえてはためく日章旗

二番 焦りつく雲に弾丸の音 敵せん滅の野にむすぶ 露営の夢は短夜に 
   ああぬかるみの追撃の 汗を洗えと大黄河

三番 地平か空か内蒙の 砂塵に勝利の眼が痛む 思えば遠く来たものぞ
   朔風すでに吹き巻いて 北支の山野敵もなし (以下、省略)  

海援隊の歌とは、『思えば遠くへ来たもんだ』である。

思えば遠くへ来たもんだ
作詞 武田鉄矢 作曲 山本康世  歌 海援隊

タイトルだけでなく、このなかで『レールの響き聞きながら 遙かな旅路夢見てた 思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズがある。
『皇軍大捷の歌』の『思えば遠く来たものぞ』と『思えば遠くへ来たもんだ』、そっくりではないか。文語体を口語体に直し、『遠く』を『遠くへ』に替えただけ。(以下省略)」

なお、JYOさんの説はユニークなものであるが、中原中也の詩の盗作という説もある。

「道楽親父の独り言」(http://himajin-nobu.at.webry.info/200511/article_15.html)というブログでも、「 思えば遠くへ来たもんだ ☆ 海援隊と中原中也」という記事のなかで、 「ところで、このタイトルはどこかで聞いたことがある。中原中也の『頑是ない歌』の冒頭のフレーズだ。紹介すれば次のとおりだ。

思えば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いずこ

(詩集「在りし日の歌」所収)

盗作だとかパクリなんて野暮は言いたくない。似てるけど内容はちょっぴり違う。私もそうだが気に入ったフレーズが詩を作ると思わずにじんでくるときもある。」と書かれている。

軍歌か詩か、いずれにせよ、パクリであることは間違いなさそうである。

<「思えば遠く来たものぞ」~中国南部に侵攻した日本軍>

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また、JYOさんによれば、あきれたぼういず、後の川田義雄とミルクブラザースの「地球の上に朝が来る」も、やはり軍歌の「日の丸行進曲」の歌詞の確信犯的盗用、「浪花節だよ 人生は」は、竹腰ひろ子が歌っていた「東京流れ者」の歌詞からの盗用だそうだ。

そういえば、最近氷川きよしが歌っていた「白雲の城」は、昔三橋美智也が歌っていた「古城」と曲の感じがよく似ている。やはり、盗作だと騒がれた。但し、歌の出来は、三橋美智也の「古城」の方が数百倍良い。

<犬山城>

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なぜ、こういう他人の歌、それも作詞、作曲者が明確な新しい歌ではなく、著作権が消滅、あるいは当事者が死んでしまって権利者が名乗って出てこないような歌がターゲットにされるかといえば、やはり著作権の問題があるのだろう。相手がはっきりしていると、訴えられる可能性も高いが、そうでなければ、使い得という感覚があるのである。まあ、あきれたぼういずの「地球の上に朝が来る」は、洒落であろうが、あとの例は余り潔いとはいえませんな。

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2006.12.17

知多武豊にある長尾城

前にも述べたように、愛知県知多郡武豊町は、昔長尾村と大足村の二ヶ村であったのが、明治の大合併で合併し、武豊町となった。それも長尾村の鎮守、武雄神社と大足村の鎮守、豊足神社の一字を合成して武豊となった。

単純に村の一字を合成していたら、長足町とか、大長町という名前になっていたのだろうが、それでは通りがわるいということだろうか。

その長尾村には長尾城という城があった。その場所はJR武豊駅を含む、武雄神社東南の台地である。その長尾城の城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。岩田氏が、いつから当地にいるかといえば、鎌倉時代であるという。その昔、現在の武豊町は枳豆志(きづし)庄という荘園の一部であった。その地頭であったのは、鎌倉の有力御家人であった名越氏であり、名越遠江守朝時という名が知られている。岩田氏は、この名越氏の代官として入部したといわれ、元寇に際して、岩田兵衛将監弘直なる人物が、一族郎党を率いて九州へ赴いたとされる。しかし、名越朝時は北条義時の次男であり、一時は鎌倉三代将軍源実朝の怒りを買って失脚、その後和田義盛の乱や承久の変で武功をあげ、許されて加賀、越後、大隈の守護に任ぜられた人物である。名越朝時の子光時の代に寛元4年(1246)の宮騒動で没落、光時の弟時章が跡を継いだ。そうして存続した名越氏は尾張の守護にも任じられたが、元弘の乱の頃は、名越宗教が守護であった。したがって、鎌倉期に枳豆志庄の地頭を名越氏がつとめていても、不思議ではないが、岩田氏が名越氏の代官だったかどうかは疑問が残る。岩田氏の鎌倉期の大先祖は、岩田遠江守朝弘というが、名前が名越遠江守朝時とよく似ている、鎌倉期における岩田氏の通字は「朝」の字であるが、通常主君から名前を貰う場合は下の字を貰うことが多い(上の字を貰う場合もあるが、同族とか上級家臣の場合である)ということからみても、架空の人物ではないかと考えられる。なお、武豊町誌では、子孫の方に配慮してか、そこまで明確には言っていない。

<岩田氏の居館があったという武雄神社>

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『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となった。岩田氏の名字の地、石田(いわた)もその醍醐近くの「石田の杜」と歌枕にもされる土地であるという。となると、岩田氏は名越氏の代官ではなしに、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。こちらの方が、岩田氏が京都から下向してきた理由も納得感があるのだが、如何に。

また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。この城とは、通常城跡として信じられている武雄神社は、本来岩田氏の居館であって、別に城が現在のJR武豊駅の場所およびその西隣の小さな台地にあったということで、江戸時代に書かれた絵図には、確かに「本城」という名で、その城址が示されている。

<長尾城と岩田氏居館の位置>

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<江戸時代の絵図~武豊町誌資料編から引用>

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(着色、文字入れは筆者)

その城以外に、名鉄富貴駅近くにある富貴城、あるいは常滑市の苅屋城も、岩田氏のものであったという。すなわち、室町時代においても、かつての枳豆志庄の範囲で、勢力を保っていたと見られる。岩田氏の系譜について、鎌倉時代の話は裏付け資料もなく、信じがたいのであるが、室町以降、いくつか城を構えていた岩田氏は、尾張守護の勢力が知多半島の中央から南には及ばないのをいいことに、自由に振舞っていた戦国の土着領主そのものであった。最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。杲貞は右京亮光秋の子であり、鎌倉時代中頃の遠江守朝弘の代から代々長尾の地にいたというが、前述の通り信じ難い。杲貞の子は、盛俊、さらにその子は、光忠。その光忠の代から先は、岩田氏の系譜には名がない。とはいえ、現在でも、岩田という名字の家は、常滑市や武豊町、半田市でも結構残っている。それらの家のうち、よそから移ってきた家は別として、元々先祖代々住んでいる人は岩田杲貞に連なるのかもしれない。

岩田氏の家臣では、名前が伝えられているのは、神谷氏であり、家老であったという。その墓が武豊町内に残っている。このように、ある程度、岩田氏に関する情報は、武豊町周辺に残っている。成岩城の榎本了圓について、出自が分からなければ、落城後どうなったのかも不明というのと好対照であろう。

長尾城の遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様である。国鉄武豊駅が出来たため、その駅員用の官舎が建設された際に、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があった様子がわかる。

<長尾城~北側>

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<長尾城~北側堀跡>

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周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」は、一説には城主や有力家臣の屋敷があったために、敬うべきひとが住むということで「上ゲ」としたという。名鉄の上ゲ駅がある「下門」も城址の北側に位置し、「キタモン」が訛って「シタモン」になったということで、関連地名らしい。

さらに、長尾城の本城があった、「金下」は神奈備の下という意味で、「カナゲ」なのだそうである。この城は、元は海がすぐ下に迫るような微高地にあり、また南北に長いということで成岩城に似ている。郭構造が分からないが、想像では細長い尾根状の台地をいくつかの堀で分断したようなつくりであった可能性がある。

<長尾城跡をJR武豊駅から見る>

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天文年間に、はや岩田氏は歴史の表舞台から消えた。その後は、岩田氏の拠った長尾城は廃城になったと思われ、富貴城は戸田氏もしくは緒川水野氏の手に渡った。苅屋城は古く室町期(大永年間頃か)は鵜飼福元、あるいは下って常滑水野氏の水軍宮崎久左衛門が城主として見え、結局は常滑水野氏の配下にされたと思われる。こうして、かつての秩序は崩れ、実力ある豪族たちの跳梁跋扈する時代となった。そして、知多半島は本格的な戦国の時代に突入する。

<岩田氏が拠ったといわれる、苅屋城跡遠望>

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参考文献:

『武豊町誌』  武豊町   (1984)

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2006.12.03

徳川家康と知多半島(その20:徳川家康と桶狭間合戦<前編>)

桶狭間合戦の実相と題して、前回、前々回自説を述べさせていただいた。

永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦では、結局今川義元が討死、織田方が勝利したわけであるが、それは織田信長が尾張一国から東海地方一円の覇権を築き、さらに天下統一へ動く大きな転換点となった。では、その桶狭間合戦前哨戦ともいうべき大高城、鷲津、丸根砦の攻防のなかで、大高城兵糧入れに成功して、そのまま大高城を守り、今川方敗退後は岡崎に戻った徳川家康にとって、桶狭間合戦とはどういう合戦であったのか。

<鷲津砦址>

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それは、今川家部将としての敗戦であると同時に、岡崎領主としては自領を回復し、今川氏の支配から脱出する機会となった。思えば、松平氏の先祖は三河でも山間部の松平の地から、安祥に出て、さらに分家の大給松平氏を追って岡崎を領有し、数多くの分家や時に一向一揆などで離反する家臣たちもまとめて、松平清康の代には三河一国を統一し、天文4年(1535)には尾張に攻め入るまでにいたった。しかし、その陣中、当主である松平清康が家臣阿部弥七郎に討たれる「守山崩れ」という椿事がおき、家督は清康の子広忠が継いだが、以前の勢いはなく今川家の傘下となって小豆坂で織田方と戦い、幼少の竹千代、のちの家康は駿府に人質にとられることになる。

長い人質生活を経て、家康は義元の名前の下の一文字をもらって松平元信、のちに元康と名乗り、今川家の重臣関口氏から俗に築山殿という正室を迎え、今川義元のひとかどの部将として、成長した。この桶狭間合戦時には、家康はまだ松平元康と名乗っていた。

<大高城にたつ石碑>

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この家康が桶狭間合戦の前段で兵糧入れをしてそのまま守将となって留まった、大高城は、築城者、築城年代ともに不明、古文献から永正年間に花井備中守が居城したと伝えられる。花井氏は知多半島北部に勢力をもった、土地の豪族である。そして、天文・弘治年間(1532~58)には水野忠氏父子が居城したというが、この水野忠氏という人物がよく分からない。水野忠政のことかと思ったが、緒川城主水野忠政本人ではなく、その系統ではあるらしい。一説には、水野貞守の弟が大高城主になったというが、尾張一円に多い緒川水野一族の一部が当地に進出したものか。この水野忠氏父子も、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。

<花井氏が勧請したという城山八幡社~本丸の土塁上にたつ>

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大高城に水野忠氏らが拠っていた頃、その北東2.5Kmくらいの地点にあった鳴海城を守っていたのは、山口左馬助教継であった。山口氏は周防の大内氏の一族といい、尾張熱田の橋本盛正の館に移った後、山口氏を名乗ったという。山口氏の支流は尾張国で信長の家臣の佐久間正勝、織田信雄に仕えた後、徳川家康に仕え、一時大久保長安事件に連座するなどしたが、復権して牛久領を拝領し、廃藩置県までの250年間牛久に陣屋を構える大名として存続した。最後の牛久藩主、山口弘達は家譜を明治新政府に提出しており、その先祖から歴代藩主の事績が後世に伝えられることになった。それによれば、山口氏の始祖は、室町時代半ばに尾張に来た大内任世で、先祖の住んだ周防の地名から山口氏を名乗ったとある。つまり山口左馬助の山口とは、山口県の山口という訳である。なお、家譜には、山口左馬助が織田から今川へ寝返ったことなど、一言も書いていない。

「是これより先に持世の弟に持盛と云有り。安賀丸、孫太郎と云、周防権介に任じ正六位上に叙す。永享五年癸丑四月八日死す。歳三十七。其の子教幸、孫太郎と云。其の子任世、安賀丸、獅子丸と云う。又、多門院と号す。應仁元年丁亥(1467 年)周防、長門及び九州大乱の事有り。教幸、豊前馬嶽に死す。其の子政弘の為に皆殺さるゝ。任世独り防州を厺さり尾州に移る。愛智郡に到り天霖山笠覆寺に蟄居す。二子を生す。皆山口氏を称す。山口は、周防吉敷郡に在り。其の祖、住するの地名故に氏とす。是を以って山口の祖とす。任世の子盛幸、孫太郎又修理進と云。其の子盛重、巌丸又将監と云。尾州寺辺の城主たり。尾州にて死す。歳六十一。其の子盛政、巌丸、後平兵衛尉と云。織田弾正忠信秀に仕え、其の後、織田信長卿の老臣、佐久間右衛門尉信盛に依る。軍功最多し。天正八年庚申八月十五日、江 州永原にて死す。歳六十一。其の子重政、竹丸、長次郎と云。天正六年戊辰信盛の長子、甚九郎正勝に依る。所々に於いて軍功あり。同十年壬午織田信忠卿、重政を召して 曰く「 汝佐久間父子に従い困苦の志深く、我之を感す」とて御馬並に鞍具を賜う。同十一年癸未正勝、重政をして尾州大野の城に居らしむ。同十二年甲申六月、徳川家康卿、重政を召して曰く「汝、前年、佐久間父子に従い去らず。今、又姦賊に興おこらず、而も其の節、義を守る忠志浅からず」とて御馬を賜う。此時始めて家康卿に拝謁す。同十四年丙戍、重政二十三歳。養父重勝の家を続き星崎の城主と為る。(是より先、天文十九年癸戍四月、重勝父重俊、尾州松木に戦死す時、重勝二歳。重俊は盛政の弟なる故、盛政哀憐し養育する事子の如し。此時、重政浪人の為、是に於て重勝、盛政の恩を報じん為に重政を以って嗣と為し竟ついに城を譲り其の家を継也)重勝は織田信雄の家臣也。故に重政亦信雄に仕う。同十六年戊子(1588 年)、信雄、星崎を勢 州茂福に改め加禄一万三千石を重政に賜う」云々

山口左馬助教継は織田信秀の家臣で、鳴海城を守っていたが、織田信秀の死後(天文21年(1552)か)、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦に居り、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備していた。織田信長は、当然ながら山口氏の離反に対して討伐の兵を差し向け、山口教継は鳴海城から出撃し、鳴海の北の赤塚の地で織田信長勢と戦った。しかし、織田信長勢が兵力で劣勢(織田800対山口1500という)で、30騎ほど討たれて引き揚げることになった。

山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。今川の手に落ちた大高城には、今川家臣である三河の鵜殿長照が守将として入った。

大高城が今川の手に落ちたため、その対抗上、織田信長は永禄2年(1559)鷲津砦および丸根砦を築き、大高城と今川勢との連絡を絶とうとした。実際、行って見ればよく分かるが、大高城と鷲津、丸根の砦は目と鼻の先にあり、大高川の流れる低地をはさんで、南北の台地上で対峙している。

<丸根砦>

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大高城は、今川氏にとって、尾張攻略の拠点になる戦略上重要なポイントであった。そのため、今川方からみれば、折角落とした大高城が孤立し、糧道を断たれることは大きな痛手であった。永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦にあたっては、大高城の今川勢に対して鷲津砦には織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が入り、丸根砦は佐久間大学盛重が守っていた。それらの砦は、大高城と鳴海城、あるいは沓掛城の交通路を分断し、特に大高城の将兵の動きを牽制する絶好の位置をしめていた。そして、桶狭間合戦に際して、大高城の今川勢の兵站は、まさに断たれようとしていた。その救援に松平元康があたったのである。時は永禄3年(1560)5月18日の夕刻から夜にかけて、有名な大高城兵糧入れが、松平元康によって、織田軍の監視の目をくぐって行われた。

<丸根砦の下にある砦前交差点>

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松平元康は、5月18日荷駄を編成すると、三河衆を率いて大高城へ兵糧を入れた。その後、まず丸根砦を落とした。5月18日の合戦前日、砦には、織田方の守将佐久間盛重以下、500人の兵が配備されていた。しかし、19日未明に松平元康率いる今川勢2500名の攻撃を受けた佐久間ら織田家の将兵は勇敢に戦ったが、元康の猛攻の前に丸根砦は落ちた。さらに、元康は南下し、大高城へ入って鵜殿長照に代って守将となった。

これが有名な大高の食糧入れから大高城の守りにつくまでの、松平元康の一連の行動である。

<大高城の二の丸>

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<大高城の本丸>

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その大高城兵糧入れから、桶狭間合戦の前段である丸根砦の戦いについて、次回考察することにする。

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