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2006.12.17

知多武豊にある長尾城

前にも述べたように、愛知県知多郡武豊町は、昔長尾村と大足村の二ヶ村であったのが、明治の大合併で合併し、武豊町となった。それも長尾村の鎮守、武雄神社と大足村の鎮守、豊足神社の一字を合成して武豊となった。

単純に村の一字を合成していたら、長足町とか、大長町という名前になっていたのだろうが、それでは通りがわるいということだろうか。

その長尾村には長尾城という城があった。その場所はJR武豊駅を含む、武雄神社東南の台地である。その長尾城の城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。岩田氏が、いつから当地にいるかといえば、鎌倉時代であるという。その昔、現在の武豊町は枳豆志(きづし)庄という荘園の一部であった。その地頭であったのは、鎌倉の有力御家人であった名越氏であり、名越遠江守朝時という名が知られている。岩田氏は、この名越氏の代官として入部したといわれ、元寇に際して、岩田兵衛将監弘直なる人物が、一族郎党を率いて九州へ赴いたとされる。しかし、名越朝時は北条義時の次男であり、一時は鎌倉三代将軍源実朝の怒りを買って失脚、その後和田義盛の乱や承久の変で武功をあげ、許されて加賀、越後、大隈の守護に任ぜられた人物である。名越朝時の子光時の代に寛元4年(1246)の宮騒動で没落、光時の弟時章が跡を継いだ。そうして存続した名越氏は尾張の守護にも任じられたが、元弘の乱の頃は、名越宗教が守護であった。したがって、鎌倉期に枳豆志庄の地頭を名越氏がつとめていても、不思議ではないが、岩田氏が名越氏の代官だったかどうかは疑問が残る。岩田氏の鎌倉期の大先祖は、岩田遠江守朝弘というが、名前が名越遠江守朝時とよく似ている、鎌倉期における岩田氏の通字は「朝」の字であるが、通常主君から名前を貰う場合は下の字を貰うことが多い(上の字を貰う場合もあるが、同族とか上級家臣の場合である)ということからみても、架空の人物ではないかと考えられる。なお、武豊町誌では、子孫の方に配慮してか、そこまで明確には言っていない。

<岩田氏の居館があったという武雄神社>

Takeo1

『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となった。岩田氏の名字の地、石田(いわた)もその醍醐近くの「石田の杜」と歌枕にもされる土地であるという。となると、岩田氏は名越氏の代官ではなしに、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。こちらの方が、岩田氏が京都から下向してきた理由も納得感があるのだが、如何に。

また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。この城とは、通常城跡として信じられている武雄神社は、本来岩田氏の居館であって、別に城が現在のJR武豊駅の場所およびその西隣の小さな台地にあったということで、江戸時代に書かれた絵図には、確かに「本城」という名で、その城址が示されている。

<長尾城と岩田氏居館の位置>

Nagaojyo

<江戸時代の絵図~武豊町誌資料編から引用>

Nagaomura_1

(着色、文字入れは筆者)

その城以外に、名鉄富貴駅近くにある富貴城、あるいは常滑市の苅屋城も、岩田氏のものであったという。すなわち、室町時代においても、かつての枳豆志庄の範囲で、勢力を保っていたと見られる。岩田氏の系譜について、鎌倉時代の話は裏付け資料もなく、信じがたいのであるが、室町以降、いくつか城を構えていた岩田氏は、尾張守護の勢力が知多半島の中央から南には及ばないのをいいことに、自由に振舞っていた戦国の土着領主そのものであった。最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。杲貞は右京亮光秋の子であり、鎌倉時代中頃の遠江守朝弘の代から代々長尾の地にいたというが、前述の通り信じ難い。杲貞の子は、盛俊、さらにその子は、光忠。その光忠の代から先は、岩田氏の系譜には名がない。とはいえ、現在でも、岩田という名字の家は、常滑市や武豊町、半田市でも結構残っている。それらの家のうち、よそから移ってきた家は別として、元々先祖代々住んでいる人は岩田杲貞に連なるのかもしれない。

岩田氏の家臣では、名前が伝えられているのは、神谷氏であり、家老であったという。その墓が武豊町内に残っている。このように、ある程度、岩田氏に関する情報は、武豊町周辺に残っている。成岩城の榎本了圓について、出自が分からなければ、落城後どうなったのかも不明というのと好対照であろう。

長尾城の遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様である。国鉄武豊駅が出来たため、その駅員用の官舎が建設された際に、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があった様子がわかる。

<長尾城~北側>

Kitagawa

<長尾城~北側堀跡>

Kitagawahori

周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」は、一説には城主や有力家臣の屋敷があったために、敬うべきひとが住むということで「上ゲ」としたという。名鉄の上ゲ駅がある「下門」も城址の北側に位置し、「キタモン」が訛って「シタモン」になったということで、関連地名らしい。

さらに、長尾城の本城があった、「金下」は神奈備の下という意味で、「カナゲ」なのだそうである。この城は、元は海がすぐ下に迫るような微高地にあり、また南北に長いということで成岩城に似ている。郭構造が分からないが、想像では細長い尾根状の台地をいくつかの堀で分断したようなつくりであった可能性がある。

<長尾城跡をJR武豊駅から見る>

Nagaojyominami

天文年間に、はや岩田氏は歴史の表舞台から消えた。その後は、岩田氏の拠った長尾城は廃城になったと思われ、富貴城は戸田氏もしくは緒川水野氏の手に渡った。苅屋城は古く室町期(大永年間頃か)は鵜飼福元、あるいは下って常滑水野氏の水軍宮崎久左衛門が城主として見え、結局は常滑水野氏の配下にされたと思われる。こうして、かつての秩序は崩れ、実力ある豪族たちの跳梁跋扈する時代となった。そして、知多半島は本格的な戦国の時代に突入する。

<岩田氏が拠ったといわれる、苅屋城跡遠望>

Kariya

参考文献:

『武豊町誌』  武豊町   (1984)

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コメント

 20年ほど昔に学生として上ゲ駅で日常乗り降りしたことのある者です。

ひょんなことから「なぜ上ゲという地名なのか?」ということで貴サイトへ辿り着きましたが、大変参考になりました!

投稿: | 2015.01.09 22:53

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