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2006.12.03

徳川家康と知多半島(その20:徳川家康と桶狭間合戦<前編>)

桶狭間合戦の実相と題して、前回、前々回自説を述べさせていただいた。

永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦では、結局今川義元が討死、織田方が勝利したわけであるが、それは織田信長が尾張一国から東海地方一円の覇権を築き、さらに天下統一へ動く大きな転換点となった。では、その桶狭間合戦前哨戦ともいうべき大高城、鷲津、丸根砦の攻防のなかで、大高城兵糧入れに成功して、そのまま大高城を守り、今川方敗退後は岡崎に戻った徳川家康にとって、桶狭間合戦とはどういう合戦であったのか。

<鷲津砦址>

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それは、今川家部将としての敗戦であると同時に、岡崎領主としては自領を回復し、今川氏の支配から脱出する機会となった。思えば、松平氏の先祖は三河でも山間部の松平の地から、安祥に出て、さらに分家の大給松平氏を追って岡崎を領有し、数多くの分家や時に一向一揆などで離反する家臣たちもまとめて、松平清康の代には三河一国を統一し、天文4年(1535)には尾張に攻め入るまでにいたった。しかし、その陣中、当主である松平清康が家臣阿部弥七郎に討たれる「守山崩れ」という椿事がおき、家督は清康の子広忠が継いだが、以前の勢いはなく今川家の傘下となって小豆坂で織田方と戦い、幼少の竹千代、のちの家康は駿府に人質にとられることになる。

長い人質生活を経て、家康は義元の名前の下の一文字をもらって松平元信、のちに元康と名乗り、今川家の重臣関口氏から俗に築山殿という正室を迎え、今川義元のひとかどの部将として、成長した。この桶狭間合戦時には、家康はまだ松平元康と名乗っていた。

<大高城にたつ石碑>

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この家康が桶狭間合戦の前段で兵糧入れをしてそのまま守将となって留まった、大高城は、築城者、築城年代ともに不明、古文献から永正年間に花井備中守が居城したと伝えられる。花井氏は知多半島北部に勢力をもった、土地の豪族である。そして、天文・弘治年間(1532~58)には水野忠氏父子が居城したというが、この水野忠氏という人物がよく分からない。水野忠政のことかと思ったが、緒川城主水野忠政本人ではなく、その系統ではあるらしい。一説には、水野貞守の弟が大高城主になったというが、尾張一円に多い緒川水野一族の一部が当地に進出したものか。この水野忠氏父子も、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。

<花井氏が勧請したという城山八幡社~本丸の土塁上にたつ>

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大高城に水野忠氏らが拠っていた頃、その北東2.5Kmくらいの地点にあった鳴海城を守っていたのは、山口左馬助教継であった。山口氏は周防の大内氏の一族といい、尾張熱田の橋本盛正の館に移った後、山口氏を名乗ったという。山口氏の支流は尾張国で信長の家臣の佐久間正勝、織田信雄に仕えた後、徳川家康に仕え、一時大久保長安事件に連座するなどしたが、復権して牛久領を拝領し、廃藩置県までの250年間牛久に陣屋を構える大名として存続した。最後の牛久藩主、山口弘達は家譜を明治新政府に提出しており、その先祖から歴代藩主の事績が後世に伝えられることになった。それによれば、山口氏の始祖は、室町時代半ばに尾張に来た大内任世で、先祖の住んだ周防の地名から山口氏を名乗ったとある。つまり山口左馬助の山口とは、山口県の山口という訳である。なお、家譜には、山口左馬助が織田から今川へ寝返ったことなど、一言も書いていない。

「是これより先に持世の弟に持盛と云有り。安賀丸、孫太郎と云、周防権介に任じ正六位上に叙す。永享五年癸丑四月八日死す。歳三十七。其の子教幸、孫太郎と云。其の子任世、安賀丸、獅子丸と云う。又、多門院と号す。應仁元年丁亥(1467 年)周防、長門及び九州大乱の事有り。教幸、豊前馬嶽に死す。其の子政弘の為に皆殺さるゝ。任世独り防州を厺さり尾州に移る。愛智郡に到り天霖山笠覆寺に蟄居す。二子を生す。皆山口氏を称す。山口は、周防吉敷郡に在り。其の祖、住するの地名故に氏とす。是を以って山口の祖とす。任世の子盛幸、孫太郎又修理進と云。其の子盛重、巌丸又将監と云。尾州寺辺の城主たり。尾州にて死す。歳六十一。其の子盛政、巌丸、後平兵衛尉と云。織田弾正忠信秀に仕え、其の後、織田信長卿の老臣、佐久間右衛門尉信盛に依る。軍功最多し。天正八年庚申八月十五日、江 州永原にて死す。歳六十一。其の子重政、竹丸、長次郎と云。天正六年戊辰信盛の長子、甚九郎正勝に依る。所々に於いて軍功あり。同十年壬午織田信忠卿、重政を召して 曰く「 汝佐久間父子に従い困苦の志深く、我之を感す」とて御馬並に鞍具を賜う。同十一年癸未正勝、重政をして尾州大野の城に居らしむ。同十二年甲申六月、徳川家康卿、重政を召して曰く「汝、前年、佐久間父子に従い去らず。今、又姦賊に興おこらず、而も其の節、義を守る忠志浅からず」とて御馬を賜う。此時始めて家康卿に拝謁す。同十四年丙戍、重政二十三歳。養父重勝の家を続き星崎の城主と為る。(是より先、天文十九年癸戍四月、重勝父重俊、尾州松木に戦死す時、重勝二歳。重俊は盛政の弟なる故、盛政哀憐し養育する事子の如し。此時、重政浪人の為、是に於て重勝、盛政の恩を報じん為に重政を以って嗣と為し竟ついに城を譲り其の家を継也)重勝は織田信雄の家臣也。故に重政亦信雄に仕う。同十六年戊子(1588 年)、信雄、星崎を勢 州茂福に改め加禄一万三千石を重政に賜う」云々

山口左馬助教継は織田信秀の家臣で、鳴海城を守っていたが、織田信秀の死後(天文21年(1552)か)、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦に居り、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備していた。織田信長は、当然ながら山口氏の離反に対して討伐の兵を差し向け、山口教継は鳴海城から出撃し、鳴海の北の赤塚の地で織田信長勢と戦った。しかし、織田信長勢が兵力で劣勢(織田800対山口1500という)で、30騎ほど討たれて引き揚げることになった。

山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。今川の手に落ちた大高城には、今川家臣である三河の鵜殿長照が守将として入った。

大高城が今川の手に落ちたため、その対抗上、織田信長は永禄2年(1559)鷲津砦および丸根砦を築き、大高城と今川勢との連絡を絶とうとした。実際、行って見ればよく分かるが、大高城と鷲津、丸根の砦は目と鼻の先にあり、大高川の流れる低地をはさんで、南北の台地上で対峙している。

<丸根砦>

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大高城は、今川氏にとって、尾張攻略の拠点になる戦略上重要なポイントであった。そのため、今川方からみれば、折角落とした大高城が孤立し、糧道を断たれることは大きな痛手であった。永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦にあたっては、大高城の今川勢に対して鷲津砦には織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が入り、丸根砦は佐久間大学盛重が守っていた。それらの砦は、大高城と鳴海城、あるいは沓掛城の交通路を分断し、特に大高城の将兵の動きを牽制する絶好の位置をしめていた。そして、桶狭間合戦に際して、大高城の今川勢の兵站は、まさに断たれようとしていた。その救援に松平元康があたったのである。時は永禄3年(1560)5月18日の夕刻から夜にかけて、有名な大高城兵糧入れが、松平元康によって、織田軍の監視の目をくぐって行われた。

<丸根砦の下にある砦前交差点>

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松平元康は、5月18日荷駄を編成すると、三河衆を率いて大高城へ兵糧を入れた。その後、まず丸根砦を落とした。5月18日の合戦前日、砦には、織田方の守将佐久間盛重以下、500人の兵が配備されていた。しかし、19日未明に松平元康率いる今川勢2500名の攻撃を受けた佐久間ら織田家の将兵は勇敢に戦ったが、元康の猛攻の前に丸根砦は落ちた。さらに、元康は南下し、大高城へ入って鵜殿長照に代って守将となった。

これが有名な大高の食糧入れから大高城の守りにつくまでの、松平元康の一連の行動である。

<大高城の二の丸>

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<大高城の本丸>

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その大高城兵糧入れから、桶狭間合戦の前段である丸根砦の戦いについて、次回考察することにする。

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