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2007.01.23

船橋市街地の寺社を訪ねて(海神から船橋本町へ)

船橋は、意外に寺の多い町であり、船橋大神宮という大きな神社もある。船橋といっても、西は市川市に接する下総中山駅近く、東は習志野市に接する津田沼駅周辺まで、市域は広いのである。しかし、船橋の中心といえば、九日市といわれた市街地西部にあたる本町一帯、五日市といわれた船橋大神宮などのある市街地東部に加え、九日市のさらに西側の海神あたりを含めた地域を指す。戦国時代には現在の本町通りで「六斎市」が開かれ、大変賑わったという。このように市が立ったのが、場所によって九日だったり、五日だったりしたため、九日市、五日市という地名となったのだが、それだけ中世の船橋は海運をバックに商業が盛んであったのである。やがて、江戸時代には、海老川河口から海岸線にかけて漁業を営む人々が増え、猟師町(漁師町)が形成された。そして、当時の村は、西から海神村、九日市村、五日市村であり、その三ヶ村をまとめて船橋(村あるいは宿)と呼んでいた。そこは、今のJR船橋駅の南側一帯であり、京成電車の海神駅から船橋競馬場駅の手前くらいまでに相当し、成田街道(佐倉道)、御成街道、行徳街道など陸上交通の要衝である宿場としても栄えた。

<船橋大神宮>

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小生、休みを利用して、京成の海神駅で降りて、東へ寺社めぐりを行ってみた。海神という地名は、船橋の人間には馴染みがあるが、「かいじん」と読む。全国には同じ海神と書く地名はいくつかあるそうだが、いずれも「わたつみ」と読むようで、海神と書いて「かいじん」と読むのは、船橋だけのようである。しかし、「かいじん」と聞くと海神ではなく、怪人を思い出す人が多いに違いない。小生も子供の頃、「海神小学校」が「怪人小学校」に聞こえてならなかった。「怪人小学校」など、怪物君が通っているようで、あったら大変だが。なお小生、高校は船橋のメジャーな高校へ行ったのだが、小中学校はその地域以外では知るひとぞ知る学校であったため、船橋小学校・船橋中学校、海神小学校・海神中学校とかのビッグネームには一種あこがれるものがあった。

その海神駅は、意外に小さな駅である。商店街もあるにはあるが、南に下るとすぐに商店街を抜け、千葉街道(ルート14号)に出てしまう。海神というからには、海の神をまつったものが、存在しなければならない。そして、それは意外に早くみつかった。千葉街道の南側路地を西へ入って暫く行くと、「龍神社」の大きな標柱がある。そこが、海神の名前の起こりになったという、龍神を祀っている龍神社である。龍神社は、別名阿須波(あすは)の宮と呼ばれ、海上安全を守る神社とされた。但し、この龍神社は、西海神村の鎮守であった。西海神村と単に海神村と呼ばれる船橋海神村は、隣接しているが別の村である。実は、海神を最初に祀ったのは、船橋海神村に属した入日神社であるという。

<海神の名前の起こりになったという、龍神社>

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その件は、また述べるとして、この龍神社には、面白い伝説が残っている。それは、弘法大師が当地を通りかかったとき、老婆が芋を洗っていたので、それを所望したところ、老婆はこれは石芋なので食べられないと答え、弘法大師が去った後で、老婆が芋を煮て食べようとしたところ、いくら煮ても芋が石のように固くなっていて食べられなかったという「石芋」伝説である。老婆は腹を立て、その芋を池(龍神社の池だという)に投げ捨ててしまったが、やがてその芋が芽を出し、何株か成長したので「石芋」と呼んだという。昭和28、9年頃まではその芋が残っていたというが、ホンマかいな。

江戸時代後期の文政13年(1830)に書かれた記録では、「海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり」(成田道の記)とある。芋も石焼芋ならうまいが、石芋では食べられぬ。それが水に入ってなぜ芽を出すのか、伝説だから不思議な話も許容されるのだが、江戸時代に実際に見たという人がいるのだから、驚きである。

また、弘法大師伝説は、もう一つあって「片葉の葦」。こちらは、付近の湿地に生えていた葦を弘法大師が杖で払ったら、片葉の葦になったという話で、房総ではありがちな伝説である。こちらも、龍神社の池のそばに、「弘化四年正月 別当大覚院二十五世実厳」と銘のある、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」がある。このように弘法大師の説話が伝わっているのは、後世高野聖などが伝えたためであろうが、それはそこが街道筋で陸上交通の盛んな場所であったことを示している。

<龍神社の池>

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<龍神社のいわれを書いた石碑>

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ところで、千葉街道に戻り、東へ進むと、交番のところで道が二つに分岐し、左の道を進めば左側に大覚院という寺がある。これは龍神社の別当寺であったが、一名赤門寺ともいう。その名の通り、赤門があるからである。これは、海神三叉路際にあり、正式には龍王山海蔵寺大覚院という、真言宗豊山派の寺である。龍王山の山号の通り、龍神を祀る龍神社の別当であり、海上安全の祈願を行う寺であった。船橋のほかの寺と同じように、江戸時代以前の創建で、天正17年(1589) 8月、権大僧都法印秀巌和尚の創建と伝えられるが、これより古いともいわれている。

<赤門寺といわれる大覚院>

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<大覚院の赤門>

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さて、大覚院の先、道路右手を細い路地に入ったところに、入日神社がある。現在、海神三丁目にある入日神社の旧境内は、最初に海神を祀った跡だと言われている。そして、この入日神社は、船橋大神宮の元宮があった場所と言われている。この元宮は、夏見に移り、さらに現在船橋大神宮がある宮本の台地上に遷座したという。船橋大神宮は、別名を意富比(おおい)神社という。その祭神とは、天照大神であるが、もともと意富比神(「大日」神)という太陽神を祀っており、夏見御厨が出来、伊勢から勧請した元宮である夏見神明社を合祀するに及んで、天照大神が中心になった。そして、伊勢神宮が朝日の宮と呼ばれるのに対して、船橋大神宮は入日の宮と呼ばれるのである。そこからも、入日神社と船橋大神宮の関係が想定される。しかし、入日神社は意外なほど小さく、船橋大神宮の規模とはかけ離れている。本当に、ここが船橋大神宮の元宮なのだろうか、と思ってしまう。

ところで、この入日神社は海神の地名の由来となったともいう。西海神の龍神社の龍神が海神となったのか、この入日神社が海神の地名としての起源に関わっているのか、今となっては断定するすべはない。

船橋大神宮縁起によると、海神という地名は、日本武尊の東国遠征に関わっている。そもそも、船橋という地名が、日本武尊が当地に来た時に、海老川河口が現在よりもはるかに広く、入江になっていたのを船を連ねて橋として渡ったという故事に基づいているという。そして、日本武尊は、船橋の地に上陸して賊と戦った。しかし、味方する者がなく困っていたところ、たまたま海上に光るものを見て行ってみると、無人の船の中に三種の神器の八咫鏡と同じ鏡があった。八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際に用いられたとされる鏡である。それと同種の神鏡が、偶然見つかったとあって、勇気百倍。日本武尊は、その神鏡の前で、賊徒調伏の矢を放ち、賊を平らげて、その神鏡を当地に大切に祀った。海上から得た神(鏡)ということで海神といい、この地を海神と呼ぶようになったのだという。なお、最近まで入日神社のあった旧境内が、最初神鏡を安置した場所で、その後、船橋大神宮に移したとも伝えられている。

<入日神社>

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実は、この入日神社と前述した龍神社は、ともに本来の出入口は南側の海岸を向いていて、今でも入日神社の鳥居は南側に向いていて、かつては行徳街道から出入りするようになっていた。龍神社も、昭和30年代初めころまでは、南側に参道と朽ちかけた鳥居があり、海岸から行徳街道を越えて参るようになっていたという。つまり、どちらも海に対して開かれた神社であり、海神の名がどちらに由来していようが、大いに海と関わりのある信仰の場所であったのである。

さて大覚院の場所に戻って、東へ進めばJRの跨線橋がある。それを越えて行くと、右手から行徳街道が合流する。そのまま東進すれば、右手に船橋海神の地蔵院を見るが、これは勝軍地蔵を本尊としている。

<地蔵院>

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さらに行けば、西向地蔵堂がある。ここは、古く御仕置場があったとされるが、船橋市最古の石仏である地蔵像念仏塔(万治元年・1658年)がある。また聖観音像各夜念仏塔(元禄9年・1696年)、阿弥陀如来立像供養塔(延宝8年・1680年)も堂内にあるが、いずれも江戸時代前期の石仏である。この西向地蔵堂は、船橋宿の西端とされていた場所にあるが、ここで道がクランクし、西側から侵入してくる敵が勢力をそがれるように作られた。もっとも、現在は車の通行がしやすいように、緩やかなカーブに道が付け直されている。同じような街中での道のクランクは、佐倉や行徳にも見られる。また、地蔵堂の建物が、宿内部を目隠しする役割もしていたという。やはり、この地蔵堂の向こう側が、今も船橋の中心地のように思える。

なお、さらに東へ進み、とりあえず船橋大神宮を目指していくことにするが、長くなったのでこの辺で。

<西向地蔵堂脇の道のクランクの名残り>

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<西向地蔵堂の万治元年の地蔵像(右)と聖観音像(右)>

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2007.01.07

徳川家康と知多半島(その21:徳川家康と桶狭間合戦<中編>)

永禄3年(1560)5月19日、今川方の先鋒であった、松平元康、後の徳川家康は、織田方の佐久間大学盛重が守る丸根砦を攻めた。丸根砦とその西にある鷲津砦は、今川の手に落ちた鳴海城と大高城の間の連絡を分断するために、織田信長が築いたものである。丸根砦を落すことは、今川方にとっては孤立した大高城を救援するだけでなく、今川軍の尾張進軍の露払いをするという意味もあった。

<大高城>

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一方、丸根砦を守っていた、佐久間盛重は、織田信秀、信長二代につかえた家臣であるが、信秀死後の相続をめぐる争いでも、一貫して信長支持であった。同じく信秀、信長二代に仕え、家中の重鎮となったものの、本願寺攻めを長期化させ、功がなかったとして、高野山に追放された佐久間信盛は同族である。

通説では、松平元康は5月18日の夜、大高城へ兵糧入れした後、19日未明に丸根砦を攻めて砦を落とし、また大高城に戻ったとされる。

織田信長の家臣太田牛一が書き、信憑性の高いとされる『信長公記』には、桶狭間合戦について以下のように書かれている。

「今川義元討死の事 天文廿一年壬子五月十七日
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学 織田玄蕃かたよりはや鷲津山丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆
 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎
是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

『信長公記』でも、大高城へ18日夜兵糧入れした松平元康は、翌19日早朝に丸根砦を攻めて、午前8時頃にはこれを落とし、その後大高城に戻った様子が読み取れる。砦側からは今川軍が鷲津、丸根砦を19日に攻めることを察知した、砦の将たちから、18日夕方には信長へ「十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出(砦)を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯」と注進、明け方には砦が囲まれたと注進している。「塩の満干を勘がへ」とは、援軍の出しにくい満潮時(明け方)に攻めるという今川方(松平元康)の戦法を予測しているのである。

丸根砦址は、現在の大高緑地の西側の台地上にある。丸根という名前の通り、台地の最も高いちょうど城址主郭部があった部分は、丸い鉢を伏せたような形に見える。付近は、主郭部のごく近い場所まで住宅地になっていて、主郭部のみが往時の地形をほぼ留めているようである。しかし、付近の道は狭く、また主郭のある高台へは急な坂道となっていて、自動車で行くのは止めた方がよい場所になっている。幸いにして丸根砦址は、JR大高駅から徒歩で行くことができるほどの場所にある。JR線路の北側へ出て、鷲津砦の下、長寿院を左に見て、線路沿いの道を東に進むと、西丸根の交差点があり、その交差点を左折し、北へ向かえば、左手に大きな見越しの松のあるお宅があり、その道路右側の側道を行けば、急な坂道となり、坂を上りきると、丸根砦址の看板が出ている地点に出る。坂道はちょっと自動車で上るのには勇気がいるほどの傾斜であり、小生夜間などとても通ることは出来ないであろう。住宅地とは行っても、さすがに砦付近は空地が目立ち、生活上の不便さを避けたが故と思われる。

<急な坂道をいくと丸根砦がある>

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丸根砦は、主郭部が東西36m、南北28mで、周囲に幅3.6mの堀が取り巻くという単純な構造で、主郭以外には主郭を同心円的に取り巻く、帯郭があるきりである。ここに佐久間大学盛重以下、500名の将兵が立て籠もったというが、主郭だけでは500名もの人を収容できたとは到底思えず、台地中段の要所に兵を配置したのであろう。

<丸根砦の主郭~看板の上の森が主郭である>

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<丸根砦の主郭内>

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この丸根砦を松平元康が攻めたのは、永禄3年(1560)5月19日の未明であった。元康の率いた今川軍は約2,500名、この小山を取り囲むのには十分な人数である。だが、佐久間大学盛重ら織田軍の抵抗は頑強であった。元康らの今川軍は、砦の大手から正攻法で攻めたであろう。これに対し、佐久間大学盛重らは、矢を台地の上から浴びせかけ、あるいはゲリラ的に戦ったと思われる。しかし、佐久間盛重ら将兵の抵抗は長くは続かず、午前10時頃には丸根砦は落ちた。同日未明、今川軍の朝比奈泰朝が率いる軍勢も、織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が立て籠もる鷲津砦に攻め懸かり、これを落とした。鷲津砦の将兵は殆ど戦死したという。ちなみに、守将の織田秀敏は信長の大叔父にあたる織田一族であり、飯尾定宗も織田家の一族から飯尾氏に養子に入った人物であった。丸根砦、鷲津砦ともに織田の一族、重臣が配置されていたのである。かくして、桶狭間合戦の前哨戦ともいうべき、鷲津、丸根両砦をめぐる戦いは、今川方の勝利となった。

<丸根砦の堀跡~階段の下の道>

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<鷲津砦>

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しかし、疑問を感ずるのは、松平元康が兵糧を大高城を運び込んだ時、丸根、鷲津砦の物見の者はそれに気づいて、砦側は当然ながら妨害した筈であり、荷駄隊という余り自由の利かない行軍を行って危険をおかして兵糧入れを行い、その数時間後に丸根砦を攻落すというのは順番が逆ではないかということである。丸根砦を落とした後、再び大高城に入っているのであるから、最初から二千名以上の兵員を使って丸根砦をひとまず潰し、その後悠々と大高城に荷駄と共に入ればよい筈である。

沓掛を起点として大高城へは直線距離にして約8.5Km、人間の歩く速さで荷駄隊が行ったとすれば2時間40分ほどの時間がかかることになる。沓掛を夜8時に出発したとして、大高に着くのは夜10時40分ということになる。その翌日早朝4時に丸根砦を攻めたとして、準備に2時間かかるとすれば、大高城で休めるのは3時間余りである。いくら「塩の満干を勘がへ」といっても、織田軍の援軍が満ち潮で阻まれて来難い時間帯でなければ攻められないということでもなかろう。むしろ、正面から丸根、鷲津に夜襲をかけ、いったん織田軍の勢力を掃討してから、荷駄を大高城に運び込むほうが自然のように思われるのである。そうはいっても、戦国時代の人がそう考えるかといえば別問題で、やはり『信長公記』の記述通りかもしれない。

また、松平元康が丸根砦を19日未明に攻めて、砦に煙が上り、落ちたのが織田信長によって確認されたのが朝8時頃であったというのも、少し時間がかかっているように思われる。しかし、低地から高台を攻めるのは、逆の場合よりも何倍も大変なことである。むしろ佐久間大学の織田方が、寡勢よく守ったというべきであろう。

<丸根砦に建つ石碑>

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2007.01.06

三重海軍航空隊跡を訪ねて

昨年末であるが、三重に行ったとき、津の駅前からバスで香良洲まで行き、三重海軍航空隊跡を訪ねた。その場所には、もう二十年くらい前に、一度行ったことがある。

<津市香良洲にある三重海軍航空隊跡>

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実は、小生の父がこの奈良分遣隊の出身である。また、どういうわけか、うちの親戚にはこの奈良分遣隊(のちの奈良航空隊)の出身者も含め海軍出身者が多い。海軍は基本的に志願兵によって構成されており、親父の兵籍番号も、「横志飛・・・」である。横は横須賀鎮守府、志は志願兵、飛は飛行兵といった具合である。奈良分遣隊は、終戦直前に三重空から独立し、奈良海軍航空隊になった。終戦間際に、海軍は高野山にまで、航空隊を作ったのだから、海のない奈良県天理市の奈良空、高野山の高野山空と、船山に登るならぬ、海軍山に登るである。

この三重海軍航空隊は、三重県にあったから三重空なのだが、鈴鹿海軍航空隊、宝塚海軍航空隊や、横須賀海軍航空隊のように、都市や地域の名前を冠しなかったのは、香良洲にあるため、そのままでは香良洲海軍航空隊で、カラスがカーカー鳴いて飛んでいるようなイメージをもたれては困るという配慮だろうか。いずれにせよ、西の三重、東の霞ヶ浦と、予科練のメッカであった三重空では、多くの航空兵が養成されたが、ある者は戦闘機や爆撃機搭乗時に撃墜され、ある者は回天、震洋搭乗などを含めた特攻によって戦死した。太平洋戦争末期につくられた奈良空ではさすがに飛行機搭乗での戦死者は三重空本隊と比べると少なかったが、やはり特攻兵器による戦死が多く、あまり知られていないが、かなりの人が病死している。奈良分遣隊を含め、三重空の隊門をくぐった航空兵は六万五千人ほどであるが、戦死者数は約五千人。つまり十二人に一人くらいの割で戦死したことになるが、年次が古い程、その率は高くなる。

三重海軍航空隊の跡地には、以前訪ねたときには、若桜福祉会館といっていたが、今は香良洲町、さらに合併後津市の運営となった、津市香良洲歴史資料館があって、戦死した人の遺品などを展示している。

<今も残る隊門>

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<入口にある錨>

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津市香良洲歴史資料館では1階がロビー、2階が地域の郷土資料(漁具、農具など)、3階が三重空関連資料となっているが、3階は撮影禁止とのことであった。1階には、練習機である白菊の模型が置いてあり、戦後になって発行された三重空関連の印刷物なども展示されていた。

<白菊の模型>

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<白菊を後から撮ったところ>

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本当は3階の展示物を撮りたかったのだが、残念。一番印象に残ったのは、三重空予備学生で、終戦直後に三重空近くの浜辺で割腹自殺した森崎湊海軍少尉候補生の遺影である。予備学生ということで、もっと優しい面影をイメージしていたが、なくなった森崎湊少尉候補生の顔はエラの張り、目が鋭い、まさに海軍軍人の顔であった。日本の敗北を彼は受け入れることが出来なかった。なかには終戦のドサクサで軍の物資を隠匿して、私的に使ったり、持ち逃げする軍人、それも高級軍人といわれる人々が多かったのに、予備学生のような人々が一番純粋だったのであろう。父の話でも、終戦直後、焼野原となった東京では、大学教授だった人が橋の下で乞食のような状態で寝ていたり、米軍のジープを見ると物をねだりに人が殺到する、あるいは都会の真ん中で救世軍の炊き出しの鍋で飢えをしのぐといった時勢になるのだが、そういう光景を見ずに森崎湊少尉候補生は逝ってしまった。

<三重航空隊の碑~他にも年次ごとなど多くの石碑があったが、これが一番隊碑らしい>

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<鈴鹿航空隊の点鐘台>

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予科練では甲種、乙種、丙種と区分があり、本来は乙種しかなかったのが、促成栽培のような甲種と水兵や機関兵、それも下士官に既になっているような者の転科のための丙種が新設され、三重空はもとは乙種中心であったが、昭和18年(1943)には大量に甲種飛行練習生(甲飛十三期)が入隊、彼らは奈良分遣隊に配属される。この奈良分遣隊は、大量に採用した特攻要員を寝泊りさせるために、天理教の教会を利用したものであり、そこでは兵舎は天理教の畳を敷いた教会であった。畳の部屋で、ハンモックをつって寝ていたのである。三重空奈良分遣隊、のちの奈良空は、飛行機が一機もない航空隊であった。わずかにあるのは、シミュレータのみで、彼らは最終的には回天、震洋などの特攻要員とされるものも少なくなかった。

<戦死者の多かった甲種飛行練習生十一期の石碑>

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終戦の際、奈良空でも、いわゆる玉音放送を隊員を召集して聞かせた。しかし、軍内部の反乱軍が発する妨害電波のため、よく聞こえなかったという。而して、下士官になっていた小生の父は復員、東京に出て軍歴を隠して就職するに至る。

<海軍のマークの入った消火栓>

Shoukasen

いまだに、この津市香良洲歴史資料館では、軍艦旗を掲げている。しかし、敗戦と同時に、どこの航空隊でも軍艦旗を降ろして、焼いた筈である。森崎少尉候補生のような人を除いて、敗戦の日からも多くの海軍軍人は生き残り、その知識や技術を生かして、戦後復興に貢献した人も少なくない。しかし、軍艦旗を焼いた時に、心のなかの軍国主義の考え方も焼いただろうか。そのままもち続けた人も、少なからずいたのではないか。その辺りに、戦後の矛盾があり、諸外国の注意喚起や批判にも関わらず、喜んで靖国神社に参拝する首相や大臣連中が大勢いるという病理現象に繋がっている。

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