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2007.01.23

船橋市街地の寺社を訪ねて(海神から船橋本町へ)

船橋は、意外に寺の多い町であり、船橋大神宮という大きな神社もある。船橋といっても、西は市川市に接する下総中山駅近く、東は習志野市に接する津田沼駅周辺まで、市域は広いのである。しかし、船橋の中心といえば、九日市といわれた市街地西部にあたる本町一帯、五日市といわれた船橋大神宮などのある市街地東部に加え、九日市のさらに西側の海神あたりを含めた地域を指す。戦国時代には現在の本町通りで「六斎市」が開かれ、大変賑わったという。このように市が立ったのが、場所によって九日だったり、五日だったりしたため、九日市、五日市という地名となったのだが、それだけ中世の船橋は海運をバックに商業が盛んであったのである。やがて、江戸時代には、海老川河口から海岸線にかけて漁業を営む人々が増え、猟師町(漁師町)が形成された。そして、当時の村は、西から海神村、九日市村、五日市村であり、その三ヶ村をまとめて船橋(村あるいは宿)と呼んでいた。そこは、今のJR船橋駅の南側一帯であり、京成電車の海神駅から船橋競馬場駅の手前くらいまでに相当し、成田街道(佐倉道)、御成街道、行徳街道など陸上交通の要衝である宿場としても栄えた。

<船橋大神宮>

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小生、休みを利用して、京成の海神駅で降りて、東へ寺社めぐりを行ってみた。海神という地名は、船橋の人間には馴染みがあるが、「かいじん」と読む。全国には同じ海神と書く地名はいくつかあるそうだが、いずれも「わたつみ」と読むようで、海神と書いて「かいじん」と読むのは、船橋だけのようである。しかし、「かいじん」と聞くと海神ではなく、怪人を思い出す人が多いに違いない。小生も子供の頃、「海神小学校」が「怪人小学校」に聞こえてならなかった。「怪人小学校」など、怪物君が通っているようで、あったら大変だが。なお小生、高校は船橋のメジャーな高校へ行ったのだが、小中学校はその地域以外では知るひとぞ知る学校であったため、船橋小学校・船橋中学校、海神小学校・海神中学校とかのビッグネームには一種あこがれるものがあった。

その海神駅は、意外に小さな駅である。商店街もあるにはあるが、南に下るとすぐに商店街を抜け、千葉街道(ルート14号)に出てしまう。海神というからには、海の神をまつったものが、存在しなければならない。そして、それは意外に早くみつかった。千葉街道の南側路地を西へ入って暫く行くと、「龍神社」の大きな標柱がある。そこが、海神の名前の起こりになったという、龍神を祀っている龍神社である。龍神社は、別名阿須波(あすは)の宮と呼ばれ、海上安全を守る神社とされた。但し、この龍神社は、西海神村の鎮守であった。西海神村と単に海神村と呼ばれる船橋海神村は、隣接しているが別の村である。実は、海神を最初に祀ったのは、船橋海神村に属した入日神社であるという。

<海神の名前の起こりになったという、龍神社>

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その件は、また述べるとして、この龍神社には、面白い伝説が残っている。それは、弘法大師が当地を通りかかったとき、老婆が芋を洗っていたので、それを所望したところ、老婆はこれは石芋なので食べられないと答え、弘法大師が去った後で、老婆が芋を煮て食べようとしたところ、いくら煮ても芋が石のように固くなっていて食べられなかったという「石芋」伝説である。老婆は腹を立て、その芋を池(龍神社の池だという)に投げ捨ててしまったが、やがてその芋が芽を出し、何株か成長したので「石芋」と呼んだという。昭和28、9年頃まではその芋が残っていたというが、ホンマかいな。

江戸時代後期の文政13年(1830)に書かれた記録では、「海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり」(成田道の記)とある。芋も石焼芋ならうまいが、石芋では食べられぬ。それが水に入ってなぜ芽を出すのか、伝説だから不思議な話も許容されるのだが、江戸時代に実際に見たという人がいるのだから、驚きである。

また、弘法大師伝説は、もう一つあって「片葉の葦」。こちらは、付近の湿地に生えていた葦を弘法大師が杖で払ったら、片葉の葦になったという話で、房総ではありがちな伝説である。こちらも、龍神社の池のそばに、「弘化四年正月 別当大覚院二十五世実厳」と銘のある、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」がある。このように弘法大師の説話が伝わっているのは、後世高野聖などが伝えたためであろうが、それはそこが街道筋で陸上交通の盛んな場所であったことを示している。

<龍神社の池>

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<龍神社のいわれを書いた石碑>

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ところで、千葉街道に戻り、東へ進むと、交番のところで道が二つに分岐し、左の道を進めば左側に大覚院という寺がある。これは龍神社の別当寺であったが、一名赤門寺ともいう。その名の通り、赤門があるからである。これは、海神三叉路際にあり、正式には龍王山海蔵寺大覚院という、真言宗豊山派の寺である。龍王山の山号の通り、龍神を祀る龍神社の別当であり、海上安全の祈願を行う寺であった。船橋のほかの寺と同じように、江戸時代以前の創建で、天正17年(1589) 8月、権大僧都法印秀巌和尚の創建と伝えられるが、これより古いともいわれている。

<赤門寺といわれる大覚院>

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<大覚院の赤門>

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さて、大覚院の先、道路右手を細い路地に入ったところに、入日神社がある。現在、海神三丁目にある入日神社の旧境内は、最初に海神を祀った跡だと言われている。そして、この入日神社は、船橋大神宮の元宮があった場所と言われている。この元宮は、夏見に移り、さらに現在船橋大神宮がある宮本の台地上に遷座したという。船橋大神宮は、別名を意富比(おおい)神社という。その祭神とは、天照大神であるが、もともと意富比神(「大日」神)という太陽神を祀っており、夏見御厨が出来、伊勢から勧請した元宮である夏見神明社を合祀するに及んで、天照大神が中心になった。そして、伊勢神宮が朝日の宮と呼ばれるのに対して、船橋大神宮は入日の宮と呼ばれるのである。そこからも、入日神社と船橋大神宮の関係が想定される。しかし、入日神社は意外なほど小さく、船橋大神宮の規模とはかけ離れている。本当に、ここが船橋大神宮の元宮なのだろうか、と思ってしまう。

ところで、この入日神社は海神の地名の由来となったともいう。西海神の龍神社の龍神が海神となったのか、この入日神社が海神の地名としての起源に関わっているのか、今となっては断定するすべはない。

船橋大神宮縁起によると、海神という地名は、日本武尊の東国遠征に関わっている。そもそも、船橋という地名が、日本武尊が当地に来た時に、海老川河口が現在よりもはるかに広く、入江になっていたのを船を連ねて橋として渡ったという故事に基づいているという。そして、日本武尊は、船橋の地に上陸して賊と戦った。しかし、味方する者がなく困っていたところ、たまたま海上に光るものを見て行ってみると、無人の船の中に三種の神器の八咫鏡と同じ鏡があった。八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際に用いられたとされる鏡である。それと同種の神鏡が、偶然見つかったとあって、勇気百倍。日本武尊は、その神鏡の前で、賊徒調伏の矢を放ち、賊を平らげて、その神鏡を当地に大切に祀った。海上から得た神(鏡)ということで海神といい、この地を海神と呼ぶようになったのだという。なお、最近まで入日神社のあった旧境内が、最初神鏡を安置した場所で、その後、船橋大神宮に移したとも伝えられている。

<入日神社>

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実は、この入日神社と前述した龍神社は、ともに本来の出入口は南側の海岸を向いていて、今でも入日神社の鳥居は南側に向いていて、かつては行徳街道から出入りするようになっていた。龍神社も、昭和30年代初めころまでは、南側に参道と朽ちかけた鳥居があり、海岸から行徳街道を越えて参るようになっていたという。つまり、どちらも海に対して開かれた神社であり、海神の名がどちらに由来していようが、大いに海と関わりのある信仰の場所であったのである。

さて大覚院の場所に戻って、東へ進めばJRの跨線橋がある。それを越えて行くと、右手から行徳街道が合流する。そのまま東進すれば、右手に船橋海神の地蔵院を見るが、これは勝軍地蔵を本尊としている。

<地蔵院>

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さらに行けば、西向地蔵堂がある。ここは、古く御仕置場があったとされるが、船橋市最古の石仏である地蔵像念仏塔(万治元年・1658年)がある。また聖観音像各夜念仏塔(元禄9年・1696年)、阿弥陀如来立像供養塔(延宝8年・1680年)も堂内にあるが、いずれも江戸時代前期の石仏である。この西向地蔵堂は、船橋宿の西端とされていた場所にあるが、ここで道がクランクし、西側から侵入してくる敵が勢力をそがれるように作られた。もっとも、現在は車の通行がしやすいように、緩やかなカーブに道が付け直されている。同じような街中での道のクランクは、佐倉や行徳にも見られる。また、地蔵堂の建物が、宿内部を目隠しする役割もしていたという。やはり、この地蔵堂の向こう側が、今も船橋の中心地のように思える。

なお、さらに東へ進み、とりあえず船橋大神宮を目指していくことにするが、長くなったのでこの辺で。

<西向地蔵堂脇の道のクランクの名残り>

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<西向地蔵堂の万治元年の地蔵像(右)と聖観音像(右)>

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コメント

おはようございます。
船橋市の龍神社で検索していてお邪魔しました。
京都在住の者です。
今乙川優三郎さんの時代小説にはまっております。
乙川さんは千葉県出身で、千葉を舞台にした(たぶん)小説が多いのですが、私が特に気にいっている短編「屋烏(おくう)」に、「海神山」「龍神社」という地名が出てきます。船橋市のこの龍神社なのでしょうか。小説のなかでは、龍神社は海神山の上にあるのですが‥
いちど実際に行って、見てみたいです。

投稿: ごとう | 2009.12.29 08:40

ごとうさん、コメントありがとうございます。

海神の龍神社は、平地にあります。そのあたりは脚色があるのでしょう。しかし、海神などという地名は、千葉県ではここしかないと思いますから、この龍神社がモチーフになっていると思います。

投稿: mori_chan | 2009.12.31 23:00

はじめまして。
海神出身の者です。
子供の頃は、龍神社で遊んでいましたし、大覚寺が「あかもん幼稚園」を運営していて、そこを卒園しました。
当時はとても大きいイチョウの木があって、趣のあるいい幼稚園でした。

龍神社の池にある「龍」が加えてる「玉」が当時はあって、それを取ろうとあれこれ画策したりしていました。今思えばなんて罰当たりな(笑)。

このサイトを拝見して、「そんなに由緒あるものだったんだー」とビックリしている次第です。

投稿: ちーぱん | 2010.02.15 23:25

ちーぱんさん、コメントありがとうございます。

海神は船橋でも古い地域で、確実に古代から集落があり、船橋大神宮の元宮などがあったとされる場所です。その海神出身とは、良い環境でお育ちになったのではないでしょうか。

「赤門寺」大覚院にしろ、龍神社、入日神社にしろ、江戸時代より前の時代にあったことは間違いないでしょうし、多分大覚院は天正17年が創建ではなく、戦乱で焼けるか何かしてその時期に再建されたのではと思われるふしがあります。弘法大師の話が伝説にすぎないにしても、海神辺りの集落は船橋の古い地域と同様に、鎌倉時代には成立していたと思います。

投稿: mori_chan | 2010.02.20 07:35

ヤッチャンと呼ばれていた幼少の頃、龍神社のお祭りを見に行くには勇気が必要だった。西海神小の荒いガキ大将が番をはっていて、簡単には近寄れなかったからである。それはPちゃん(駄菓子屋)に行くのも同じことだった、、、。
この話がわかる人は海神育ちであろう事を確かめたいのではなくて、今思うに龍神社には”神輿”があって、数百メートル離れた浅間神社とはかなり違う雰囲気の荒々しさがあった。
浅間神社の石段は人口の土盛りで出来ているのが明らかで船橋海岸が正面に見えていた事は間違いないであろう。40年前よりもかなり寂しい雰囲気になってしまった龍神社も同様で海を正面に見据えていた訳だ。ミコシはそのまま行徳街道を突っ切って、真正面から遠浅の海に入っていったに違いない。(JRで遮られていて想像を働かせるのは難しいが)
その頃、西海神小学校にはなぜか荒い子供達が集まっていた、あのミコシの荒々しさと何か関係が有る事を証明するのは難しそうだが、地元を理解する上で一つの必要条件に接したと思っている。
さらに”石芋の話”も私は八割方信じる。いわゆる地元の人たちの排他性は、通りががりの坊主に話しかけられて、”美味いからあげるよ”というような反応は絶対にしなかったはずと確信を持てるからである。それが風土であったのだ、、、。
さてもし反説があれば、、、大歓迎、、、。

投稿: ヤッチャン | 2011.01.01 15:56

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