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2007.01.07

徳川家康と知多半島(その21:徳川家康と桶狭間合戦<中編>)

永禄3年(1560)5月19日、今川方の先鋒であった、松平元康、後の徳川家康は、織田方の佐久間大学盛重が守る丸根砦を攻めた。丸根砦とその西にある鷲津砦は、今川の手に落ちた鳴海城と大高城の間の連絡を分断するために、織田信長が築いたものである。丸根砦を落すことは、今川方にとっては孤立した大高城を救援するだけでなく、今川軍の尾張進軍の露払いをするという意味もあった。

<大高城>

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一方、丸根砦を守っていた、佐久間盛重は、織田信秀、信長二代につかえた家臣であるが、信秀死後の相続をめぐる争いでも、一貫して信長支持であった。同じく信秀、信長二代に仕え、家中の重鎮となったものの、本願寺攻めを長期化させ、功がなかったとして、高野山に追放された佐久間信盛は同族である。

通説では、松平元康は5月18日の夜、大高城へ兵糧入れした後、19日未明に丸根砦を攻めて砦を落とし、また大高城に戻ったとされる。

織田信長の家臣太田牛一が書き、信憑性の高いとされる『信長公記』には、桶狭間合戦について以下のように書かれている。

「今川義元討死の事 天文廿一年壬子五月十七日
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学 織田玄蕃かたよりはや鷲津山丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆
 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎
是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

『信長公記』でも、大高城へ18日夜兵糧入れした松平元康は、翌19日早朝に丸根砦を攻めて、午前8時頃にはこれを落とし、その後大高城に戻った様子が読み取れる。砦側からは今川軍が鷲津、丸根砦を19日に攻めることを察知した、砦の将たちから、18日夕方には信長へ「十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出(砦)を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯」と注進、明け方には砦が囲まれたと注進している。「塩の満干を勘がへ」とは、援軍の出しにくい満潮時(明け方)に攻めるという今川方(松平元康)の戦法を予測しているのである。

丸根砦址は、現在の大高緑地の西側の台地上にある。丸根という名前の通り、台地の最も高いちょうど城址主郭部があった部分は、丸い鉢を伏せたような形に見える。付近は、主郭部のごく近い場所まで住宅地になっていて、主郭部のみが往時の地形をほぼ留めているようである。しかし、付近の道は狭く、また主郭のある高台へは急な坂道となっていて、自動車で行くのは止めた方がよい場所になっている。幸いにして丸根砦址は、JR大高駅から徒歩で行くことができるほどの場所にある。JR線路の北側へ出て、鷲津砦の下、長寿院を左に見て、線路沿いの道を東に進むと、西丸根の交差点があり、その交差点を左折し、北へ向かえば、左手に大きな見越しの松のあるお宅があり、その道路右側の側道を行けば、急な坂道となり、坂を上りきると、丸根砦址の看板が出ている地点に出る。坂道はちょっと自動車で上るのには勇気がいるほどの傾斜であり、小生夜間などとても通ることは出来ないであろう。住宅地とは行っても、さすがに砦付近は空地が目立ち、生活上の不便さを避けたが故と思われる。

<急な坂道をいくと丸根砦がある>

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丸根砦は、主郭部が東西36m、南北28mで、周囲に幅3.6mの堀が取り巻くという単純な構造で、主郭以外には主郭を同心円的に取り巻く、帯郭があるきりである。ここに佐久間大学盛重以下、500名の将兵が立て籠もったというが、主郭だけでは500名もの人を収容できたとは到底思えず、台地中段の要所に兵を配置したのであろう。

<丸根砦の主郭~看板の上の森が主郭である>

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<丸根砦の主郭内>

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この丸根砦を松平元康が攻めたのは、永禄3年(1560)5月19日の未明であった。元康の率いた今川軍は約2,500名、この小山を取り囲むのには十分な人数である。だが、佐久間大学盛重ら織田軍の抵抗は頑強であった。元康らの今川軍は、砦の大手から正攻法で攻めたであろう。これに対し、佐久間大学盛重らは、矢を台地の上から浴びせかけ、あるいはゲリラ的に戦ったと思われる。しかし、佐久間盛重ら将兵の抵抗は長くは続かず、午前10時頃には丸根砦は落ちた。同日未明、今川軍の朝比奈泰朝が率いる軍勢も、織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が立て籠もる鷲津砦に攻め懸かり、これを落とした。鷲津砦の将兵は殆ど戦死したという。ちなみに、守将の織田秀敏は信長の大叔父にあたる織田一族であり、飯尾定宗も織田家の一族から飯尾氏に養子に入った人物であった。丸根砦、鷲津砦ともに織田の一族、重臣が配置されていたのである。かくして、桶狭間合戦の前哨戦ともいうべき、鷲津、丸根両砦をめぐる戦いは、今川方の勝利となった。

<丸根砦の堀跡~階段の下の道>

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<鷲津砦>

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しかし、疑問を感ずるのは、松平元康が兵糧を大高城を運び込んだ時、丸根、鷲津砦の物見の者はそれに気づいて、砦側は当然ながら妨害した筈であり、荷駄隊という余り自由の利かない行軍を行って危険をおかして兵糧入れを行い、その数時間後に丸根砦を攻落すというのは順番が逆ではないかということである。丸根砦を落とした後、再び大高城に入っているのであるから、最初から二千名以上の兵員を使って丸根砦をひとまず潰し、その後悠々と大高城に荷駄と共に入ればよい筈である。

沓掛を起点として大高城へは直線距離にして約8.5Km、人間の歩く速さで荷駄隊が行ったとすれば2時間40分ほどの時間がかかることになる。沓掛を夜8時に出発したとして、大高に着くのは夜10時40分ということになる。その翌日早朝4時に丸根砦を攻めたとして、準備に2時間かかるとすれば、大高城で休めるのは3時間余りである。いくら「塩の満干を勘がへ」といっても、織田軍の援軍が満ち潮で阻まれて来難い時間帯でなければ攻められないということでもなかろう。むしろ、正面から丸根、鷲津に夜襲をかけ、いったん織田軍の勢力を掃討してから、荷駄を大高城に運び込むほうが自然のように思われるのである。そうはいっても、戦国時代の人がそう考えるかといえば別問題で、やはり『信長公記』の記述通りかもしれない。

また、松平元康が丸根砦を19日未明に攻めて、砦に煙が上り、落ちたのが織田信長によって確認されたのが朝8時頃であったというのも、少し時間がかかっているように思われる。しかし、低地から高台を攻めるのは、逆の場合よりも何倍も大変なことである。むしろ佐久間大学の織田方が、寡勢よく守ったというべきであろう。

<丸根砦に建つ石碑>

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コメント

桶狭間合戦時、鷲津砦を攻めていたのは、今川の勇将、朝比奈泰能であるという史料のまま、当ブログでも書いておりましたが、朝比奈泰能は弘治3年(1557)に病没したようであります。よって、永禄3年(1560)にはこの世におらず、鷲津砦を攻めていたのは、朝比奈泰能ではなく、子の朝比奈泰朝であり、後世に親子を取り違えた誤りであることが分かりました。そのため、当ブログの記載もおやじの朝比奈泰能ではなく、朝比奈泰朝に改めます。

投稿: mori-chan | 2007.05.30 05:53

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