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2007.01.06

三重海軍航空隊跡を訪ねて

昨年末であるが、三重に行ったとき、津の駅前からバスで香良洲まで行き、三重海軍航空隊跡を訪ねた。その場所には、もう二十年くらい前に、一度行ったことがある。

<津市香良洲にある三重海軍航空隊跡>

Karasuchou

実は、小生の父がこの奈良分遣隊の出身である。また、どういうわけか、うちの親戚にはこの奈良分遣隊(のちの奈良航空隊)の出身者も含め海軍出身者が多い。海軍は基本的に志願兵によって構成されており、親父の兵籍番号も、「横志飛・・・」である。横は横須賀鎮守府、志は志願兵、飛は飛行兵といった具合である。奈良分遣隊は、終戦直前に三重空から独立し、奈良海軍航空隊になった。終戦間際に、海軍は高野山にまで、航空隊を作ったのだから、海のない奈良県天理市の奈良空、高野山の高野山空と、船山に登るならぬ、海軍山に登るである。

この三重海軍航空隊は、三重県にあったから三重空なのだが、鈴鹿海軍航空隊、宝塚海軍航空隊や、横須賀海軍航空隊のように、都市や地域の名前を冠しなかったのは、香良洲にあるため、そのままでは香良洲海軍航空隊で、カラスがカーカー鳴いて飛んでいるようなイメージをもたれては困るという配慮だろうか。いずれにせよ、西の三重、東の霞ヶ浦と、予科練のメッカであった三重空では、多くの航空兵が養成されたが、ある者は戦闘機や爆撃機搭乗時に撃墜され、ある者は回天、震洋搭乗などを含めた特攻によって戦死した。太平洋戦争末期につくられた奈良空ではさすがに飛行機搭乗での戦死者は三重空本隊と比べると少なかったが、やはり特攻兵器による戦死が多く、あまり知られていないが、かなりの人が病死している。奈良分遣隊を含め、三重空の隊門をくぐった航空兵は六万五千人ほどであるが、戦死者数は約五千人。つまり十二人に一人くらいの割で戦死したことになるが、年次が古い程、その率は高くなる。

三重海軍航空隊の跡地には、以前訪ねたときには、若桜福祉会館といっていたが、今は香良洲町、さらに合併後津市の運営となった、津市香良洲歴史資料館があって、戦死した人の遺品などを展示している。

<今も残る隊門>

Mieku1

<入口にある錨>

Ikari

津市香良洲歴史資料館では1階がロビー、2階が地域の郷土資料(漁具、農具など)、3階が三重空関連資料となっているが、3階は撮影禁止とのことであった。1階には、練習機である白菊の模型が置いてあり、戦後になって発行された三重空関連の印刷物なども展示されていた。

<白菊の模型>

Siragiku

<白菊を後から撮ったところ>

Shiragiku2

本当は3階の展示物を撮りたかったのだが、残念。一番印象に残ったのは、三重空予備学生で、終戦直後に三重空近くの浜辺で割腹自殺した森崎湊海軍少尉候補生の遺影である。予備学生ということで、もっと優しい面影をイメージしていたが、なくなった森崎湊少尉候補生の顔はエラの張り、目が鋭い、まさに海軍軍人の顔であった。日本の敗北を彼は受け入れることが出来なかった。なかには終戦のドサクサで軍の物資を隠匿して、私的に使ったり、持ち逃げする軍人、それも高級軍人といわれる人々が多かったのに、予備学生のような人々が一番純粋だったのであろう。父の話でも、終戦直後、焼野原となった東京では、大学教授だった人が橋の下で乞食のような状態で寝ていたり、米軍のジープを見ると物をねだりに人が殺到する、あるいは都会の真ん中で救世軍の炊き出しの鍋で飢えをしのぐといった時勢になるのだが、そういう光景を見ずに森崎湊少尉候補生は逝ってしまった。

<三重航空隊の碑~他にも年次ごとなど多くの石碑があったが、これが一番隊碑らしい>

Miekuhi

<鈴鹿航空隊の点鐘台>

Suzukatenshoudai

予科練では甲種、乙種、丙種と区分があり、本来は乙種しかなかったのが、促成栽培のような甲種と水兵や機関兵、それも下士官に既になっているような者の転科のための丙種が新設され、三重空はもとは乙種中心であったが、昭和18年(1943)には大量に甲種飛行練習生(甲飛十三期)が入隊、彼らは奈良分遣隊に配属される。この奈良分遣隊は、大量に採用した特攻要員を寝泊りさせるために、天理教の教会を利用したものであり、そこでは兵舎は天理教の畳を敷いた教会であった。畳の部屋で、ハンモックをつって寝ていたのである。三重空奈良分遣隊、のちの奈良空は、飛行機が一機もない航空隊であった。わずかにあるのは、シミュレータのみで、彼らは最終的には回天、震洋などの特攻要員とされるものも少なくなかった。

<戦死者の多かった甲種飛行練習生十一期の石碑>

Kou11

終戦の際、奈良空でも、いわゆる玉音放送を隊員を召集して聞かせた。しかし、軍内部の反乱軍が発する妨害電波のため、よく聞こえなかったという。而して、下士官になっていた小生の父は復員、東京に出て軍歴を隠して就職するに至る。

<海軍のマークの入った消火栓>

Shoukasen

いまだに、この津市香良洲歴史資料館では、軍艦旗を掲げている。しかし、敗戦と同時に、どこの航空隊でも軍艦旗を降ろして、焼いた筈である。森崎少尉候補生のような人を除いて、敗戦の日からも多くの海軍軍人は生き残り、その知識や技術を生かして、戦後復興に貢献した人も少なくない。しかし、軍艦旗を焼いた時に、心のなかの軍国主義の考え方も焼いただろうか。そのままもち続けた人も、少なからずいたのではないか。その辺りに、戦後の矛盾があり、諸外国の注意喚起や批判にも関わらず、喜んで靖国神社に参拝する首相や大臣連中が大勢いるという病理現象に繋がっている。

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コメント

 父の17回忌を過ぎて、思い出をしたためようと資料を集めています。とりわけ、軍国少年だった時代のことが知りたくて、昭和18年12月から終戦まで飛行予科練習生として「三重海軍航空隊」で過ごしたことが知りたくなりました。
 貴殿のブログ記事を発見して感激、たいへん参考になりました。とくに、特攻用ボート「震洋」の隊員として訓練に明け暮れた話を語っていたことが懐かしいです。飛行機に憧れて入隊した頃には、練習j機も少なくなり、本土決戦に備えていたのでしょうか?防空壕を掘る作業「土科練」の日々だったと・・・・・
 そのような中、伊勢湾沖を震源とする大地震が発生したそうですが、機密扱いで被害の報告は公表されなかったようです。
貴殿のお父様は、この大地震のことを話されましたか。
 父は、茨城県霞ヶ浦「土浦海軍航空隊」を志願、受験しました。そして、郷里より遠く離れた三重の地に赴き、カラスが鳴かない日はあっても香良洲では若者が泣く日々・・・「罰直」(精神注入棒)の体験を引き合いにしては、脆弱な私を鍛錬しました。
 とりわけ、食事に厳格でした。残してはならない、食べる姿勢や箸の扱い方、口の中に物を入れて音を立てると叱られました。この作法は予科練時代に育み培われたのでしょう。頑固な父でしたが、今思うと多感な少年時代に「同期の桜」の絆が人格形成にプラスになったのでしょうね。
 「若桜会館」の石碑に、千葉県出身の同期の皆さんとともに父も名前を連ねています。機会がありましたら「三重海軍航空隊」を訪ねてみたいです。

投稿: 船橋のカラス | 2013.11.21 21:04

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