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2007.02.25

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋宮本から東船橋へ)

前回は西福寺、了源寺、東光寺を紹介した。この西福寺、了源寺、東光寺のある宮本から東船橋にかけては、江戸時代には五日市村で、長く五日市といわれた地域であった。さらに、了源寺の南東約200mの現在宮本小学校がある辺りは、南北に通り、東へ上総道(今の国道14号線にほぼ重なる)に合流する鎌倉街道に接する、小池千軒という集落が中世にはあり、室町時代末ごろには五日市の中心として繁栄した。

<了源寺の筆子塚~明治前期の住職山名恂龍のもの>

Ryougenji1

前にも述べたように、かつて船橋の中央部、現在の海老川下流域には夏見入江(潟)といわれる入江があり、船橋大神宮の西側低地は入江の一部であった。ゆえに、鎌倉街道といわれる古道は、夏見から今の市場辺り(ここには城の腰という地名があり、船橋城があったとされる)に南下し、さらに峰台の台地にのぼって、東金御成街道(佐倉道)を越えて、砂山茂侶浅間神社や真名井のある宮本中学校の西側、宮本小学校の東に接する場所を通って、東へ花輪方面に抜ける上総道に合流していた。

実は、上記の峰台の台地上には、戦国時代までは、慈雲寺という寺があった。今も、慈雲寺はあるが、往時の規模ではなく、本堂と庫裏、少しばかりの墓地が隣接する小さな寺になっている。最近の研究によれば、第2次国府台合戦で敗北した里見軍は、市川から海神を通り、夏見の薬王寺付近から南に城ノ腰を通って現在、峰台小学校のある峰台の慈雲寺方面へ敗走していき、しんがりは慈雲寺を拠点に追撃する後北条軍を迎え撃ったという。この慈雲寺は、大峰山慈雲寺といい、曹洞宗の寺である。弘安2年(1279)無学祖元の創建とつたえられ、当初臨済宗であった。戦国時代には里見氏の祈願寺となっていたようで、鐘楼にあった鐘は里見氏が寄進したものであったという。その鐘は第2次国府台合戦の際に、里見義弘が陣鐘として持ち出し、国府台城の太日川(江戸川)に張り出した木の枝につるしたところ、枝が折れ、鐘は川に落ちてしまった。その鐘が落ちた川の淵は、鐘ヶ淵と呼ばれたという伝説が残っている。

永禄2年(1564)の第2次国府台合戦で焼けるまでは、峰台の台地上に仏殿、法堂、書院、鐘楼などを持つ大きな寺であったが、合戦で焼失し、現在地、すなわち峰台の台地南の低地に北条氏政によって再建されたという。しかし、再建後の慈雲寺は荒れ、無住になり、船橋戦争で焼失した。現在の寺はその後再建されたものである。

<慈雲寺>

Jiunji

峰台には、慈雲寺があっただけでなく、最近の発掘調査では陶磁器などが出土し、中世の館もしくは集落があったと推測されている。昭和15年(1940)9月8日の新聞報道では、峰台の慈雲寺旧境内地から永楽通宝など千三百枚ほどの古銭が発掘されており、戦国動乱期に埋められたらしい。どうも、船橋周辺には里見氏に関連した伝説があり、慈雲寺周辺に里見氏に加担した武士がいたものか。現在の京成津田沼駅に近い鷺沼にいたらしい鷺沼源吾なる武士は、国府台合戦の折、里見方として出陣したと言われる。船橋にも、舟橋左馬之助唯久という里見氏家臣がいたという伝説もある。

この峰台に中世城館があったかどうかは、まだ結論が出ていないが、峰台の西側の谷は自然の谷であるが、堀のように使用されたと思われ、一部人工の掘削跡も見られるという。中世では寺が城代りに使用されることは多く、里見軍が第2次国府台合戦で敗走途中で、この峰台を拠点に追撃する後北条軍を迎撃したのも、不自然ではない。

峰台は、明治維新の際の船橋戦争でも戦闘が行われたようで、現在も路傍に幕府脱走軍の戦死者の墓がある。その峰台の台地を鎌倉街道にそって南に下れば、東金御成街道との交点付近に日枝神社がある。この神社は、東金御成街道から参道がのびているが、社殿東下に寛文2年(1662)の地蔵像念仏塔がある。この神社で珍しいのは、古木に寄り添うように建つ青麻権現の石祠である。石祠の表面が剥離していて、「青」という字が判読できる程度になっている。実に紛らわしいのであるが、この日枝神社の近くに「浅間前」というバス停があり、東金御成街道の南に茂侶神社、通称砂山浅間神社があるが、バス停からは少し離れた場所にある。

<日枝神社>

Hiejinjya

その茂侶神社とは、鎌倉街道の東、現在宮本中学校のある場所の南に隣接する、砂山という場所にある。ここは、中世において南には上総道、その向こうは海という台地端で、かつて花輪城があった。その手前、宮本中学校の西に隣接する一角に真名井といわれる伝説の井戸跡がある。

<真名井>

Namanoi

今は掘抜き井戸のようになっているが、本来は湧き出す泉のようであったのであろう。また、「真名井大師」という弘法大師の祠があるが、「真名井大師」とは中世の街道にしばしば残る弘法大師の伝説が、恐らくは高野聖などによって語られ、伝承したものと思われる。

<真名井大師>

Manadaishi

さて、「茂侶神社縁起」によれば、

「当茂侶神社の起源は古く、延喜式神明帳に「下総国葛飾郡二座茂侶神社・意富比神社」とあり、今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されていたのであります。愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び・安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました。
摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り、御嶽神社と申して居ります。
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日、下総国従五位下茂侶神に従五位上を授くとありました。
陽成天皇の元慶三年九月二十五日、下総国正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。西北にある湧水は「天の真名井」と称する当社の神泉であります。江戸名所図会によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引若松を選び上納する旧例とあります。古来例祭は旧暦六月一日に行います。」とある。

縁起にあるように、茂侶神社は、祭神は木花開耶姫命、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。

中世の船橋においては、市川方面から千葉へ行くには、夏見の台地を薬王寺から南下して、城ノ腰を通り、峰台の台地を通って、砂山の西側から海岸沿いに鷺沼、馬加と進む鎌倉街道が一般的なルートであった。砂山の下の低地には、かつて古池という大きな池があり、それが涸れて小池となった中世末期において池端の街道沿いに「小池千軒」という集落が存在していた。この茂侶神社の南側、石段を下りた場所に御手洗の池としてあった 「古布多の池」 の石碑がある。「古布多」とかいて「こぶた」と読む。何を意味するか、よく分からないが、「子を負ぶった」が短くなったとかいう説がある。池の名前では、柏のほうにコンブクロの池というのがあったり、公論坊の池とか、変わった名前のものが千葉県には多い。今は、「古布多の池」の池の水は涸れているが、かつては水をたたえていたといい、これも小池の名残りであろう。

<茂侶神社>

Morosengen2

この茂侶神社は、前述のように、花輪城という城があった場所であるが、堀跡がかろうじてある程度で、今は遺構が殆ど残っていない。その花輪城という城の性格は、南に上総道、また鎌倉街道がすぐ西を通っていることから、交通の要衝をおさえるものに他ならないが、誰がいつ築城したかなど、詳しい史実が明らかになっていない。

船橋市街地の寺社を訪ねて、ここまで来たが、これで終わりとする。なお、この内容は、再度整理し、当ブログで紹介しなかった寺社も加えて、後日再度発表したい。

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2007.02.12

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋大神宮周辺から東へ)

船橋大神宮の付近にも、いくつかの寺社がある。今回は西福寺、了源寺、東光寺を紹介するが、ちょっとばかり場所が離れているので、地図を参照していただきたい。

そのうち、船橋大神宮の北側、東金御成街道の一部である、宮坂と呼ばれる近世に切り開かれた切通し道を上りきった辺りにある、真言宗の古刹、西福寺は、県内有数の古い石造物があることで有名である。それは、一つは律宗の僧の墓と思われる南北朝期の五輪塔は安山岩製で、全高295cm。県の有形文化財(建造物)に指定されており、優美な姿に特色がある。銘文は刻まれていないが、作風から南北朝期(もしくは鎌倉時代にさかのぼるか)のものと推定されている。もう一つの宝篋印塔は、安山岩製で、全高215cm、中世の宝篋印塔としては大型のものである。補修の跡が残るものの、原形をよくとどめていて、五輪塔と一括で県の有形文化財(建造物)に指定されている。これも無銘であるが、鎌倉時代末期作と推定されている。

<西福寺の五輪塔、宝篋印塔>

Funabashi90

これらは夏見入江に面した船橋御殿址、すなわち中世以来の船橋大神宮宮司の富氏の屋敷址に近い場所にあったと伝えられる。その辺りに安養寺があったらしい。安養寺ははじめ律宗であったが、その後「田舎天台」と俗称される天台宗の寺となり、いつごろか廃寺となった。西福寺にある五輪塔の大きさは、鎌倉などにある他の律宗系五輪塔と比べても遜色なく、千葉県内では大日寺の千葉氏のものと伝わる五輪塔とも同じくらいの大きさで、県内最大級である。

<千葉大日寺の千葉氏歴代の墓>

Chibarekidai

これは、船橋が、中世において湊を背景に流通、経済の拠点であったことを示している。ちなみに、御殿地そばの御蔵稲荷の近所からは、かつて渡来銭ばかりの埋蔵銭が見つかり、西福寺からも近い峰台の慈雲寺旧境内地からも埋蔵銭が出土したといい、商業活動に従事した者が隠したものか、興味をひかれるものがある。

西福寺は、市場方面の低地が見渡せる砂岩質の台地上にあるが、前述の五輪塔、宝篋印塔以外に、武者小路実篤の「椿の墓」の文字のある岸田劉生門下の洋画家椿貞雄の墓がある。

その西福寺から東へ街道を進めば、右側路地奥に浄土真宗の了源寺がある。かつてここで手習いなどが行われたようで、門を入った場所に歴代住職の筆子塚などがある。また、本堂横にある二階建ての建物者の下に亀の像がある。これは、当寺にまつわる亀の伝説に、基づいているものと思われる。

<了源寺の本堂~手前は百日紅で夏に撮影したもの>

Ryougenji

その伝説とは、「お経を聞く亀」の伝説であり、江戸時代のあるころ、この寺に宝海という僧がいた。宝海は幕府の要職にある人とも親交があり、他の寺にいたのだが、隠居して生家である了源寺に戻ってきたのであった。その宝海が存命の頃、毎日朝、夕きまって亀があらわれ、宝海の読経を聞いており、大層信心深い亀もいたものだと評判になった。しかし、宝海がなくなると、今まで毎日のように現れていた亀が、ぱったりと姿を見せなくなった。これを不憫に思った信徒たちは、「可愛そうに、あの亀は宝海さんがなくなったのが分かったと見える、どこへ行ったのか」と噂していたが、これを聞いた石工の名人才次郎良正が、石の亀を奉納したという。

<了源寺の亀の像>

Ryougenji_kame

また、この了源寺には享保年間、幕府の大砲試射場がおかれた。それは鐘楼のある高台にあったもので、今は鐘楼堂が建っている(船橋市指定文化財)。この大砲では実際に、谷津、藤崎方面に向かって射撃が行われた。

<了源寺の鐘楼堂>

Ryougennjishourou

射撃場が廃止された後、砲台の台座のあった場所に鐘楼堂が建てられた。その際、鐘は「時の鐘」として時を知らせることが幕府に公許され、その時間は和時計で正確にはかられた。この「時」の基準となった和時計と大田南畝(蜀山人)が船橋に宿泊した時に、この鐘の音を聞いて詠んだ、自筆の狂歌の掛け軸が、この了源寺に保存されている(船橋市指定文化財)。

煩悩の 眼をさます 時のかね きくやわたりに 船橋の寺  蜀山人

この了源寺から真直ぐ南西へ道沿いに行くと、東光寺の墓地に出る。東光寺は、千葉街道のほうに門があるが、その門を入ると脇に「奉納大乗妙典日本廻国千人供養塔」と刻まれた大きな石塔が建っている(文化5年(1822)建立)。本堂は、いまどきの寺の例によってコンクリート製の新しいものであるが、本堂横にいくつかの石仏がある。一つは大日如来像、その右に不動明王像(宝暦4年(1754))があるが、出羽三山の名前を刻んでおり、単に不動といってしまうのは出来ないかもしれない。

<東光寺>

Toukouji

<門脇の大きな石塔>

Toukoujikuyoutou

<本堂横の石仏>

Toukouji02

そのほかにも、大神宮側の出入り口の近くには、元禄2年(1689)のものを筆頭とした五基の庚申塔、十九夜塔、大日如来の念仏塔(元禄5年(1692))などがある。

とにかく、この東光寺はやたらに石仏の多い寺である。この東光寺は真言宗、前に紹介した西福寺の末寺である。東光寺の入口から200m進んだ左手に大日堂の跡地として、大日会館がある。会館内には、正徳元年(1711)造の大きな石造大日如来像念仏塔がある。

<東光寺の大神宮側の出入口近くの石仏>

Toukoujizou

さて、この宮本一帯は、古くは小池千軒という集落があり、船橋の東側の五日市といわれた地域に属した。ほかにも、戦国時代などの古い歴史といわれのある、寺社が当地には存在する。それについては、また次回。

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2007.02.10

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋大神宮)

前回、海老川までたどり着いたが、今回はその先の船橋大神宮以東へ行ってみることにする。といっても、小生この辺りから余りにもフレンドリーな地域となるので、端折ってしまうかもしれない。

海老川は、今では沿岸に散歩コースなども作られ、市民の憩いの場になっている感もあるが、かつてはよく氾濫を起こす厄介な川であった。また海老川沿岸地域は土地が低く、海老川が一度荒れて水が出ると、よく冠水してしまうのは、市川における真間川流域と事情は同じであった。今では、どちらの流域も、護岸工事がなされ、堤防なども整備されて、かつてのような大規模な水害は起こらなくなっている。

<海老川にかかる万代橋から北を望む>

Yorozuyobashi

海老川橋から東進して正面に見える船橋大神宮は、言うまでもなく船橋を代表する神社であり、千葉県内でも有数の神社といっていいであろう。その船橋大神宮へ行く前に、万代橋を渡って東へ細い道を行けば、道沿いに古い商店が見られる。今では、滅多に見られなくなった駄菓子屋さんなどもある。実は、この辺り、正確には万代橋の東の筋ではなく、もっと北になるが、かつて太宰治が住んでいた場所になる。太宰治は、その住んでいた家の玄関脇に夾竹桃を植えていたのだが、それは今は船橋市民文化ホールの階段下に移植されている。

<太宰治が植えた夾竹桃と石碑>

Kyotikuto

なお、当時太宰治は、盲腸炎から腹膜炎を併発し、病身であったのを船橋へ移住して転地療養しており、船橋で健康を取り戻した。その際、あちこち散歩したようであるが、特に好んだのが前回紹介した御殿稲荷であった。その当時の太宰治の写真で、狐の像の頭が写っているものがあるが、これは御殿稲荷の境内の太宰治を写したものである。

話が少しそれたので、もとに戻そう。万代橋から細い道を通り、京成線を越えて暫く行けば、大神宮から市場方面へ抜ける道に出る。これを大神宮へ向けて、南に進むと、大神宮の鳥居と裏参道が見える。この大神宮の裏参道のところで、十字路となっており、南へ進めば千葉街道(昔の上総道)、東へ宮坂を上って進むと東金御成街道(前原で成田街道が分岐する、かつての佐倉道)となる。

<大神宮の裏参道横の十字路>

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船橋大神宮は、別名意富比神社であり、『日本三代実録』の貞観5年(863)の記事に名の見える古社である。この意富比とは、太陽神をあらわすオホヒ(大日)の神であるといわれ、同じく太陽神、天照大御神を祀る伊勢神宮と同一視され、中世後期から船橋神明と呼ばれるようになり、転じて船橋大神宮と呼ばれるようになった。八坂神社や香取神社が、各地にある、店に例えればチェーン店なのに対し、船橋大神宮は、老舗の独立店舗ということになる。

<船橋大神宮の本殿>

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しかし、船橋周辺の船橋大神宮への信仰は、絶大なものがある。初詣は、船橋だけでなく近隣の地域からも人が集まっているようである。小生は、初詣には鎌倉へ先ず行っているが、元旦の夕方や二日には大抵船橋大神宮にも参拝する習慣があって、それは長年続けている。前はお神楽もあるし、今は駐車場となっている場所でドンド焼きで古いお札などを焼き芋と一緒に焼くことができるとあって、それは正月の楽しみの一つであったが、今は古いお札も事前にチェックされ、関係ないものは一切焼くことができなくなった。お神楽の方は、今も行われ、正月恒例となっている。しかし、昔も今も、初詣客の多いことには変わりない。

<初詣客で賑わう境内~表参道>

Funabashihatsumoude2

この船橋大神宮は、戦国時代まで勢力を保った神官で豪族の富氏が宮司をつとめ、富氏はかつては大神宮と夏見入江によって隔てられた、砂洲上の御殿地に屋敷があって、その場所と大神宮を船で往復していたと思われる。なぜ、富氏がわざわざ入江の向こう側に屋敷を構えたかといえば、船着場などあって流通の集積場があり、商業活動に関与していたからと思われる。

また、大神宮には中世文書が多数保持されていたとのことであるが、戦国時代に富氏の手によって改竄された可能性が高く、千葉満胤の書状や「船橋御厨六ケ郷田数之事」という応長年間の文書(以下)などがある。

船橋大神宮文書 「船橋御厨六ケ郷田数之事」
一 下総国船橋御厨六ケ郷 田数之事
一 六郷本ハニ百町也
一 東船橋百六町六田大
一 西船橋九十三町三田小
  此内わける事
一 廿七町七田はん 湊郷
一 四十二町田田はん 夏見郷
一 廿三町一田小 金曾木郷
一 六郷六十町の時ハ
一 三十一町 東方
一 廿九町 西方 此内わける事
  八町三田三十分 湊郷
一 十三町一反はん十四分 夏見郷
一 七町一反はん四十八分 金曾木
一 十六町 宮本郷
一 十五町 たかね郷[米□崎/七□□]
 應長元年[辛/亥]十二月廿日

これを含め、現存するのは弘化4年(1847)に穂積重年が模写したものが多く、大量にあったらしい船橋大神宮文書は幕末の船橋戦争でほとんど焼失したらしい。上記の「船橋御厨六ケ郷田数之事」は船橋大神宮の領地拡大・保持のための根拠として、戦国時代に偽造されたという説があり、「六ケ郷」といっておきながら「湊郷」「夏見郷」「金曾木郷」「宮本郷」「たかね郷」の五つしか出てこない。ちなみに「たかね郷[米□崎/七□□]」とあるのは、高根郷で、米□崎は米ヶ崎、七□□は七くまで七熊のことであろう。また、金曾木は金杉である。いずれの地域にも神明社、ないしは船橋大神宮を分祀した意富比神社が存在している。偽文書かもしれないが、ある程度当時の集落地名などが正しく表現されているように思われる。文中、湊郷とあるのは、現在の湊町ではなしに、御殿地を含む本町一帯を示し、宮本郷というのは、古く五日市と呼ばれた船橋大神宮のお膝元である。

<初詣客で賑わう境内~本殿横>

Funabashihastumoude1

さて、船橋大神宮の宮司富氏は、徳川家康が関東入部の際に、地元の有力者として迎えたらしく、自分の屋敷を鷹狩のための船橋御殿として提供しているし、船橋大神宮自体が天正19年(1591)に家康から50石の社領を与えられている。家康との所縁は、それだけでなく、慶長19年(1614)に現在の宮坂を開いて東金御成街道を造成し、それに先立つ慶長17年(1612)に船橋御殿を建築したのは、家康の命を受けた伊奈忠政であるが、その父の伊奈忠次を奉行として、家康は慶長13年(1608)に船橋大神宮の本殿造営を行っている。その棟札には、以下のように書かれている。

    領主 征夷大将軍源朝臣家康
             奉行伊奈備中守忠次
  奉祈意富日皇太神宮一宇造営天下泰平武運長久諸願成就
                            添奉行杉浦五郎右門衛門
                            同 渥美太郎兵衛
    慶長一三戊申七月一八日

このように、家康が船橋大神宮を手厚く保護し、本殿の立替までしたのは、将軍お膝元の江戸に隣接した船橋一帯の地盤固めを通じて、関東での政治、経済、軍事の支配力を確立させる狙いがあったものと思われる。

家康が築いたインフラの元で、船橋は東金御成街道による流通、商業、あるいは御菜浦を背景に漁業が発達していった。東金御成街道は前原で分岐するまで成田街道と同じ道筋であり、成田参詣を目的とした人々も多く交通した。現在の本町通りは、江戸時代からの宿場町(本来は継場)として賑わい、いろいろな商店が立ち並んで、江戸時代には八兵衛という宿場の飯盛女までいた。今でも、由緒有り気な古い商店がビルの間に散在している。

<本町通りの古い商店(廣瀬直船堂)>

Hirosechokusenndou

なお、船橋大神宮で面白いものが一つ。それは、奉納相撲の土俵である。この奉納相撲も、家康に結び付けられて伝承されており、天正18年(1590)徳川家康が鷹狩りで船橋御殿に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、家康は大変喜び、以来これを神社に奉納するようになったという。その家康本人が没して船橋に来なくなってからも、江戸幕府が勧進元で奉納相撲は長く続けられ、戦後の混乱期一時中断していたが、昭和25年(1950)に再開された。

<船橋大神宮の土俵>

Dohyo_1

他にも、船橋大神宮には、明治13年(1880)に点灯されたという灯明台(県指定有形民俗文化財)があるが、何回か中に入ったことがある。三階建てで、一階が宴会でもできそうな和室となっているほか、二階部分にも畳がしかれ、階段が余りに急であったことが印象に残っている。
明治以前に既に灯明台はあったが、明治維新時の船橋戦争で失われた。したがって、現存するものは正確には、明治時代に再建されたものである。

<船橋大神宮の灯明台>

Funadashitoudai

この灯台、以前は正月三が日には公開されていたが、今年正月三が日に行ったにも関わらず、開いていなかった。時間が限られているのかもしれないが、残念。したがって、灯明代の画像も、小生がとったものではなく、Wikipediaから借用したもの。

長くなったので、この辺で。大神宮の周辺、宮本の辺りにも、古い社寺があるので、それについては後日紹介する。

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2007.02.06

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋本町:西向地蔵から船橋大神宮へ)

前回、海神からスタートした船橋の寺社めぐり、今回は西向地蔵から。

前にも書いたが、ここは狭い範囲での「船橋宿」(正確には船橋は継場である)の宿はずれとでもいうべき、西のはずれにあって、いつまでかはよく分からないが、仕置場(処刑場)があった場所であるという。実はこの西向地蔵の西側には、かつて本海川(山谷澪)が船橋駅北側の天沼公園あたりから、水面をあらわにして流れていて、河口付近は江戸時代から漁船の船溜りとなっていた。現在、本海川は国道14号線の南以外は暗渠となっていて、かつての様子は分かりにくいが、西向地蔵の西側の南北に通っている道、国道14号線沿いの電話局付近からなべ三の西側、加藤医院の前を通り京成船橋駅方面に出る道は、その川の堤防沿いであった可能性があるという。西向地蔵自体、河原に作られたものであった。

<西向地蔵の堂>

Nishimuki_2

現在、西向地蔵の北に接する本町通り(昔の佐倉道:成田街道の船橋本町一帯の通称)は、緩やかにカーブしているだけであるが、かつては明確にクランクになっていて、西から侵入してくる敵を防ぐように作られていた。同時に、西向地蔵の西側を本海川が南北に流れていたことから、やはりこの場所が船橋の中心を防備する境界であったと思われる。この西向地蔵の場所から本町通りをしばらく東へ行くと北へ入る小道があり、その道沿いに稲荷神社がある。この稲荷神社横の通りを、稲荷通りというそうだが、小生この通りを昔から歩いていたにも関わらず、その名前は本町通りとの角にある稲荷屋さんで最近聞くまで知らなかった。なぜか、この通りは北へ京成電車の踏み切りを越え、キリスト教のインマヌエル船橋教会のあたりまで飲み屋、風俗店が建ち並んでおり、夜はあまり通りたくない道であった。もとは、このあたりには、本海川に沿った川岸で、魚屋が集まっていたそうであるが、今はその面影は余りない。

<稲荷神社 自転車の左にあるのが「国威宣揚」の石柱>

Inarijinnjya

なお、あまり目立たないが、陸軍中将の揮毫による「国威宣揚」と書いた「紀元二千六百年」の石柱が半ば地面に埋まった形である。

稲荷屋さんは、慶応二年創業というから、約140年の歴史をもつ老舗である。屋号は、やはり近所に稲荷神社があるからだと店の人から聞いた。小生、たまにここで食べることがあるが、あなご天丼などは、揚げたあなごが柔らかくとてもうまい。また、お昼のランチは値段も安いので、御得な気分である。

<老舗の稲荷屋>

Inariya

それはともかく、ここから東はビルも立て込んできて、船橋の中心の感じが強まってくる。船橋市民文化ホールは、比較的新しいビルであるが、ここではコンサートや展示会などがよく行われる。本町通りだけでなく、交差する船橋駅前の通りにも、商店が軒を並べているが、昔は今よりも商店が密集していたように思われる。今は量販店やファーストフードの店などもあるが、そういう新しい店の建っている場所にも、かつては商店があった。

市民文化ホールの向かい側の一角は、何度か紹介した寺町である。まだ、古い船橋の面影を残している場所でもあり、覚王寺の参道が近隣住民の生活道路になっていて、道路がアパートの軒下を通っているのも、今時珍しい。この寺町には、お女郎地蔵がある、室町時代からの古刹、浄勝寺、漁師町らしく難陀龍王をまつる龍王堂のある覚王寺、因果地蔵尊の円蔵院、漁場争いで獄死した漁師惣代らの供養のための飯盛大仏で有名な不動院、 と今まで紹介してきた寺のほかに、浄勝寺の塔頭の一つから独立した専修院、浄土宗で正中の石碑のある最勝院、明治5年(1872)、船橋で初めての小学校教育が始まった、日蓮宗の行法寺がある。都合、現在は七つの寺があるが、かつては九つであったという。

<不動院の飯盛大仏>

Meshimori

今まであまり紹介していなかった浄土宗・専修院は、前述のように浄勝寺の一塔頭であったが、金蓮社類譽周公上人が室町時代、永正3年(1506)に開創したというが、本所霊山寺誌には浄勝寺・大潮(超)上人が寛永年間に開いたとされる。この専誉大潮(大超)上人は、徳川家康旧知の間柄であったといわれ、浄勝寺は天正19年(1591)に関東に入部してまもない徳川家康から御朱印十石を拝領し、芝増上寺の末寺となっている。専修院は浄勝寺の東南に隣接する形で、こじんまりと建っている。

<専修院>

Senshuin

また、同じ浄土宗の最勝院、ここには正中元年の年号の入った石碑がある。それは船橋小学校の北に二三の古い墓とともにあったのを、ここに移したものであるという。梵字三つの下に、正中元年の年号が刻まれているが、書体からみても、風化の度合いからみても、鎌倉時代のものとは思えない。筆者の想像では、船橋御殿地近くにあった安養寺という古くは律宗、のちに天台宗となった現存しない古寺に関連した正中年号の石造物がもともとあって、それが何かの事情で壊れたか、なくなってしまい、後から(江戸時代後期~明治くらいか)模造したものではないだろうか。この御殿地は、古くは船橋大神宮の宮司である富氏の屋敷があった場所であり、夏見潟という入江に面して、どうも湊があったか、商業・流通が行われ、それに船橋大神宮の別当寺と思われる安養寺の僧が関わっていたらしい。何か、そのあたりに、この石碑のオリジナルが関係していたように想像できる。移した時の記録などがあれば、もっと確かなことがわかるのだろうが、ちょっと謎である。

<最勝院>

Saishouin

<正中年号の碑>

Shouchuhi

寺町で紹介していなかった最後の寺、行法寺は、寺町の最南端に位置する寺で、すぐ南は国道14号線である。このあたりに来ると、すぐ近くを交通量の多い国道が通っており、国道沿いにはビルも建っている。昔は、漁師町も近い、海沿いの寺であったのだろう。

<行法寺>

Gyouhouji

この本堂は、寺町のほかの寺が新しくコンクリート製などで立て替えたのに対し、古い木造建築である。境内は、昔はもっと広かったように見える。この寺で特筆すべきは、船橋で小学校教育が、この場所から始まったということである。すなわち、明治5年(1872)11月18日に、この行法寺に小学校が開校した。それが、現在の船橋小学校の始まりである。

さて、寺町から覚王寺の横を通って、本町通りに戻るとする。途中、横丁の雰囲気があるが、最近は裏道として使っている人がいるせいか、本町通りへ出る道は車の往来も割りと多い。

<寺町から本町通りへ>

Teramachi_1

本町通りに出て、角の川奈部書店のところで道を渡ると、突き当たりが公園になっている。この公園のある場所に、かつての船橋市役所があったそうだが、小生の記憶にない昔の話である。また、公園横に赤い鳥居の神社があるが、これは御蔵稲荷。そもそも公園が面している通りは、御殿通りというが、これは船橋御殿があったことにちなんでいる。船橋御殿のあった御殿地には、東照宮が建っていて、徳川家康がかつて鷹狩の際に使用したという御殿の跡地であることを象徴している。この件については、以前も述べた。また詳しくは「古城の丘にたちて」HP(http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_6_0.htm#tomishi)をご覧いただきたい。

<御殿地にたつ東照宮>

Toushougu

御蔵稲荷は、その名の通り、その場所に御蔵、つまり郷蔵があったことを示している。すなわち、御蔵稲荷のある場所には、江戸前期の正保年間に、飢饉、凶作に備え穀物を蓄えておく郷蔵が建てられていたために、そう名づけられた。今は、隣もビルとなり、商業地区の一角にあって、赤い鳥居で目立つが、小さな神社である。郷蔵そのものは、水害のため損壊してしまい、なくなっている。ただ、ここにあった御蔵の備蓄穀物によって、延宝、享保、天明の飢饉でも餓死したものはいなかったと伝えられている。

<御蔵稲荷>

Okurainari

御蔵稲荷の前の御殿通りを東へ進むと、まもなく海老川にでる。御蔵稲荷から東へ進んだ地点では、万代橋(よろづよばし)という、橋がかかっている。以前は、よく氾濫していたが、今はコンクリートで護岸された川幅の狭い、街中の小さな川というイメージである。海老川には、現在万代橋のほか、そのすぐ南の本町通り(旧佐倉道:成田街道)には海老川橋があり、その他海老川には船橋橋、八千代橋、富士見橋、八栄橋などいろいろな名前の11の橋があり、あわせて13の橋がかかっている。

<海老川にかかる海老川橋>

Ebigawa

本町通りへ川沿いに戻り、海老川橋を渡って東へ行けば、船橋大神宮は目の前となる。この海老川橋には、「船橋地名発祥の地」の文字が看板として掲げられているが、海老川(実際は夏見潟・夏見入江)に船を連ねて橋としたという日本武尊の東征伝説の一つのエピソードが、船橋の地名の起こりといわれる。海老川は、昔海老がたくさん取れたために、そう名づけられたと小学校のときに教わったが、名前の由来は、それ以上のものを知らない。

船橋の夏見潟という入江は、中世末期まで存在したらしく、海老川下流、天沼などはその名残である。かつて、船橋大神宮の西側、現在京成大神宮下駅から北へ市場から夏見方面へ抜ける道は、夏見入江の水際とほぼ重なるようである。中世は、現在の道筋とはやや異なるであろうが、その辺に古道があり、国府台合戦のおりに夏見から大神宮の北側台地上の峰台を経由して里見軍が退却した道筋は、その入江の北側に沿って通る鎌倉街道と推定される。なお、大神宮の南側、現在の国道14号線の山側の道は、上総道である。要は、現在の海老川沿岸は入江であって橋がなく、通行できなかったはずで、大神宮北側の宮坂が切通し道として開通したのは、徳川家康の治世の頃といわれている。

大神宮と周辺の寺社については、また次回。

参考文献:『船橋地誌』 長谷川芳夫 崙書房出版 (2005)

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