船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋本町:西向地蔵から船橋大神宮へ)
前回、海神からスタートした船橋の寺社めぐり、今回は西向地蔵から。
前にも書いたが、ここは狭い範囲での「船橋宿」(正確には船橋は継場である)の宿はずれとでもいうべき、西のはずれにあって、いつまでかはよく分からないが、仕置場(処刑場)があった場所であるという。実はこの西向地蔵の西側には、かつて本海川(山谷澪)が船橋駅北側の天沼公園あたりから、水面をあらわにして流れていて、河口付近は江戸時代から漁船の船溜りとなっていた。現在、本海川は国道14号線の南以外は暗渠となっていて、かつての様子は分かりにくいが、西向地蔵の西側の南北に通っている道、国道14号線沿いの電話局付近からなべ三の西側、加藤医院の前を通り京成船橋駅方面に出る道は、その川の堤防沿いであった可能性があるという。西向地蔵自体、河原に作られたものであった。
<西向地蔵の堂>
現在、西向地蔵の北に接する本町通り(昔の佐倉道:成田街道の船橋本町一帯の通称)は、緩やかにカーブしているだけであるが、かつては明確にクランクになっていて、西から侵入してくる敵を防ぐように作られていた。同時に、西向地蔵の西側を本海川が南北に流れていたことから、やはりこの場所が船橋の中心を防備する境界であったと思われる。この西向地蔵の場所から本町通りをしばらく東へ行くと北へ入る小道があり、その道沿いに稲荷神社がある。この稲荷神社横の通りを、稲荷通りというそうだが、小生この通りを昔から歩いていたにも関わらず、その名前は本町通りとの角にある稲荷屋さんで最近聞くまで知らなかった。なぜか、この通りは北へ京成電車の踏み切りを越え、キリスト教のインマヌエル船橋教会のあたりまで飲み屋、風俗店が建ち並んでおり、夜はあまり通りたくない道であった。もとは、このあたりには、本海川に沿った川岸で、魚屋が集まっていたそうであるが、今はその面影は余りない。
<稲荷神社 自転車の左にあるのが「国威宣揚」の石柱>
なお、あまり目立たないが、陸軍中将の揮毫による「国威宣揚」と書いた「紀元二千六百年」の石柱が半ば地面に埋まった形である。
稲荷屋さんは、慶応二年創業というから、約140年の歴史をもつ老舗である。屋号は、やはり近所に稲荷神社があるからだと店の人から聞いた。小生、たまにここで食べることがあるが、あなご天丼などは、揚げたあなごが柔らかくとてもうまい。また、お昼のランチは値段も安いので、御得な気分である。
<老舗の稲荷屋>
それはともかく、ここから東はビルも立て込んできて、船橋の中心の感じが強まってくる。船橋市民文化ホールは、比較的新しいビルであるが、ここではコンサートや展示会などがよく行われる。本町通りだけでなく、交差する船橋駅前の通りにも、商店が軒を並べているが、昔は今よりも商店が密集していたように思われる。今は量販店やファーストフードの店などもあるが、そういう新しい店の建っている場所にも、かつては商店があった。
市民文化ホールの向かい側の一角は、何度か紹介した寺町である。まだ、古い船橋の面影を残している場所でもあり、覚王寺の参道が近隣住民の生活道路になっていて、道路がアパートの軒下を通っているのも、今時珍しい。この寺町には、お女郎地蔵がある、室町時代からの古刹、浄勝寺、漁師町らしく難陀龍王をまつる龍王堂のある覚王寺、因果地蔵尊の円蔵院、漁場争いで獄死した漁師惣代らの供養のための飯盛大仏で有名な不動院、 と今まで紹介してきた寺のほかに、浄勝寺の塔頭の一つから独立した専修院、浄土宗で正中の石碑のある最勝院、明治5年(1872)、船橋で初めての小学校教育が始まった、日蓮宗の行法寺がある。都合、現在は七つの寺があるが、かつては九つであったという。
<不動院の飯盛大仏>
今まであまり紹介していなかった浄土宗・専修院は、前述のように浄勝寺の一塔頭であったが、金蓮社類譽周公上人が室町時代、永正3年(1506)に開創したというが、本所霊山寺誌には浄勝寺・大潮(超)上人が寛永年間に開いたとされる。この専誉大潮(大超)上人は、徳川家康旧知の間柄であったといわれ、浄勝寺は天正19年(1591)に関東に入部してまもない徳川家康から御朱印十石を拝領し、芝増上寺の末寺となっている。専修院は浄勝寺の東南に隣接する形で、こじんまりと建っている。
<専修院>
また、同じ浄土宗の最勝院、ここには正中元年の年号の入った石碑がある。それは船橋小学校の北に二三の古い墓とともにあったのを、ここに移したものであるという。梵字三つの下に、正中元年の年号が刻まれているが、書体からみても、風化の度合いからみても、鎌倉時代のものとは思えない。筆者の想像では、船橋御殿地近くにあった安養寺という古くは律宗、のちに天台宗となった現存しない古寺に関連した正中年号の石造物がもともとあって、それが何かの事情で壊れたか、なくなってしまい、後から(江戸時代後期~明治くらいか)模造したものではないだろうか。この御殿地は、古くは船橋大神宮の宮司である富氏の屋敷があった場所であり、夏見潟という入江に面して、どうも湊があったか、商業・流通が行われ、それに船橋大神宮の別当寺と思われる安養寺の僧が関わっていたらしい。何か、そのあたりに、この石碑のオリジナルが関係していたように想像できる。移した時の記録などがあれば、もっと確かなことがわかるのだろうが、ちょっと謎である。
<最勝院>
<正中年号の碑>
寺町で紹介していなかった最後の寺、行法寺は、寺町の最南端に位置する寺で、すぐ南は国道14号線である。このあたりに来ると、すぐ近くを交通量の多い国道が通っており、国道沿いにはビルも建っている。昔は、漁師町も近い、海沿いの寺であったのだろう。
<行法寺>
この本堂は、寺町のほかの寺が新しくコンクリート製などで立て替えたのに対し、古い木造建築である。境内は、昔はもっと広かったように見える。この寺で特筆すべきは、船橋で小学校教育が、この場所から始まったということである。すなわち、明治5年(1872)11月18日に、この行法寺に小学校が開校した。それが、現在の船橋小学校の始まりである。
さて、寺町から覚王寺の横を通って、本町通りに戻るとする。途中、横丁の雰囲気があるが、最近は裏道として使っている人がいるせいか、本町通りへ出る道は車の往来も割りと多い。
<寺町から本町通りへ>
本町通りに出て、角の川奈部書店のところで道を渡ると、突き当たりが公園になっている。この公園のある場所に、かつての船橋市役所があったそうだが、小生の記憶にない昔の話である。また、公園横に赤い鳥居の神社があるが、これは御蔵稲荷。そもそも公園が面している通りは、御殿通りというが、これは船橋御殿があったことにちなんでいる。船橋御殿のあった御殿地には、東照宮が建っていて、徳川家康がかつて鷹狩の際に使用したという御殿の跡地であることを象徴している。この件については、以前も述べた。また詳しくは「古城の丘にたちて」HP(http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_6_0.htm#tomishi)をご覧いただきたい。
<御殿地にたつ東照宮>
御蔵稲荷は、その名の通り、その場所に御蔵、つまり郷蔵があったことを示している。すなわち、御蔵稲荷のある場所には、江戸前期の正保年間に、飢饉、凶作に備え穀物を蓄えておく郷蔵が建てられていたために、そう名づけられた。今は、隣もビルとなり、商業地区の一角にあって、赤い鳥居で目立つが、小さな神社である。郷蔵そのものは、水害のため損壊してしまい、なくなっている。ただ、ここにあった御蔵の備蓄穀物によって、延宝、享保、天明の飢饉でも餓死したものはいなかったと伝えられている。
<御蔵稲荷>
御蔵稲荷の前の御殿通りを東へ進むと、まもなく海老川にでる。御蔵稲荷から東へ進んだ地点では、万代橋(よろづよばし)という、橋がかかっている。以前は、よく氾濫していたが、今はコンクリートで護岸された川幅の狭い、街中の小さな川というイメージである。海老川には、現在万代橋のほか、そのすぐ南の本町通り(旧佐倉道:成田街道)には海老川橋があり、その他海老川には船橋橋、八千代橋、富士見橋、八栄橋などいろいろな名前の11の橋があり、あわせて13の橋がかかっている。
<海老川にかかる海老川橋>
本町通りへ川沿いに戻り、海老川橋を渡って東へ行けば、船橋大神宮は目の前となる。この海老川橋には、「船橋地名発祥の地」の文字が看板として掲げられているが、海老川(実際は夏見潟・夏見入江)に船を連ねて橋としたという日本武尊の東征伝説の一つのエピソードが、船橋の地名の起こりといわれる。海老川は、昔海老がたくさん取れたために、そう名づけられたと小学校のときに教わったが、名前の由来は、それ以上のものを知らない。
船橋の夏見潟という入江は、中世末期まで存在したらしく、海老川下流、天沼などはその名残である。かつて、船橋大神宮の西側、現在京成大神宮下駅から北へ市場から夏見方面へ抜ける道は、夏見入江の水際とほぼ重なるようである。中世は、現在の道筋とはやや異なるであろうが、その辺に古道があり、国府台合戦のおりに夏見から大神宮の北側台地上の峰台を経由して里見軍が退却した道筋は、その入江の北側に沿って通る鎌倉街道と推定される。なお、大神宮の南側、現在の国道14号線の山側の道は、上総道である。要は、現在の海老川沿岸は入江であって橋がなく、通行できなかったはずで、大神宮北側の宮坂が切通し道として開通したのは、徳川家康の治世の頃といわれている。
大神宮と周辺の寺社については、また次回。
参考文献:『船橋地誌』 長谷川芳夫 崙書房出版 (2005)
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