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2007.02.10

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋大神宮)

前回、海老川までたどり着いたが、今回はその先の船橋大神宮以東へ行ってみることにする。といっても、小生この辺りから余りにもフレンドリーな地域となるので、端折ってしまうかもしれない。

 

海老川は、今では沿岸に散歩コースなども作られ、市民の憩いの場になっている感もあるが、かつてはよく氾濫を起こす厄介な川であった。また海老川沿岸地域は土地が低く、海老川が一度荒れて水が出ると、よく冠水してしまうのは、市川における真間川流域と事情は同じであった。今では、どちらの流域も、護岸工事がなされ、堤防なども整備されて、かつてのような大規模な水害は起こらなくなっている。

 

<海老川にかかる万代橋から北を望む>

 

Yorozuyobashi

 

海老川橋から東進して正面に見える船橋大神宮は、言うまでもなく船橋を代表する神社であり、千葉県内でも有数の神社といっていいであろう。その船橋大神宮へ行く前に、万代橋を渡って東へ細い道を行けば、道沿いに古い商店が見られる。今では、滅多に見られなくなった駄菓子屋さんなどもある。実は、この辺り、正確には万代橋の東の筋ではなく、もっと北になるが、かつて太宰治が住んでいた場所になる。太宰治は、その住んでいた家の玄関脇に夾竹桃を植えていたのだが、それは今は船橋市民文化ホールの階段下に移植されている。

 

<太宰治が植えた夾竹桃と石碑>

 

Kyotikuto

 

なお、当時太宰治は、盲腸炎から腹膜炎を併発し、病身であったのを船橋へ移住して転地療養しており、船橋で健康を取り戻した。その際、あちこち散歩したようであるが、特に好んだのが前回紹介した御殿稲荷であった。その当時の太宰治の写真で、狐の像の頭が写っているものがあるが、これは御殿稲荷の境内の太宰治を写したものである。

 

話が少しそれたので、もとに戻そう。万代橋から細い道を通り、京成線を越えて暫く行けば、大神宮から市場方面へ抜ける道に出る。これを大神宮へ向けて、南に進むと、大神宮の鳥居と裏参道が見える。この大神宮の裏参道のところで、十字路となっており、南へ進めば千葉街道(昔の上総道)、東へ宮坂を上って進むと東金御成街道(前原で成田街道が分岐する、かつての佐倉道)となる。

 

<大神宮の裏参道横の十字路>

 

Daijinngushita

 

船橋大神宮は、別名意富比神社であり、『日本三代実録』の貞観5年(863)の記事に名の見える古社である。この意富比とは、太陽神をあらわすオホヒ(大日)の神であるといわれ、同じく太陽神、天照大御神を祀る伊勢神宮と同一視され、中世後期から船橋神明と呼ばれるようになり、転じて船橋大神宮と呼ばれるようになった。八坂神社や香取神社が、各地にある、店に例えればチェーン店なのに対し、船橋大神宮は、老舗の独立店舗ということになる。

 

<船橋大神宮の本殿>

 

Funabashidaijingu

 

しかし、船橋周辺の船橋大神宮への信仰は、絶大なものがある。初詣は、船橋だけでなく近隣の地域からも人が集まっているようである。小生は、初詣には鎌倉へ先ず行っているが、元旦の夕方や二日には大抵船橋大神宮にも参拝する習慣があって、それは長年続けている。前はお神楽もあるし、今は駐車場となっている場所でドンド焼きで古いお札などを焼き芋と一緒に焼くことができるとあって、それは正月の楽しみの一つであったが、今は古いお札も事前にチェックされ、関係ないものは一切焼くことができなくなった。お神楽の方は、今も行われ、正月恒例となっている。しかし、昔も今も、初詣客の多いことには変わりない。

 

<初詣客で賑わう境内~表参道>

 

Funabashihatsumoude2

 

この船橋大神宮は、戦国時代まで勢力を保った神官で豪族の富氏が宮司をつとめ、富氏はかつては大神宮と夏見入江によって隔てられた、砂洲上の御殿地に屋敷があって、その場所と大神宮を船で往復していたと思われる。なぜ、富氏がわざわざ入江の向こう側に屋敷を構えたかといえば、船着場などあって流通の集積場があり、商業活動に関与していたからと思われる。

 

また、大神宮には中世文書が多数保持されていたとのことであるが、戦国時代に富氏の手によって改竄された可能性が高く、千葉満胤の書状や「船橋御厨六ケ郷田数之事」という応長年間の文書(以下)などがある。

 

船橋大神宮文書 「船橋御厨六ケ郷田数之事」
一 下総国船橋御厨六ケ郷 田数之事
一 六郷本ハニ百町也
一 東船橋百六町六田大
一 西船橋九十三町三田小
  此内わける事
一 廿七町七田はん 湊郷
一 四十二町四田はん 夏見郷
一 廿三町一田小 金曾木郷
一 六郷六十町の時ハ
一 三十一町 東方
一 廿九町 西方 此内わける事
  八町三田三十分 湊郷
一 十三町一反はん十四分 夏見郷
一 七町一反はん四十八分 金曾木
一 十六町 宮本郷
一 十五町 たかね郷[米□崎/七□□]
 應長元年[辛/亥]十二月廿日

これを含め、現存するのは弘化4年(1847)に穂積重年が模写したものが多く、大量にあったらしい船橋大神宮文書は幕末の船橋戦争でほとんど焼失したらしい。上記の「船橋御厨六ケ郷田数之事」は船橋大神宮の領地拡大・保持のための根拠として、戦国時代に偽造されたという説があり、「六ケ郷」といっておきながら「湊郷」「夏見郷」「金曾木郷」「宮本郷」「たかね郷」の五つしか出てこない。ちなみに「たかね郷[米□崎/七□□]」とあるのは、高根郷で、米□崎は米ヶ崎、七□□は七くまで七熊のことであろう。また、金曾木は金杉である。いずれの地域にも神明社、ないしは船橋大神宮を分祀した意富比神社が存在している。偽文書かもしれないが、ある程度当時の集落地名などが正しく表現されているように思われる。文中、湊郷とあるのは、現在の湊町ではなしに、御殿地を含む本町一帯を示し、宮本郷というのは、古く五日市と呼ばれた船橋大神宮のお膝元である。

 

<初詣客で賑わう境内~本殿横>

 

Funabashihastumoude1

 

さて、船橋大神宮の宮司富氏は、徳川家康が関東入部の際に、地元の有力者として迎えたらしく、自分の屋敷を鷹狩のための船橋御殿として提供しているし、船橋大神宮自体が天正19年(1591)に家康から50石の社領を与えられている。家康との所縁は、それだけでなく、慶長19年(1614)に現在の宮坂を開いて東金御成街道を造成し、それに先立つ慶長17年(1612)に船橋御殿を建築したのは、家康の命を受けた伊奈忠政であるが、その父の伊奈忠次を奉行として、家康は慶長13年(1608)に船橋大神宮の本殿造営を行っている。その棟札には、以下のように書かれている。

 

    領主 征夷大将軍源朝臣家康
             奉行伊奈備中守忠次
  奉祈意富日皇太神宮一宇造営天下泰平武運長久諸願成就
                            添奉行杉浦五郎右門衛門
                            同 渥美太郎兵衛
    慶長一三戊申七月一八日

 

このように、家康が船橋大神宮を手厚く保護し、本殿の立替までしたのは、将軍お膝元の江戸に隣接した船橋一帯の地盤固めを通じて、関東での政治、経済、軍事の支配力を確立させる狙いがあったものと思われる。

 

家康が築いたインフラの元で、船橋は東金御成街道による流通、商業、あるいは御菜浦を背景に漁業が発達していった。東金御成街道は前原で分岐するまで成田街道と同じ道筋であり、成田参詣を目的とした人々も多く交通した。現在の本町通りは、江戸時代からの宿場町(本来は継場)として賑わい、いろいろな商店が立ち並んで、江戸時代には八兵衛という宿場の飯盛女までいた。今でも、由緒有り気な古い商店がビルの間に散在している。

 

<本町通りの古い商店(廣瀬直船堂)>

 

Hirosechokusenndou

 

なお、船橋大神宮で面白いものが一つ。それは、奉納相撲の土俵である。この奉納相撲も、家康に結び付けられて伝承されており、天正18年(1590)徳川家康が鷹狩りで船橋御殿に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、家康は大変喜び、以来これを神社に奉納するようになったという。その家康本人が没して船橋に来なくなってからも、江戸幕府が勧進元で奉納相撲は長く続けられ、戦後の混乱期一時中断していたが、昭和25年(1950)に再開された。

 

<船橋大神宮の土俵>

 

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他にも、船橋大神宮には、明治13年(1880)に点灯されたという灯明台(県指定有形民俗文化財)があるが、何回か中に入ったことがある。三階建てで、一階が宴会でもできそうな和室となっているほか、二階部分にも畳がしかれ、階段が余りに急であったことが印象に残っている。
明治以前に既に灯明台はあったが、明治維新時の船橋戦争で失われた。したがって、現存するものは正確には、明治時代に再建されたものである。

 

<船橋大神宮の灯明台>

 

Funadashitoudai

 

この灯台、以前は正月三が日には公開されていたが、今年正月三が日に行ったにも関わらず、開いていなかった。時間が限られているのかもしれないが、残念。したがって、灯明代の画像も、小生がとったものではなく、Wikipediaから借用したもの。

 

長くなったので、この辺で。大神宮の周辺、宮本の辺りにも、古い社寺があるので、それについては後日紹介する。

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