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2007.02.25

船橋市街地の寺社を訪ねて(船橋宮本から東船橋へ)

前回は西福寺、了源寺、東光寺を紹介した。この西福寺、了源寺、東光寺のある宮本から東船橋にかけては、江戸時代には五日市村で、長く五日市といわれた地域であった。さらに、了源寺の南東約200mの現在宮本小学校がある辺りは、南北に通り、東へ上総道(今の国道14号線にほぼ重なる)に合流する鎌倉街道に接する、小池千軒という集落が中世にはあり、室町時代末ごろには五日市の中心として繁栄した。

<了源寺の筆子塚~明治前期の住職山名恂龍のもの>

Ryougenji1

前にも述べたように、かつて船橋の中央部、現在の海老川下流域には夏見入江(潟)といわれる入江があり、船橋大神宮の西側低地は入江の一部であった。ゆえに、鎌倉街道といわれる古道は、夏見から今の市場辺り(ここには城の腰という地名があり、船橋城があったとされる)に南下し、さらに峰台の台地にのぼって、東金御成街道(佐倉道)を越えて、砂山茂侶浅間神社や真名井のある宮本中学校の西側、宮本小学校の東に接する場所を通って、東へ花輪方面に抜ける上総道に合流していた。

実は、上記の峰台の台地上には、戦国時代までは、慈雲寺という寺があった。今も、慈雲寺はあるが、往時の規模ではなく、本堂と庫裏、少しばかりの墓地が隣接する小さな寺になっている。最近の研究によれば、第2次国府台合戦で敗北した里見軍は、市川から海神を通り、夏見の薬王寺付近から南に城ノ腰を通って現在、峰台小学校のある峰台の慈雲寺方面へ敗走していき、しんがりは慈雲寺を拠点に追撃する後北条軍を迎え撃ったという。この慈雲寺は、大峰山慈雲寺といい、曹洞宗の寺である。弘安2年(1279)無学祖元の創建とつたえられ、当初臨済宗であった。戦国時代には里見氏の祈願寺となっていたようで、鐘楼にあった鐘は里見氏が寄進したものであったという。その鐘は第2次国府台合戦の際に、里見義弘が陣鐘として持ち出し、国府台城の太日川(江戸川)に張り出した木の枝につるしたところ、枝が折れ、鐘は川に落ちてしまった。その鐘が落ちた川の淵は、鐘ヶ淵と呼ばれたという伝説が残っている。

永禄2年(1564)の第2次国府台合戦で焼けるまでは、峰台の台地上に仏殿、法堂、書院、鐘楼などを持つ大きな寺であったが、合戦で焼失し、現在地、すなわち峰台の台地南の低地に北条氏政によって再建されたという。しかし、再建後の慈雲寺は荒れ、無住になり、船橋戦争で焼失した。現在の寺はその後再建されたものである。

<慈雲寺>

Jiunji

峰台には、慈雲寺があっただけでなく、最近の発掘調査では陶磁器などが出土し、中世の館もしくは集落があったと推測されている。昭和15年(1940)9月8日の新聞報道では、峰台の慈雲寺旧境内地から永楽通宝など千三百枚ほどの古銭が発掘されており、戦国動乱期に埋められたらしい。どうも、船橋周辺には里見氏に関連した伝説があり、慈雲寺周辺に里見氏に加担した武士がいたものか。現在の京成津田沼駅に近い鷺沼にいたらしい鷺沼源吾なる武士は、国府台合戦の折、里見方として出陣したと言われる。船橋にも、舟橋左馬之助唯久という里見氏家臣がいたという伝説もある。

この峰台に中世城館があったかどうかは、まだ結論が出ていないが、峰台の西側の谷は自然の谷であるが、堀のように使用されたと思われ、一部人工の掘削跡も見られるという。中世では寺が城代りに使用されることは多く、里見軍が第2次国府台合戦で敗走途中で、この峰台を拠点に追撃する後北条軍を迎撃したのも、不自然ではない。

峰台は、明治維新の際の船橋戦争でも戦闘が行われたようで、現在も路傍に幕府脱走軍の戦死者の墓がある。その峰台の台地を鎌倉街道にそって南に下れば、東金御成街道との交点付近に日枝神社がある。この神社は、東金御成街道から参道がのびているが、社殿東下に寛文2年(1662)の地蔵像念仏塔がある。この神社で珍しいのは、古木に寄り添うように建つ青麻権現の石祠である。石祠の表面が剥離していて、「青」という字が判読できる程度になっている。実に紛らわしいのであるが、この日枝神社の近くに「浅間前」というバス停があり、東金御成街道の南に茂侶神社、通称砂山浅間神社があるが、バス停からは少し離れた場所にある。

<日枝神社>

Hiejinjya

その茂侶神社とは、鎌倉街道の東、現在宮本中学校のある場所の南に隣接する、砂山という場所にある。ここは、中世において南には上総道、その向こうは海という台地端で、かつて花輪城があった。その手前、宮本中学校の西に隣接する一角に真名井といわれる伝説の井戸跡がある。

<真名井>

Namanoi

今は掘抜き井戸のようになっているが、本来は湧き出す泉のようであったのであろう。また、「真名井大師」という弘法大師の祠があるが、「真名井大師」とは中世の街道にしばしば残る弘法大師の伝説が、恐らくは高野聖などによって語られ、伝承したものと思われる。

<真名井大師>

Manadaishi

さて、「茂侶神社縁起」によれば、

「当茂侶神社の起源は古く、延喜式神明帳に「下総国葛飾郡二座茂侶神社・意富比神社」とあり、今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されていたのであります。愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び・安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました。
摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り、御嶽神社と申して居ります。
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日、下総国従五位下茂侶神に従五位上を授くとありました。
陽成天皇の元慶三年九月二十五日、下総国正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。西北にある湧水は「天の真名井」と称する当社の神泉であります。江戸名所図会によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引若松を選び上納する旧例とあります。古来例祭は旧暦六月一日に行います。」とある。

縁起にあるように、茂侶神社は、祭神は木花開耶姫命、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。

中世の船橋においては、市川方面から千葉へ行くには、夏見の台地を薬王寺から南下して、城ノ腰を通り、峰台の台地を通って、砂山の西側から海岸沿いに鷺沼、馬加と進む鎌倉街道が一般的なルートであった。砂山の下の低地には、かつて古池という大きな池があり、それが涸れて小池となった中世末期において池端の街道沿いに「小池千軒」という集落が存在していた。この茂侶神社の南側、石段を下りた場所に御手洗の池としてあった 「古布多の池」 の石碑がある。「古布多」とかいて「こぶた」と読む。何を意味するか、よく分からないが、「子を負ぶった」が短くなったとかいう説がある。池の名前では、柏のほうにコンブクロの池というのがあったり、公論坊の池とか、変わった名前のものが千葉県には多い。今は、「古布多の池」の池の水は涸れているが、かつては水をたたえていたといい、これも小池の名残りであろう。

<茂侶神社>

Morosengen2

この茂侶神社は、前述のように、花輪城という城があった場所であるが、堀跡がかろうじてある程度で、今は遺構が殆ど残っていない。その花輪城という城の性格は、南に上総道、また鎌倉街道がすぐ西を通っていることから、交通の要衝をおさえるものに他ならないが、誰がいつ築城したかなど、詳しい史実が明らかになっていない。

船橋市街地の寺社を訪ねて、ここまで来たが、これで終わりとする。なお、この内容は、再度整理し、当ブログで紹介しなかった寺社も加えて、後日再度発表したい。

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コメント

大変参考になりました。敬意を表します。(市場1丁目在住)

投稿: 鎌田 敬一郎 | 2010.05.08 07:19

とても参考になりました。大変な労力を掛けられているご様子。敬意を表します。(市場1丁目在住)

投稿: 鎌田 敬一郎 | 2010.05.08 07:24

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