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2007.03.30

船橋の「橋」

船橋市民といっても、今は単身赴任で愛知県にいる身、それももはや1年半となり、仕事の関係で頻繁には帰ることができない。仕事がひと段落した現在、そろそろ異動の話が出ないかと思っているのだが、いっこうに話がない。むしろ、先日行われた会社の部課長懇親会では、寮の食堂でよく同じ時間帯に食べていた、関西へ転出する人から挨拶を受けてしまう有様。車を走らせ、常滑まで行って「なぜだ!」と海に叫んでみても、帰ってくるのは波の音だけである。

<常滑の海>

Tokonameumi_1

子供の頃、船橋といえば、ヘルスセンターや競馬などのギャンブルで有名で、何か遊び人の町のようで、たしかに柄も悪かった。しかし、しばらく離れていると、どちらかといえば嫌いであった船橋駅周辺のごみごみした雑踏や、どこか寂しげな本町通り、今は東船橋駅が出来て人家も増えたが、花輪から中野木、前原にかけての少し田舎じみた地域などが、懐かしく思えるのだから不思議である。

<船橋大神宮坂下の交差点>

Daijinngushita_1

この船橋という地名は古く、鎌倉時代からあったという。お隣の津田沼が、谷津の「津」、久々田(菊田)の「田」、鷺沼の「沼」を組み合わせた、明治の新地名であるのと対照的だ。知らない人は、津田沼という沼があると思っている人も、もしかしたらいるかもしれない。だが、船橋とはどんな地名なのであろうか。その船橋という地名のおこりについては、船を連ねて橋としたことから来ているのは、間違いない。それが、今の船橋のどこかといえば、海老川河口付近といわれている。

<海老川橋にある「船橋地名発祥の地」のプレート>

Funabashi

船橋市のHPによれば、

「伝説では、 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、海老川を渡るために船で橋を作ったのが地名の由来とされている。実際、船橋の地名が世間で言われるようになったのは鎌倉時代とされており、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に『船橋』という地名が出てくる。地名の由来は現在でも定かでは無いが、最も有力な説として、市内を流れる海老川(現在よりも水量、川幅があったとされ、現在の陸地の一部には夏見干潟と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていたという)に船を並べ、その上に板を渡し橋を造った事に由縁するといわれている。※そのような船で造られた橋の事を「船橋」と言う。 」とある。

<海老川橋を北側から望む>

Ebigawa

もし、文中にある入り江、つまり夏見入江に架橋できれば、中世の人々も交通の便利が良かったであろうが、実際には海神から夏見へ、夏見の日枝神社、薬王寺辺りから南下し、現在の市場を通って、峰台にいたる鎌倉街道が使われた。

<夏見入江と現在の船橋地図を重ねると>

Natsumigata

なお、船橋大神宮の西側、現在京成大神宮下駅から北へ市場から夏見方面へ抜ける道は、夏見入江の水際とほぼ重なるようである。現在の海老川の河畔からは100mも離れているが、当時と水域が多少ずれているにしても、それだけ入江が幅広かったということであろう。国府台合戦のおりに夏見から大神宮の北側台地上の峰台を経由して里見軍が退却した道筋が、まさに、その入江の北側に沿って通る鎌倉街道であると推定されている。つまり、近世、おそらく江戸開府まで、海老川河口付近には、きちんとした橋がなく、大神宮神官で船橋の豪族であった富氏も、夏見入江の東側に大神宮、入江南西部の御殿地に屋敷を構えながら、大神宮と屋敷との往復には船を使っていたようである。

<万代(よろずよ)橋から海老川を望む>

Yorozuyobashi_1

では、なぜ「船橋」という臨時の橋や渡し船による往来にたより、ちゃんとした橋を架けなかったのであろうか。それは現在の海老川の川幅よりも、かつての夏見入江の東西の幅が広く、また中世においてはそれだけ大規模な架橋を行うほどの財力、政治力、軍事力をもった豪族が当地にいなかったためといわれている。

しかし、船橋は湊を背景に中世では栄えた地域である。実際、御殿地に隣接(あるいは御殿地の一部といっていいか)する御蔵稲荷の近くや、峰台にあったという慈雲寺の境内地からは、埋蔵銭が大量に発見されていおり、戦乱に際して当時の有徳人(富豪)が隠したのではないかとされている。戦国時代でも、後北条氏の勢力が船橋地域を支配したのに際して、船橋を拠点として近藤万栄という人物が商業・流通活動を行っていたことが文書でも明らかになっている。このように、船橋には富の匂いがプンプンするのである。それをあえて架橋しなかったのは、お金がなかったというのではなく、軍事目的ではないかと小生推量するのだが、如何に。

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2007.03.25

船橋市街地の寺社を訪ねて(補追:海神念仏堂など)

今まで、「船橋市街地の寺社を訪ねて」と題して、船橋は海神にはじまって、船橋大神宮を経て宮本の小生がフレンドリーな地域の茂侶神社まで廻り、拙くもそれら寺社の説明をしてきた。しかし、海神三叉路の大覚院(別名赤門寺)から、JRの跨線橋を越えた東側の一角にある寺社の説明がおろそかになった。

<大覚院の赤門>

Akamon

実は、船橋の地元の人ならよくお分かりと思うが、大覚院から東へまっすぐ行ったことろにある跨線橋は、殆ど自動車専用であって、これを歩いて渡っている人は最近見たことがない。昔は自転車も走っていたが、今のように交通量が多くなるとなかなか徒歩などでは渡ることができない。そこで、筆者は一旦線路沿いに北へ回り、地下道をくぐって、船橋市街地の中心へ向かっていった。

<大覚院から東の地図>

Kaijinchizu

大覚院の東、JRの跨線橋を越えてすぐに、行徳街道が合流するあたり、海神で重要な寺である念仏堂がある。今回、実際には跨線橋をそのまま東進した訳ではないので、念仏堂を素通りしてしまったのである。

海神念仏堂は、行徳街道沿いにあるが、入口になにやら古い石仏群がある。そのうち、綺麗な彫刻の二基の石仏があり、右は「奉納地蔵尊 海神村」と書かれた享保5年(1720)の地蔵立像、左が寛延2年(1749)の庚申塔である。庚申塔のほうは、青面金剛像の両脇に童子が立っている比較的珍しい図柄である。この念仏堂は、墓地に明暦3年(1657)の墓もあるため、創建は不明ながらかなり古いといわれる。また、元禄14年(1701)には江戸神田の商人高麗屋佐治右衛門が観音堂を寄進している。なお、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、加藤清正が連行した現地朝鮮の人の子孫であるという。この念仏堂は、芝増上寺の祐天上人によって教化され、浄土宗の寺院として整備されたものである。

<念仏堂入口にある石仏>

Nennbutudouiriguchi2

<念仏堂>

Nenbutsudou

なお、この念仏堂には、本尊として木造阿弥陀如来立像があるが、これは鎌倉時代作(ただし光背と台座は室町期)という古仏であり、かつて船橋海神に存在した天摩山善光寺という古寺にあったが、善光寺が廃寺となり、一時小金の東漸寺に移されていたが、高麗屋佐治右衛門がこの念仏堂に納めたと伝えられている。善光寺は平将門の頃の創建とつたえらている。その本尊は容姿端麗で美術的にも価値のあるものということで、船橋市の有形文化財に指定されている。

<観音堂>

Kannonndou

それに、観音堂のかたわらには、「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれた道標がある。これは本来は行徳街道と成田街道(佐倉道)の分岐点にあったものであるが、元禄7年(1694)10月26日に海神講仲間が建てた。市内最古の道標である。成田街道沿いの道標は、例えば前原の東金御成街道との交差点にもあり、それは明治12年(1879)のものであるが、その他の成田街道沿いの道標もこれより古いものはないという。

そのほか、この念仏堂では、戊辰戦争の戦死者で、新政府軍、福岡藩士の小室弥四郎と従卒の「筑州人 彦市、喜市、勝平」を合葬した、都合四名の墓がある。

<福岡藩士の小室弥四郎と従卒の墓>

Hukuokahansi

また、成田街道(佐倉道)に戻って、東へ進むと、右手に前に紹介した海神の地蔵院がある。このは真言宗豊山派の寺であるが、勝軍地蔵をまつっている。しかし、看板にあるように、今は水子供養などをやっているようである。派手な看板と対照的に、境内は静かで、やたら地蔵が多い。

<地蔵院の看板>

Jizouinkannbann

<地蔵院>

Jizouin_1

さらに東へ510mほど進むと、日枝神社があるが、夏見にも宮本にも日枝神社があるので、前にはこの神社に触れなかった。この海神の日枝神社、地元では山王様と呼ばれ親しまれている。このあたりはかつて山谷と呼ばれた地域であるが、山谷集落が出来た頃にこの日枝神社が創建されたらしい。本殿の建物は、寛政12年(1800)に書かれた記録の様子、屋根は茅葺、四尺五寸四面、桁下一丈、南向とあり、その後の明治42年(1909)の記録にも合致する。そして大正期に改修された。面白いことに、この神社の獅子、手水鉢には「瀧口助左衛門」の名前が刻まれている。しかし、手水鉢は文政3年(1820)のもの、獅子は明治35年(1902)と82年の隔たりがある。これは同一人物とは考え難く、代々襲名していたか、獅子は本来は手水鉢と同じ頃奉納されたが、壊れたか何かで明治35年に再建され、もとの奉納者の名前を刻んだかどちらかであろう。

<海神の日枝神社>

Hiejinjya2

この神社の境内の一角には、石祠、庚申塔が集められているが、字を彫っただけとか、浅いレリーフのものばかりである。

ちなみに、海神の山谷は漁師町と並んで船橋の漁業を支えた地域で、祭りも昔はさかんであった。この日枝神社でも大きな神輿が出る祭りが盛大に行われた時期があったが、火事・喧嘩などの不祥事のために、今は下火となって、三年に一回子供神輿がでる祭りとして姿を変えている。

<境内に集められた石祠、庚申塔>

Hiejinnjyakousin

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2007.03.11

徳川家康と知多半島(番外2:桶狭間合戦後、徳川家康はいかに岡崎に戻ったか)

昨日も出勤。最近、どうも忙しく、欲求不満が溜まっている。先週、手賀沼南岸の鷲野谷の歴史散策に行って、大分解消されたのだが、会社が始まると来年度の計画や何やらで頭の痛いことばかりである。

そこで、今日は、久しぶりに知多半島のどこかに行ってみようかと思い、朝食を喫茶店ですませ、住んでいる武豊から国道247号線を南下し、河和方面へ車を走らせた。どうも頭がすっきりせず、暫くハンドルのおもむくままというか、気の向くままに走りながら考えた。なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。既に「徳川家康と知多半島」を書き始めて大分たつというのに、この答えが自分のなかに明確になかった。前回まで、大高城への兵糧入れと丸根砦攻略まで書いたのに、すっかり筆が止まったまま。忙しいというのもあるが、明確に自分で説が唱えられなかったからというのが、実際のところであった。

それで、前から何度も歩いて、大体のところが分かっていた、「船橋市街地の寺社を訪ねて」などという記事を5回にわたって書いてしまった感がある。勿論、それはそれで書きたかったことなのであるが。

いつの間にか、名鉄の河和口駅前を通り過ぎ、ふと左の海面を見ると朝の光のなかを水鳥がたくさん浮かんでいる。時志観音も例の戸塚ヨットスクールも過ぎ、河和の駅の近く、道が左右に分岐するところまで来た。ここまで来て、ふと美浜町の図書館に行って何か本でも調べてみるかと思い、右折して河和駅を過ぎて、役所のところで右折し、美浜町の図書館へ。最初から、そうする気であれば、国道を布土の橋のところで右に入り、心月斎の脇を通って、山道を通っていけば近いのだが、布土は道が狭いから、まあ良いか。

<美浜町生涯学習センターの1階ホールに展示されていた生け花>

Ikebana

美浜町の生涯学習センター(図書館を併設している)に着いたが、まだ8時半である。開館時間まで30分も時間がある。生涯学習センターのホールにいると、ご婦人方が生け花を整えていた。開館まで間があるので、ブラブラしていると、戦国知多年表という冊子が置いてあったので、手にとって見た。非常に興味深く、早速買ってしまった。もう9時を過ぎたが、いっこうに図書館が開く様子がない。聞けば、図書館は閉館なのだそうだ。それでは、常滑の図書館に行ってみようかとも思ったが、常滑の図書館には徳川家康関連の書籍が少ない。阿久比町なら多いが、阿久比まで行くのはここからでは少々遠い。それで、武豊にとりあえず戻ることにした。

武豊にもどろうとして、例の心月斎の脇にでる山道へ。しかし、右折:武豊の表示が見えているのに、どうも素直に帰る気がしない。それで真直ぐ行けば、野間の方へ出る。そうだ、野間大坊へ久しぶりに行ってみようと思い、一路上野間へ行く。

<野間大坊、大御堂寺根本堂>

Nomataibou1

野間大坊の本殿の前でぼんやりしていると、お寺の方 住職が声をかけて来た。年配の、お坊さんではないように見える(第一髪をそっていない)が、お寺の関係者であることは間違いない。 2007.03.12削除、以下「お寺の人」、「老人」を住職に変更 失礼しました。水野住職でした。

この本殿は何年前のものか聞くと、四百年前のものだという答え。メンテナンスするのに、一坪一千万円かかるといっていたが、「百何十坪もあるのに、あなた十億だよ、どうするかね」とのこと。「どうするかね」といわれても、小生にはどうにもなりません。この水野住職、意外に歴史に詳しいらしく、自然と話は戦国時代の話へ。知多半島の大部分は水野氏が支配していて、三河の松平も水野あってのものである。知多で水野以外は、大野の佐治と、河和の戸田、師崎(羽豆崎)の千賀くらいなもの。戸田はしまいには水野にやられてしまって、水野に随った。水野が強いのは、亀崎に稲生水軍を持っていたからね、それで東浦を支配したんだなどと言っていた。野間大坊の鐘も、何かの戦い(住職はその名前を言っていたが失念した)で敵に持っていかれた云々。

やがて、名古屋からの団体さんという集団が来て、住職はその案内へ。小生、「知多半島は殆ど水野」というのを改めて聞くと新鮮であったが、「水野が強かったのは水軍を持っていたから」という住職の言葉が印象に残った。

<水野住職から話を聞いた野間大坊の本殿>

Nomataibou

そして、武豊に帰った小生、いつものようにJAへ行くと、時間はまだ10時前で、いつもの魚屋さんが来ていた。今日は珍しく、奥さんと一緒に商売をしている。見ると、生きた蛸が売られていた。

待てよ、家康は大高から海を通って南下し、どこかで上陸して成岩まで行き、常楽寺で休憩後、やはり海路三河に戻ったのでは、全部陸上を行ったのではどこかで織田勢に遭遇したはずである。そのように、ようやく思い至った。

<JAで売られていた蛸>

Tako

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