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2007.03.11

徳川家康と知多半島(番外2:桶狭間合戦後、徳川家康はいかに岡崎に戻ったか)

昨日も出勤。最近、どうも忙しく、欲求不満が溜まっている。先週、手賀沼南岸の鷲野谷の歴史散策に行って、大分解消されたのだが、会社が始まると来年度の計画や何やらで頭の痛いことばかりである。

そこで、今日は、久しぶりに知多半島のどこかに行ってみようかと思い、朝食を喫茶店ですませ、住んでいる武豊から国道247号線を南下し、河和方面へ車を走らせた。どうも頭がすっきりせず、暫くハンドルのおもむくままというか、気の向くままに走りながら考えた。なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。既に「徳川家康と知多半島」を書き始めて大分たつというのに、この答えが自分のなかに明確になかった。前回まで、大高城への兵糧入れと丸根砦攻略まで書いたのに、すっかり筆が止まったまま。忙しいというのもあるが、明確に自分で説が唱えられなかったからというのが、実際のところであった。

それで、前から何度も歩いて、大体のところが分かっていた、「船橋市街地の寺社を訪ねて」などという記事を5回にわたって書いてしまった感がある。勿論、それはそれで書きたかったことなのであるが。

いつの間にか、名鉄の河和口駅前を通り過ぎ、ふと左の海面を見ると朝の光のなかを水鳥がたくさん浮かんでいる。時志観音も例の戸塚ヨットスクールも過ぎ、河和の駅の近く、道が左右に分岐するところまで来た。ここまで来て、ふと美浜町の図書館に行って何か本でも調べてみるかと思い、右折して河和駅を過ぎて、役所のところで右折し、美浜町の図書館へ。最初から、そうする気であれば、国道を布土の橋のところで右に入り、心月斎の脇を通って、山道を通っていけば近いのだが、布土は道が狭いから、まあ良いか。

<美浜町生涯学習センターの1階ホールに展示されていた生け花>

Ikebana

美浜町の生涯学習センター(図書館を併設している)に着いたが、まだ8時半である。開館時間まで30分も時間がある。生涯学習センターのホールにいると、ご婦人方が生け花を整えていた。開館まで間があるので、ブラブラしていると、戦国知多年表という冊子が置いてあったので、手にとって見た。非常に興味深く、早速買ってしまった。もう9時を過ぎたが、いっこうに図書館が開く様子がない。聞けば、図書館は閉館なのだそうだ。それでは、常滑の図書館に行ってみようかとも思ったが、常滑の図書館には徳川家康関連の書籍が少ない。阿久比町なら多いが、阿久比まで行くのはここからでは少々遠い。それで、武豊にとりあえず戻ることにした。

武豊にもどろうとして、例の心月斎の脇にでる山道へ。しかし、右折:武豊の表示が見えているのに、どうも素直に帰る気がしない。それで真直ぐ行けば、野間の方へ出る。そうだ、野間大坊へ久しぶりに行ってみようと思い、一路上野間へ行く。

<野間大坊、大御堂寺根本堂>

Nomataibou1

野間大坊の本殿の前でぼんやりしていると、お寺の方 住職が声をかけて来た。年配の、お坊さんではないように見える(第一髪をそっていない)が、お寺の関係者であることは間違いない。 2007.03.12削除、以下「お寺の人」、「老人」を住職に変更 失礼しました。水野住職でした。

この本殿は何年前のものか聞くと、四百年前のものだという答え。メンテナンスするのに、一坪一千万円かかるといっていたが、「百何十坪もあるのに、あなた十億だよ、どうするかね」とのこと。「どうするかね」といわれても、小生にはどうにもなりません。この水野住職、意外に歴史に詳しいらしく、自然と話は戦国時代の話へ。知多半島の大部分は水野氏が支配していて、三河の松平も水野あってのものである。知多で水野以外は、大野の佐治と、河和の戸田、師崎(羽豆崎)の千賀くらいなもの。戸田はしまいには水野にやられてしまって、水野に随った。水野が強いのは、亀崎に稲生水軍を持っていたからね、それで東浦を支配したんだなどと言っていた。野間大坊の鐘も、何かの戦い(住職はその名前を言っていたが失念した)で敵に持っていかれた云々。

やがて、名古屋からの団体さんという集団が来て、住職はその案内へ。小生、「知多半島は殆ど水野」というのを改めて聞くと新鮮であったが、「水野が強かったのは水軍を持っていたから」という住職の言葉が印象に残った。

<水野住職から話を聞いた野間大坊の本殿>

Nomataibou

そして、武豊に帰った小生、いつものようにJAへ行くと、時間はまだ10時前で、いつもの魚屋さんが来ていた。今日は珍しく、奥さんと一緒に商売をしている。見ると、生きた蛸が売られていた。

待てよ、家康は大高から海を通って南下し、どこかで上陸して成岩まで行き、常楽寺で休憩後、やはり海路三河に戻ったのでは、全部陸上を行ったのではどこかで織田勢に遭遇したはずである。そのように、ようやく思い至った。

<JAで売られていた蛸>

Tako

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