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2007.03.25

船橋市街地の寺社を訪ねて(補追:海神念仏堂など)

今まで、「船橋市街地の寺社を訪ねて」と題して、船橋は海神にはじまって、船橋大神宮を経て宮本の小生がフレンドリーな地域の茂侶神社まで廻り、拙くもそれら寺社の説明をしてきた。しかし、海神三叉路の大覚院(別名赤門寺)から、JRの跨線橋を越えた東側の一角にある寺社の説明がおろそかになった。

<大覚院の赤門>

Akamon

実は、船橋の地元の人ならよくお分かりと思うが、大覚院から東へまっすぐ行ったことろにある跨線橋は、殆ど自動車専用であって、これを歩いて渡っている人は最近見たことがない。昔は自転車も走っていたが、今のように交通量が多くなるとなかなか徒歩などでは渡ることができない。そこで、筆者は一旦線路沿いに北へ回り、地下道をくぐって、船橋市街地の中心へ向かっていった。

<大覚院から東の地図>

Kaijinchizu

大覚院の東、JRの跨線橋を越えてすぐに、行徳街道が合流するあたり、海神で重要な寺である念仏堂がある。今回、実際には跨線橋をそのまま東進した訳ではないので、念仏堂を素通りしてしまったのである。

海神念仏堂は、行徳街道沿いにあるが、入口になにやら古い石仏群がある。そのうち、綺麗な彫刻の二基の石仏があり、右は「奉納地蔵尊 海神村」と書かれた享保5年(1720)の地蔵立像、左が寛延2年(1749)の庚申塔である。庚申塔のほうは、青面金剛像の両脇に童子が立っている比較的珍しい図柄である。この念仏堂は、墓地に明暦3年(1657)の墓もあるため、創建は不明ながらかなり古いといわれる。また、元禄14年(1701)には江戸神田の商人高麗屋佐治右衛門が観音堂を寄進している。なお、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、加藤清正が連行した現地朝鮮の人の子孫であるという。この念仏堂は、芝増上寺の祐天上人によって教化され、浄土宗の寺院として整備されたものである。

<念仏堂入口にある石仏>

Nennbutudouiriguchi2

<念仏堂>

Nenbutsudou

なお、この念仏堂には、本尊として木造阿弥陀如来立像があるが、これは鎌倉時代作(ただし光背と台座は室町期)という古仏であり、かつて船橋海神に存在した天摩山善光寺という古寺にあったが、善光寺が廃寺となり、一時小金の東漸寺に移されていたが、高麗屋佐治右衛門がこの念仏堂に納めたと伝えられている。善光寺は平将門の頃の創建とつたえらている。その本尊は容姿端麗で美術的にも価値のあるものということで、船橋市の有形文化財に指定されている。

<観音堂>

Kannonndou

それに、観音堂のかたわらには、「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれた道標がある。これは本来は行徳街道と成田街道(佐倉道)の分岐点にあったものであるが、元禄7年(1694)10月26日に海神講仲間が建てた。市内最古の道標である。成田街道沿いの道標は、例えば前原の東金御成街道との交差点にもあり、それは明治12年(1879)のものであるが、その他の成田街道沿いの道標もこれより古いものはないという。

そのほか、この念仏堂では、戊辰戦争の戦死者で、新政府軍、福岡藩士の小室弥四郎と従卒の「筑州人 彦市、喜市、勝平」を合葬した、都合四名の墓がある。

<福岡藩士の小室弥四郎と従卒の墓>

Hukuokahansi

また、成田街道(佐倉道)に戻って、東へ進むと、右手に前に紹介した海神の地蔵院がある。このは真言宗豊山派の寺であるが、勝軍地蔵をまつっている。しかし、看板にあるように、今は水子供養などをやっているようである。派手な看板と対照的に、境内は静かで、やたら地蔵が多い。

<地蔵院の看板>

Jizouinkannbann

<地蔵院>

Jizouin_1

さらに東へ510mほど進むと、日枝神社があるが、夏見にも宮本にも日枝神社があるので、前にはこの神社に触れなかった。この海神の日枝神社、地元では山王様と呼ばれ親しまれている。このあたりはかつて山谷と呼ばれた地域であるが、山谷集落が出来た頃にこの日枝神社が創建されたらしい。本殿の建物は、寛政12年(1800)に書かれた記録の様子、屋根は茅葺、四尺五寸四面、桁下一丈、南向とあり、その後の明治42年(1909)の記録にも合致する。そして大正期に改修された。面白いことに、この神社の獅子、手水鉢には「瀧口助左衛門」の名前が刻まれている。しかし、手水鉢は文政3年(1820)のもの、獅子は明治35年(1902)と82年の隔たりがある。これは同一人物とは考え難く、代々襲名していたか、獅子は本来は手水鉢と同じ頃奉納されたが、壊れたか何かで明治35年に再建され、もとの奉納者の名前を刻んだかどちらかであろう。

<海神の日枝神社>

Hiejinjya2

この神社の境内の一角には、石祠、庚申塔が集められているが、字を彫っただけとか、浅いレリーフのものばかりである。

ちなみに、海神の山谷は漁師町と並んで船橋の漁業を支えた地域で、祭りも昔はさかんであった。この日枝神社でも大きな神輿が出る祭りが盛大に行われた時期があったが、火事・喧嘩などの不祥事のために、今は下火となって、三年に一回子供神輿がでる祭りとして姿を変えている。

<境内に集められた石祠、庚申塔>

Hiejinnjyakousin

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