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2007.04.17

徳川家康と知多半島(その23:大高城脱出考)

桶狭間合戦の後、徳川家康が如何にして岡崎帰還を果したかについて、前回仮説を述べた。巷間いわれることは、桶狭間合戦で今川義元が首級をあげられ、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された松平元康、後の徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたということ。

しかし、これは事実であろうか。 これについては、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから、筆者としては疑義がある。今川義元は、村木砦を緒川城、刈谷城という水野氏の拠点の間に築くことによって、知多半島を席巻する水野氏の勢力圏に楔を打ち込み、水野氏はまた織田方の旗幟を鮮明にして対抗した。 大高城を今川が奪取し、鵜殿長照が守将として入るまでの大高城主である水野大膳亮忠守も、緒川水野氏と同様、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。

<現在の大高城の周辺地図>

Oodaka

そして、なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたかについて、筆者は大高城を脱出した家康が船で一旦知多半島の西に出て、大野か常滑で上陸し、知多半島を東に横断して成岩の常楽寺に入って、成岩浜から三河大浜へ再び船で行き、大浜から陸路岡崎に帰ったと考えた。

今回、これをもう少し検証してみたいと思う。

<成岩の常楽寺>

Jyorakujihondo

それは、桶狭間合戦に関する『信長公記』の記事のなかに、今川方についた二の江の服部左京助が大高下、黒末川河口に出張って、格別の働きがないために熱田に放火して帰ったという記述があるのがヒントとなった。

その服部左京助とは一向宗の僧であるとともに、水軍というか海の交易に関連した武士で、後に長島城代になった人物である。その服部は、大高城の近くまで来て、何もせずに帰ることはあり得ず、城内とはなんらかの連絡があったはずで、大高城に海から入ったと思われる。

つまり、当時は現在よりも海面が高く、海が内陸部まで入り込んでおり、大高城は今よりも海に近かった。つまり大高城は海に近く、すぐ側を大高川が流れていた、水運を背景にした城と考えられ、徳川家康は船で大高川を下って海に出て、大野か常滑に上陸したと考えられる。船で一旦西へ下れば、桶狭間の敗残を血なまこで探している織田勢には遭遇せず、知多半島の西岸で上陸したとしても、元々今川方が優勢であった地域である、大高から直接東へ出るより幾倍も安全であったろう。

前回の記事を書いた後、再度大高まで行ったのだが、案内板の地図を見て、「江明」という変わった地名があるのに気付いた。早速、近所の商店で「江明」とはどんな読み方をするか、聞いてみた。海岸寺の近所のT商店で聞いたが、「えみょう」という。「えみょう」とは何? なぜ、「えみょう」というのか、商店のおやじさんにも聞いてみたが、「さあ、何でかねえ。昔からそういうもんでね」という返事。ここら辺りは昔は海が近かったかと聞くと、「そうですね。すぐ前の寺が『海岸寺』というもんで」と指差したのが、大高城址に隣接する海岸寺。「海岸」というくらいだから、海に近かったのはよく分かる。海岸寺は仁王で有名らしいが、今は山門付近を工事中である。

<大高城址の案内板>

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<海岸寺>

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「江明」の「江」は川の江、水の江の江であるのは、間違いない。では「明」は?江が明るいという意味だろうか。そうではなく、ふと千葉県佐倉市臼井田にあり、昔からよく知っている臼井城の本丸下に円応寺という寺があり、かつてその辺りを「江間」と言ったことを思い出した。「江明」とは「江間」が訛ったものでは。「江間」とは、船が入ることの出来る入り江を意味し、転じて船溜りや船着場を意味する地名となった。つまり、「江明」に船着場があり、そこが大高城を海路、知多半島の西海岸常滑辺りと結びつけていたのではないか。

今川義元が大高城を欲しがった理由は、その辺にあり、大高は知多半島の首根っこを押さえる場所にある。そこは伊勢湾を利用した交易がさかんであった大野、常滑への入口であり、尾張の主要部分へ、南から進攻する拠点であった。

では、大高城周辺を詳しくみてみよう。江戸時代は元禄頃の地図(愛知県図書館の絵図検索より一部引用)で、大高は以下のように表現されている。海は西に広がり、大高は川が海に注ぐ河口付近にあったことが分かる。

<元禄時代の大高周辺地図>

Oodakagennroku

ところで、この一見適当に描いているような地図であるが、現代の航空写真と比べてみると、古城と書かれた大高城址と鷲津砦址、丸根砦址の位置関係も比較的正確に描かれていることが分かる。ただし、大高村の北側に川の流れが描かれているが、これが大高川なら現在とは流路が変わっていることになる。

例えば、国土地理院のHPの空中写真閲覧サービス(http://mapbrowse.gsi.go.jp/airphoto/index.html)を見ると、1947/10/13という日付の米軍撮影の航空写真(作業名:USA40kCB, 地区:名古屋, コース:M554-A, 番号:78,撮影機関:米軍, 撮影日:1947/10/13, 形式:白黒, 撮影高度:6,705m, 撮影縮尺:1/43,910)が、上の地図に該当する 。

ちなみに、下図は江戸時代後期の知多郡の地図((愛知県図書館の絵図検索より一部引用)であるが、大高の西の海が干拓され、新田開発が進んでいることがわかる。

<江戸時代後期の絵図>

Oodakachizu1

このように、江戸時代前期までは大高城のすぐ近くまで海が迫り、前記の「江明」という地名が船着場を示す「江間」の転訛で、そこから船出して知多半島の西海岸へ海路でいくことは容易であったと思われる。

しかし、船で大高城を脱出したにしても、その供の人数は多くはなかったのだろう。岡崎についた時には十数騎になっていたというから十人乗りの武者船二隻くらいで船出したのであろうか。

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