« 船橋の「橋」 | トップページ | 徳川家康と知多半島(その22:桶狭間合戦と徳川家康<後篇>) »

2007.04.01

桜咲く小山城

先日、栃木県の小山市に少し行ってきた。小山といえば、「♪おやまゆうえんち~」という有名なCMがあったが、今や小山遊園地は稼動していないようで。

小山は、関ヶ原合戦の際に、徳川家康が小山評定という重要な会議を行った場所。その際に、山内一豊が豊臣家に近しい部将達を徳川家康に味方させるような発言をして、合戦後の国持ち大名への飛躍をしたといわれる。

小山駅前には、「小山評定の小山」というような、宣伝用の柱も立っているし、評定通りなどという通りもある。しかし、今回訪ねたのは、小山評定の場所ではなく、小山城。もっとも小山評定の場所も、城の一部のようである。城址にむかう途中、桜が満開になっていた木があった。早速、写真に撮ったのだが、なぜか風俗店が隣にあり、写らないようにするので一苦労。小生、いろいろ城址をめぐったが、城址の近くに風俗店が集まっているのは、小山城以外には知らない(もちろん、小生そういう場所には足を踏み入れていない)。

<小山城の東部にあたる住宅地>

Oyamajyouhukin

この小山には小山城という城がJRの駅からも歩いて7分くらいのところにある。桜がそろそろ満開になりかけており、翌日桜まつりがあるとのことで、準備の人たちが城址に集まっていた。屋台もはやスタンバイ。そこで、桜を見ながら、城址めぐりをした次第。

小山城は祇園城ともいい、戦国時代の大規模な城址が、思川流域の東側の台地にあるが、その範囲は現在の城山公園だけでなく、北側の寺境内まで含め、相当に広かったようである。

<主郭(Ⅰ郭)があったとされる城山公園>

Oyamajyoshukaku

<城址付近の桜もだいぶ咲いていた>

Sirohukinnsakura

この城を築城した小山氏は、藤原秀郷の後胤といわれ、平安末期から北関東に根を張った勢力を誇り、源平合戦の頃に源頼朝のもとに馳せ参じて、鎌倉時代を通じて下野守護に任ぜられた。さらに、鎌倉倒幕にあたっても新田義貞に随って鎌倉攻め、後に南朝と北朝に分立すると、北朝・足利尊氏方につき、宇都宮氏とともに下野の勢力を二分した。その後、室町時代に入り、康暦二年(1380)、義政は以前より対立していた宇都宮基綱と争い、鎌倉公方からの制止にも従わず、河内郡裳原の戦いで基綱を敗死させる。そのため、鎌倉公方足利氏満から追討を受け、小山義政は敗れて自刃、その子若犬丸も奥州に逃れて会津で果てたという。ここに小山氏の嫡流は途絶えるが、平安以来の名跡を惜しんだ足利氏満が、同族結城基光の次男泰朝を迎えて小山氏を継がせた。

<主郭(第Ⅰ郭)と第Ⅱ郭の間にある堀の手前の大きな土塁>

Dorui

その後、再興小山氏は、小山をなんとか名跡を保っていたが、関東が享徳3年(1454)の上杉禅秀の乱に端を発した享徳の大乱で、関東公方(後の古河公方)と上杉氏との対立を機軸にして戦国時代に突入すると、小山氏は古河公方についていたものの、その後家中の対立などあって次第に衰退し、その小山氏を勢力を立て直したが、結城から入った高朝であった。高朝の課題は、乱れていた小山氏一族および家臣団を統制することで、、水谷(みずのや)氏等反抗的家臣に対しては武力で抑え、協力的家臣には所領安堵や加増、一字付与等を行って結束を固め、奪われていた旧小山氏領を回復していった。

<主郭(第Ⅰ郭)と第Ⅱ郭の間の堀>

12hori_1

<堀越にみる思川>

Hori12omoigawa

しかし、上杉氏や後北条氏の勢力には勝てず、高朝とその子秀綱はその間で翻弄され、やがて後北条氏は小山氏領に進攻し、結局、天正3年(1575)後北条氏の猛攻によって小山城は落城、秀綱は常陸の佐竹義重のもとへ逃れた。天正18年(1590)の小田原の役では、後北条氏配下にいたため、結城晴朝の攻撃を受け小山城は再び落城。 元和2年(1616)、徳川将軍家側近の本多正純が三万石で小山城に入ったが、本多正純が元和5年(1619)に宇都宮に転封になると、小山城は廃城になった。

<Ⅱ郭>

2kaku

<第Ⅱ郭の郭と馬出しの間の堀>

Hori2

この城、単純に言ってしまえば、南になる第Ⅰ郭から、北へ第Ⅱ郭、第Ⅲ郭と連郭式になっており、郭と郭の間には深い堀があり、今はコンクリート製の橋が架かっているが、かつては木橋が架かっていたようである。しかし、堀の深いこと。第Ⅰ郭と第Ⅱ郭の間の堀で10mくらいあるだろうか。東側の住宅地になっている場所も、昔は低湿地であったようで、西は思川であるので、東西からは攻められず、攻めるとすれば南北からであるが、そこは土塁などで防御を固めている。

道路を隔てて南にある小山御殿址も、実は城址の一角であり、ここは本多正純が元和5年(1619)に宇都宮に転封になり、小山城が廃城になった後、徳川将軍家の日光社参のための宿泊所、休憩所として作られたものである。この小山御殿にも堀と二重になった土塁が周囲をめぐり、十六もの番所を備えて警固にあたったというから、徳川将軍家用の特別な施設といえるであろう。

<小山御殿址>

Gotenato

なお、当日城址と道路を隔てて南の御殿址には、桜まつりの準備の人たちと地元の行楽客が多少いたのだが、桜まつりの最中には沢山の人出となることは明らかで、その場合には城をゆっくり見ることは出来なかったかもしれない。気の早い人たちは、もう花見をしていたし、出店も一部は営業していた。

第Ⅱ郭にあるあづまやで、付近の女子中学生?2人組が無心にりんご飴を食べていたが、口の周りを赤くして可愛いかった。親子連れなども多く、のどかな雰囲気。とても、室町から戦国時代にかけて攻防が行われた城址とは思えなかった。

<第Ⅲ郭>

3kaku

<Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀にかかる橋>

23hashi

|

« 船橋の「橋」 | トップページ | 徳川家康と知多半島(その22:桶狭間合戦と徳川家康<後篇>) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/14483503

この記事へのトラックバック一覧です: 桜咲く小山城:

« 船橋の「橋」 | トップページ | 徳川家康と知多半島(その22:桶狭間合戦と徳川家康<後篇>) »