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2007.04.07

徳川家康と知多半島(その22:桶狭間合戦と徳川家康<後篇>)

前回まで、桶狭間合戦における徳川家康の活躍について書いてきた。家康が、この合戦を通じて、岡崎帰還を果たすと同時に、今川の支配下を脱し、織田の同盟者となって東海地方の一角を支配していくことになるのは、周知の通りである。

桶狭間合戦で今川義元が首級をあげられ、今川勢が敗走していた頃、徳川家康、当時の松平元康は大高城にいた。その元康のもとに、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元であったという説がある。すなわち、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。また、水野氏ではなく、水野氏配下の梶川氏からの知らせであったという説もある。

<大高城>

Oodakajyo

筆者は、大高城にいた元康に、今川勢の敗北を伝えたのは、いくら伯父甥の関係であるといっても、水野信元ではないと思う。桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた水野氏と戦ったのである。既に水野氏は忠政から信元の代となって、今川氏の支配下を脱し、天文12年(1543)知多半島の宮津城(新海淳尚)、成岩城(榎本了圓)を落として、長尾城の岩田左京亮安広を降伏させ、安弘は、出家し杲貞と名乗る。さらに、水野氏は河和城の戸田氏をも圧迫していた。水野氏は既に常滑に分流である常滑水野氏を置き、大野・内海の佐治氏と対抗関係にあった。常滑水野氏は、現在の半田辺りまで勢力を伸ばしたようだ。

このように、水野氏は知多半島を席捲した。そして、水野忠政の子信元は、織田方に組し、阿久比坂部の久松氏など配下となった在地の武士たちも織田方についた。それにたいし、今川義元は天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。これに対し、近隣の緒川城、刈谷城に拠っていた水野氏は、忠政の代には今川、織田双方によしみを通じる身であったのが、信元の代になると織田方の旗幟を鮮明にしており、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。むしろ、今川義元は、村木砦を緒川城、刈谷城という水野氏の拠点の間に築くことによって、水野氏の勢力圏に楔を打ち込んだと言っていい。

<村木砦>

Muaraki_1

したがって、石ヶ瀬などで今川勢と現に戦っていた水野氏、とくにその本流である水野信元や水野忠分から、いくら身内とはいっても今川勢の敗軍の将となった松平元康、後の徳川家康に救援があったとは考え難い。そもそも、大高城を今川が奪取し、鵜殿長照が守将として入るまでは、大高城主は水野忠氏、大膳亮忠守父子であった。この大高水野氏は緒川の水野貞守の弟(水野為善)が大高城主になったといわれ、尾張一円に多い緒川水野一族の一部が当地に進出したもののようである。この水野忠氏父子も、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。大高山春江院という大高城近くの寺は、曹洞宗で、弘治2年(1556)大高城主水野大膳亮忠守が創建したという。春江院は、寺院ではあるが、周りを崖などで囲まれ、大高城の詰城の感がある。この水野大膳亮忠守とは、水野忠政の娘を妻としている。つまり、大高城主であった水野大膳亮忠守は、松平元康、徳川家康の叔父ということになる。その次男正勝は後に信長に仕えているし、嫡男大膳亮吉守は永禄6年(1563)三河一向一揆との戦いに参加して、家康より知行三千三百石を与えられているが、吉守の妻は水野信元の娘であり、親子二代に渡り、本宗である緒川水野氏と婚姻関係を結んでいる。

<春江院と大高城の位置関係>

Oodaka

<春江院>

Shunkouin1

ところが、水野大膳亮忠守は大高城を今川勢に奪われてどうなったのか。討死ならば、簡単だが、そういう消息も聞かない。緒川か刈谷に逃げたというのが、考えられるが、その後歴史の表舞台に出てこない。多分、水野大膳亮忠守は、大高城が落ちた瞬間、春江院に逃げ込み、その後ころあいを見て緒川に脱出したものと思われる。その後、歴史の表舞台に出てこなかったのは、すぐになくなったか、隠居したためではないか。

<大高川>

Oodakagawa

では、なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。

その一つのヒントが、桶狭間合戦に関する『信長公記』の記事にあった。

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り帰し、戻りざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人ども寄せ付けて、焜と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき

註)うぐゐら:弥富町・鰍浦 

  服部左京助:服部左京亮友定、伊勢をルーツとする服部党のリーダー。尾張国二の江辺りを押領した。長島一向一揆の際に長島城代をつとめた

  武者舟干艘:千艘では多すぎ、二十艘とされる

桶狭間合戦当時、尾張下四郡、海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡のうち、知多郡は寺本の花井氏に代表されるように今川方につくものが多く、織田氏の経済基盤であった津島、二の江(現在の荷之上)、うぐい浦(現在の弥富町)に力のあった服部左京亮友定も今川方に引き入れられていた。それは、服部友定が一向宗の僧であったことから、織田信長との対立を今川義元に利用されたということである。この服部友定は、信長公記では黒末川(現在の扇川)の河口、大高下まで出張ってきて、今川方としての活躍の場がなかったために、熱田に放火して帰ったとされている。しかし、わざわざ出てきて服部が何もせずに帰ったとは思えない。特に、大高城の近くまで来て、何もせずに帰ることはあり得ず、城内とはなんらかの連絡があったはずである。多分、今川義元は大高城の兵糧入れも保険をかけていて、服部にも要請しており、服部はその任務を果たすために大高城に入り、その帰りに熱田に放火したのではないか。熱田放火は今川方による、明らかな後方撹乱であった。

<大高城に隣接する海岸寺>

Kaiganji_3

服部が海から大高に入ったように、中世海進といって、当時は現在よりも海面が高く、海が内陸部まで入り込んでおり、大高城は今よりも海に近かった。桶狭間合戦の際にはなかったが、大高城の北側に隣接して海岸寺という寺がある。その名の如く、大高城は海に近く、すぐ側を大高川が流れていた、水運を背景にした城であったのである。

つまり、大高と知多半島の西海岸、西浦は容易に往来が可能であり、徳川家康は船で大高川を下って海に出て、大野か常滑に上陸したのであろう。船で一旦西へ下れば、桶狭間の敗残を血なまこで探している織田勢には遭遇せず、知多半島の西岸で上陸したとしても、元々今川方が優勢であった地域である、大高から直接東へ出るより幾倍も安全であったろう。もし、上陸したのが大野であれば、やはり所縁のある東龍寺か光明寺に入ったと思われる。光明寺は、浄土真宗小林山光明寺で、水野忠政娘於亀の再嫁した先である。

<大野の東龍寺>

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そして、常滑から岩滑経由で成岩の常楽寺に入り、そこで休憩した後、成岩浜からまた船で海を渡り、三河大浜に上陸したものと思われる。岩滑に「藩費の橋」といって尾張徳川家が修繕費を負担してきた橋があったが、それは家康が桶狭間合戦の後、常滑から衣川八兵衛を案内人として来た際に、渡った木橋にちなんで、尾張藩が費用を負担する橋という意味で、「藩費の橋」というのだそうだ。その伝承が事実であれば、常滑の衣川八兵衛は桶狭間合戦後と本能寺の変の後と、二度家康を警護し、案内したことになる。

ちなみに、当時の成岩辺りを支配していたのは、常滑水野氏であり、常滑から成岩にいたる地域は常滑水野氏が領有していた。桶狭間合戦後の徳川家康の岡崎帰還に、彼らが一役買っていた可能性は、むしろ緒川水野氏の織田に忠実でなければならない立場と比べ、あるい程度自立していたと見られることから、大いにあったと見てよい。

<「藩費の橋」>

Hanpinohashi

なお、この記事を書いた後、再度大高まで行ったのだが、地名からあることを発見?した(地名研究家なら知っているだろうが)。そのことについては、また次回述べる。

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