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2007.05.20

徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)

先日5月13日(日)に、桶狭間において桶狭間古戦場祭りがあり、尾張中山家御子孫S氏夫妻、ブログでお世話になっているヘロンさんたちと行ってきたので、その報告と地元の郷土史家梶野渡氏や梶野渡氏ご子息ら、桶狭間の地元の人たちから聞いた内容で、新しい知見も得たので、その説明をする。

小生、今まで桶狭間で今川義元が討たれた後、徳川家康が大高城からどのように脱出したかなど述べてきたが、桶狭間合戦について再度振り返ってみることにする。

以前、当ブログでも、この桶狭間合戦について、江戸時代に書かれた絵図から推定して「『義元本陣』の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊が展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。」と述べた。

しかし、今まで郷土史家の梶野渡氏や地元の方々から聞いた話では、今川義元が本陣を置いたのは武路山よりやや南で、田楽坪の桶狭間古戦場跡の東側の小高い丘陵地であった。それは長福寺の東を通り、北へ向かって鳴海道と合流する近崎道に沿った小松原が広がる場所であった。標高64.9mの場所もかつてはあったが、義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったという。なお、桶狭間の長福寺は、和光山天沢院と号し浄土宗西山派の寺である。長福寺があるのは、かつて桶狭間を領した中山氏の屋敷に隣接した法華堂があった場所と推定されるが、長福寺は天文7年(1538年)善空南立上人の開山となっており、桶狭間合戦の際には既に存在した。ここでは、今川義元の首実検を茶坊主の林阿弥がおこなったとされている。ちなみに、天沢院は義元の「天沢寺殿秀峰哲公大居士」という戒名にある、駿河の天沢寺に通じる号という。

義元が陣を張ったのは、「おけはざま山」の最も高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったということは、永禄3年(1560)5月12日駿府を出発し、5月18日沓掛城で作戦会議をしてきた義元がわざわざ塗輿に乗ってきたことに関係している。塗輿に乗るのは朝廷の許可が必要だったようで、馬よりも機動力がなくなるが、相手を威圧するものである。しかし、義元の誤算は、相手が普通の人間でなく、権威をものともしない織田信長であったということ。梶野渡氏によれば、塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも幅2m程の平面が必要で、上下2~2.5mくらいの空間を必要とした(前後の兵たちは槍や旗指物も持っているから、実際は上下4mくらいは必要:筆者註2007.6.19)。だから、そういう道を通ってこざるを得ず、沓掛から東浦道を南下し、阿野で大高道を西へ行き、さらに桶狭間で北上して近崎道を行ったとのことである。さらにどこへ向かっていたかと推定するに、進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか。もちろん、桶狭間で今川義元が討死してしまった以上、それ以降の企図は推論でしかないが、尾張を制圧しようとしていたことは間違いない。

<桶狭間での織田・今川両軍衝突の経路>

Okehazama2_1_4 

休息をとった場所には瀬名氏俊が義元本隊より2,3日前に来ていて陣地を設営していた。ちなみに、その瀬名氏俊が陣所を構えた場所が長福寺の裏手にあるが、かつては「セナ藪」、「センナ藪」と呼ばれ、一面竹薮であった。今は竹薮の名残りが一叢あるのと石碑が建っているだけである。

<瀬名氏俊の陣所跡>

Sennayabu

瀬名氏俊は、陣地を作る専門家であった。その軍評定の跡とつたえられる場所が、「戦評の松」として石碑が建てられ、枯死した松と新しく植えられた松がある。この松については、「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。まあ、それは後世に尾鰭をつけて作られたのであるが、合戦の目撃者である地元住民の禁忌として印象づけられるものがあったのであろう。

このように、今川義元本隊の行軍は、ちゃんとした街道を通り、休憩地といえども幕奉行と言われる専門家が事前に来て設営していったのである。これは梶野渡氏が当日15時からの講演で、自らの戦時中の師団参謀部勤務の経験から、軍隊は休憩地といっても綿密に事前調査や検討をしてから準備すると言っていた通りである。

<瀬名氏俊が軍議をおこなったという「戦評の松」>

Senpyounomatsu

そして義元本陣は大軍の将兵が休むことのできる場所で、先鋒である松井宗信隊や井伊直盛隊が展開していた高根山、幕山、巻山がよく見渡せ、遠く大高も望むことのできる丘陵が選ばれた。もちろん、桶狭間合戦伝説地の近くにある高徳院の裏山では収容人数だけでなく、先鋒隊を見通しにくい点から無理がある。また、それは、一部の学者が言うように、標高64.9mの最高所ではなく、近崎道から余り離れていない標高45mほどの場所であったという。なぜならば、標高64.9mの最高所は道のない山林であり、わざわざ乗ってきた塗輿を降りて、全軍歩兵となって急斜面をよじ登る必要はなかったのである。今川義元本隊は約5,000だったが、実際に本陣にいたのは、1,500程度で、その他の将兵は長福寺やほかの陣地にいたそうだ。その今川義元本陣は、今では住宅が密集しており、何も残っていない。というより、仮の陣地なのだから、残っているほうがおかしい。

<義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向うに大高がある>

Honjin

昔よく面白おかしく言われていたのは、今川義元は田楽ヶ窪、田楽狭間で勝利の宴会をはっていて、また折からの雷雨で織田勢が迂回してすぐ近くに来ているのに気付かず、高みから急襲されて田楽ヶ窪で義元以下討ち取られたということ。しかし、これは後世に作られた「話」であって、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはったということが主流の説になった。

<昔から面白おかしく言われてきた義元油断の図>

Yoshimotoenkai_3

ただ、江戸時代に書かれた軍記や紀行文などの類に田楽ヶ窪、田楽狭間に義元本陣があったというもの以外に、館狭間に義元本陣があったとするものがある。館狭間は、「館」「南館」の東にある細い谷をいう。これは全くの創作とまではいえない根拠があり、現在のホシザキ電機のある豊明市栄町南館(みなみやかた)に中世、戦国の城館と思われる「石塚山塁」があり、今川義元の墓、あるいは陣所という伝承があるからである。そこを襲われて、沓掛方面に逃げようとして国史跡に指定された桶狭間合戦伝説地の辺りで、今川将兵が討ち取られたという説明になる。もっとも、今川義元が当地に出張ってきたのは、桶狭間合戦の時だけであるから、「石塚山塁」を義元が築いたわけではない。それは、大脇城の梶川氏か、在地勢力の誰かが築いた訳であるが、誰の城館かは不明である。この「石塚山塁」を今川義元と結びつけて考える者が後世にでて、「館」という、おそらくこの中世城館に関わる地名が「お屋形様」の「屋形」の陣があったかのように付会されて、誤って伝えられたのではないだろうか。

しかし、実際に現場に行ってみればわかるが、そんな場所に陣を張っていたのでは、先鋒隊のいた高根山、幕山、巻山などを見通すことはおろか、大高方面など見えないのである。下の写真は、武路公園付近から桶狭間の主要部をのぞんだものであるが、見ている場所と角度はずれているが、かつての今川義元本陣からも、このようなパノラマが見えていた筈である。

<高所から見た桶狭間の主要部分>

Okehazamapanorama_2

そもそも、今川義元がここまで来たのは、小説などで言われるように天下に号令をかけるために上洛しようとしたのではない。この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではなく、長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきである。すでに、織田弾正忠信秀の代に、尾張における今川氏の拠点、那古野の柳之丸を天文7年(1538)頃織田方が奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一したが、天文4年(1535)12月、「守山崩れ」でなくなり、天文11年(1542)今川氏が軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進めると、松平清康死後跡を継ぎ、今川の勢力を頼っていた家康の父、松平広忠率いる岡崎勢と今川義元の軍勢は、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、嫡子信長が一族内紛と反対勢力との抗争に明け暮れているのに乗じて、天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。一方、今川の進攻に対し、知多半島をほぼ手中にいれた水野氏は、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野の軍勢が今川軍と村木砦で合戦、織田、水野軍が勝利している。

一方、今川方としても、鳴海の山口教継を寝返らせ、大高城にも三河の鵜殿長照を入れて、尾張の喉元にクサビを打ち込んだのである。こうしてみると、永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦の戦いのリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。

だが、勅許を得た塗輿に乗り、尾張の田舎大名など一ひねりと思っていた今川義元は、織田信長が普通の思考パターンの人ではなく、「想定外」の行動をとる人物であったために、逆に討たれることになった。

その今川義元の菩提を密かに、桶狭間の住人が弔っていた。公式には、桶狭間の長福寺が今川義元や松井宗信らの供養を行ってきた(今も今川義元、松井宗信の木像がある)のであるが、明治27年(1890)に高野山から高徳院が移って来ると、義元らの供養を高徳院が行うようになり、長福寺はお株を奪われた格好になった。その公の弔いとは別に、現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。これについては、思い当たることがある。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのである。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということであろう。

<「駿公墓碣」という墓碑>

Yoshimotokuyou1

では、織田信長は、どんな見通しや戦略をもって、桶狭間合戦に臨んだのであろうか。なぜ、「東海一の覇者」と言われた今川義元は、簡単に討たれたのであろうか。それについては、長くなったので、また次回。

<古戦場祭り風景>

Musha

<同じく万灯と篝火>

Manto2

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コメント

mori-chanさん、当日は色々とお世話になりありがとうございました。
当記事を読んでいて気になる箇所がありましたので下に記します。


>義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、「標高4,50m」ほどの場所……
「標高45m」と梶野氏にいただいたプリントに記載されています。


>塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも「幅2km程」の平面が必要……
「幅2m程」だと思います。

投稿: ∞ヘロン | 2007.05.21 02:26

moriです。お疲れ様です。ご指摘の通り、「幅2km」の平面のはずないですね。2mの書き違いでした。「標高4,50m」はアバウトな記述でしたので、45mに変更します。
それから、織田方の動きをを少し書いてみて、織田勢の勝因は結局何だったかをまとめようと思います。
其後、徳川家康が石ヶ瀬で織田と戦いつつ、水野信元の仲介をうけて織田と同盟するまで、時間はかかると思いますが、何とかたどりつきたいと思っています。

投稿: mori-chan | 2007.05.21 07:15

この記事をみてやっと有松商工会議所のHP「有松人・戦人」の監修者が、郷土史家・さんであるらしいと、思うようになりました。

ところで、お説について少し質問させていただきます。

長福寺の東を通り北へ向かって鳴海道と合流する「近崎道」といものを想定されているようですが、そのような主要な地方道が現在にその痕跡も残っていないのは何故でしょうか。
明治初期の地図にすらそのような道は発見できませんし、江戸後期の『尾張誌』付図・知多郡をみても記載がありません。根拠になる村絵図などがありましたならば紹介していただければ幸いです。

次に、「進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか」とされていますが、善照寺砦を攻めて鳴海城を開放するには、鎌倉海道からするにしくはないと思うのですが。
黒末川が天然の堀の役目を果たしているからです。
東から攻められれば、中島砦も無用の長物になります。
なぜ、無理やり攻め難い方面から行かねばならないのでしょうか。
その理由を教えてください。

三番目は、松井宗信隊が高根山に本陣先備として布陣したという説には、鳴海道を遮断するのですから賛成ですが、その余の井伊直盛らが幕山や巻山に展開したということには懐疑的になります。

なぜなら、敵の織田方が攻めてくる道がないからです。
そんなところに布陣する必要がありません。
勿論、行軍途中の休息のために付近の山上にあがったというのであれば、十分に合理的ではありますが、少なくとも本陣を守る態勢ではありません。
それに、脇備と後備が貧弱にすぎます。
特に東海道に面した生山に布陣する部隊が三百や五百ということはないはずです。ここにこそ井伊直森が一千の兵力で布陣しなければならないと思いますが、いかがでしょうか。

また、長福寺があるのにそこを本陣にせず、下級の武士が使用するのは考えられません。
接収してしていなかったのなら、兵火もかかっていないのですから筋が通るのですが、大将が炎天下にいて下級武士が伽藍を使用するのはいただけません。

ちょっとオタクに過ぎる質問になったかもしれませんが、見解をきかせてください。

投稿: かぎや散人 | 2007.05.28 17:34

かぎや散人さん、難しい質問ですが、お答えします。当方、本来は城専門で桶狭間の研究者でもないので、もっと専門家にきいてほしいのですが。
一番目は、古い道全般に当てはまりますが、現代の生活様式と昔のとは大きく違い、旧道より新道が重宝され、古い道はややもすればなくなるのです。小生の千葉の自宅の近くに東金御成街道の名残りがありますが、古街道として市から史跡の指定を受けているほどです。近崎道も今の大府の北崎(近崎と北尾の合成地名)にむかってのびていた道ですが、戦後の宅地化で途中からなくなっています。しかし、長福寺横などに現存しています。絵図については、愛知県図書館所蔵の古地図で知多郡を描いた江戸後期の絵図があり、そこにも近崎から桶狭間を結ぶ道がはっきり書かれています。
二番目の、なぜ義元が鎌倉街道を行かなかったかですが、現実に義元は鎌倉街道付近で戦死しておらず、大高道、近崎道を通って桶狭間まで来たのです。それから筆者が書いたように一旦鳴海の囲みを解いてから大高へ行こうとしたのか、また大高道へ戻り最短コースで大高へ行こうとしたのかは、なくなった義元に聞いてみないと分かりません。但し陣地設営担当の瀬名氏俊は、先回りにして大高へ行っていたようですから、義元が大高へ入ろうとしていたのは間違いないでしょう。
三番目については、やはり今川軍としては高根山の松井隊だけでは先遣隊としては不足で、後詰として幕山、巻山にも展開したのだと思いますが、後詰だけでなく、義元本隊との連絡が必要でした。そのためには余り離れてしまってはだめで、数百m乃至1Km以内の間隔で分散したと思われます。今と違って無線も、携帯電話もないわけですから、命令の伝達、情報の共有化は、直接伝令が対面して行ったはずです。また、長福寺にいた兵も、お寺の本堂で休んでいたわけではなく、今の長福寺の駐車場から蓮池の辺りに待機していたと思います。

投稿: mori-chan | 2007.05.30 06:55

どうも、細かいことで困らせてしまったようでして申し訳ありませんでした。

早速のお返事までいただきまして恐縮です。

ご指摘のように、専門家に質問ということで考えまして、HPに紹介されていました∞ヘロンさんのブログも拝見しましたならば、そこで紹介されていました講演内容をみますと、有松商工会議所のHP「有松人・戦人」と同じものであることに気がつきました。
ということは、この講演者の梶野渡さんは、「有松人・戦人」の監修者であろうということで、「有松人・戦人」に質問してみることにしました。

その前に、
moroi-chanさんのご指摘に従って、早速、愛知県立図書館の公開絵図から、尾張藩藩撰地誌『尾張志』付図のうち「知多郡」を検索してみたのですが、そこで描かれている近崎道も、北尾・近崎から桶狭間に向かう道は、桶狭間村の東で大脇村から桶狭間村を通って大高にむかう道路と合流していまして、そこから鳴海へ行くには桶狭間村の鍵手になった四つ辻まで行き、そこから北上して大池の西の辺をとおって鳴海・祇園寺辺りで東海道と合流しているようです。
どうも、ここにみられる近崎~桶狭間道は桶狭間村の長福寺の東の丘陵を通ったりはしていないようなのです。

また、現在では宅地化によって消失しているという指摘もありましたので、国土地理院の電子地図やグーグルの航空写真をみますと、確かに長福寺横などに現存している道も含めて痕跡がうかがわれます。

ですが、戦前の地形図として明治期や大正期の地形図(日本図誌大系)をみる限りでは、その時代の当該個所は「疎な針葉樹林」から「桑畑」に変化したようでして、道路の標記はありません。

道が宅地化で消えたのではなく、丘陵地の桑畑が住宅になり、それに伴って道がつくられたものと推定したほうが良いのではないでしょうか。

実は、私が近崎道が東ノ池から長福寺の東側の丘陵上を通るということに拘るのは、大脇からきた義元が南から桶狭間山山頂またはそこの台地上にあったといわる本陣にあがれるからです。

あがれるということは下りれることですから、東から信長に奇襲されても簡単に南に逃れられるからです。

道があるのですから。
それも塗輿が通れるほど広い道(少なくとも幅2m)なのですから、大池付近にあったという深田に嵌るわけなどはないものと思われるからです。

ということで、
このような、マイナーな見解は気にしないでいただいて、織田信長の見通しや戦略や今川義元が簡単に討たれた理由についてのお説に進んでください。
「夜霧の古城」の続きでの展開を楽しみにしています。

投稿: かぎや散人 | 2007.06.03 11:28

近崎道についての追伸です。

天保十二年の桶狭間村絵図を見ることができました。

確に、そこには梶野さんのいわれるような径がありました。

北尾村からきた小径が石池(東ノ池)の西南端で東からくる大脇道に接続しております。そこから桶狭間の村内を通らず、西の山と畑の間を北に進み、長福寺の裏(東側)を過ぎて、大池の北に広がる広坪田の東から北の縁を廻ます。さらに、地蔵池の東端を通って、その北端で有松からくる鳴海道と合流していました。

ところで、この小径の評価ですが、もしmori-chanさんに興味がおありでしたら、ブログhttp://kagiya.at.webry.info/を覘いてみてください。連絡が後になりましたが、「夜霧の古城」を引用させてもらい、アドレスも表示させてもらいました。迷惑でしたら、すぐに削除します。

投稿: かぎや散人 | 2007.06.14 09:55

かぎや散人さん、コメントありがとうございます。近崎、あるいは北尾と桶狭間の関係ですが、前から近隣としての交流はあったのは間違いないと思います。内陸に位置し、交通の結節点であったと思われる桶狭間と、水際に近い、近崎、北尾が昔から交易などしていた可能性があると思います。
ただ道筋については、もう少し調べてみます。私は義元がおけはざま山に陣取った軍事的な意味合いのほうを重視したいと思っています。瀬名氏俊が前日から行って陣地の整備をしていたのも、そのためなんでしょう。
ちなみに、北尾には中山勝時の領地があったので、その意味でも桶狭間~北尾さらには水野氏の本拠である緒川あたりは、頻繁に人の往来があったと考えていいと思います。

投稿: mori-chan | 2007.06.19 12:20

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» 「新説 桶狭間合戦史」講演会聴講レポート [∞ヘロン手記]
◎桶狭間古戦場まつり 日時:平成19年5月13日(日) 場所:古戦場公園(愛知県名古屋市緑区桶狭間北三丁目)   :大池・長福寺周辺周辺(愛知県名古屋市緑区有松町大字桶狭間寺前)      市バス「桶狭間寺前」下車(緑2巡回、野並18、要町11)    *桶狭間古戦場跡(愛知県豊明市栄町南舘)とは、別の場所。 催事:解説付戦跡めぐり、資料展示、講演会夕刻は戦死者鎮魂万灯会    ・ 慰霊祭 10:00~    ・ 戦跡めぐり 1回目10:00~ 2回目13:00~    ...... [続きを読む]

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» 近崎道を今川義元が通ったて、知ってました? [読書三昧]
今川義元が沓掛城から桶狭間山の本陣に行くのに、どのような経路を通ったかは興味のあるところです。 [続きを読む]

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