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2007.05.28

徳川家康と知多半島(その25:桶狭間古戦場を行く<中編>)

永禄3年(1560)5月19日の桶狭間での決戦の際、今川義元本陣を襲った織田軍の動きについては、徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2007/05/eee.htmlで述べたように、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはり、そこを正面から織田信長の軍勢が攻めたということが主流の説になったが、それ以前は迂回・奇襲説が主流であった。つまり、善照寺砦を出た信長は、東へ大きく迂回して、現在の名鉄線中京競馬場駅北にある大将ヶ根、古い地名では太子ヶ根の山上を通って、伝説地のほうの桶狭間合戦場(田楽狭間)に駆け下り、休憩し、油断していた今川勢を破ったという。これは、陸軍参謀本部の『日本戦史』でも、奇襲作戦の一典型として取り上げ、喧伝され、実際の日本軍の野戦などでも、これに似た無謀な作戦が展開されて、多くの犠牲を出した。

<従来の迂回奇襲説での織田・今川軍の進路と実際の進路>

Okehazama2_1_5

今川義元は5月17日(『信長公記』の記述)あるいは5月18日(17日は池鯉鮒に留まっていたと想定)に沓掛に陣を置いた。そして、5月18日夜には大高城へ松平元康、後の徳川家康を遣わし、兵糧入れを行った。一方、織田信長は、ちょうどその頃家老らを集め、合戦前夜の会議をおこなったのだが、世間話だけで作戦らしきものを述べず、胸に秘めたものがあった。潮が満ちて援軍の出しにくい明方を狙って、松平元康が佐久間大学盛重の守る丸根砦を、同時に朝比奈泰朝が織田秀敏と飯尾定宗父子の守る鷲津砦を攻めたのは翌日未明であるが、既に18日夕方には丸根・鷲津の両砦を今川方が攻めてくるのは確実と、佐久間盛重、織田秀敏から信長に注進がされていた。それ以外にも、沓掛の簗田政綱などから情報があがっていたものとみられる。そして、翌日明方になって松平元康が丸根砦を攻めている頃に、織田信長は動きだした。その時の様子を『信長公記』は、以下のように書いている。

「今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。

案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆

岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。」

<熱田神宮>

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(熱田神宮の写真はウィキメディア・コモンズより)

熱田は当時湊であり、海の向こう遠く大高まで見渡せた。そこで19日朝8時頃、熱田の宮の前から、丸根、鷲津の両砦が炎上した煙がすうっと上っているなかを、信長主従六騎は駆けた。熱田からは海岸線を行けばはやいが、潮差し満ちて馬の通行に不便なため、上手の道を飛ばして、丹下の砦に行き、佐久間信盛が守る善照寺砦に入った。そこで、将兵を終結させ、佐久間に兵1,000名を残し、信長は2,000名の兵を率いて善照寺砦を出て、敵に程近い中島砦に入り、さらに桶狭間を目指して突き進んだ。

この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあった。現在、民家の庭先に石碑が残っているのみ。信長は、中島砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであるため、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。中島砦を守っていたのは、梶川一秀である。梶川氏は、丹羽郡楽田の出身であり、現・豊明市大脇や現・大府市の横根に拠点を持っていた水野氏配下の梶川氏とは関連ないかもしれない。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいたのである。

<桶狭間古戦場公園にある鞍流瀬川から発見された古戦場の碑>

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なお、信長が善照寺砦まで来たのを知った、佐々政次、千秋季忠は兵300人を率いて、高根山、幕山の松井宗信率いる今川勢に向かい、佐々・千秋のニ将を含めた50人が討死を遂げた。これは、無鉄砲に飛び出していったのではなく、一種の陽動作戦であった。彼らの犠牲があって、織田の本隊の動きが、高根山、幕山にいた今川先遣隊に知られず、織田本隊は今川義元の本陣に迫ることができたといって良い。

<高根山の松井宗信陣跡から東の武路方面を望む>

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「信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。
無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。

今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

もともと、今川の軍勢は約2万5千、それも鳴海、大高などにも分散しており、今川軍本隊ともいうべきは5千人ほどで、正式な侍はその3分の1ほどであった。「おけはざま山」の義元本陣には約1,500人ほどがおり、その他は長福寺、巻山などにもいた。『信長公記』の今川勢四万五千というのは、明らかな誇張である。そして、将兵も三河、遠江の諸士も混ざっており、今川譜代といえない人々も多く、また長い行軍で疲れていた。したがって、必ずしもモラールの高い状態でなかった。

さらに、織田信長の運がよかったのは、その頃ちょうど夕立があったことである。これは、「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり」という表現に表れている通り、信長軍にとってはまさに天佑神助であった。

桶狭間に入り、生山(はいやま)の下の谷に入った頃、夕立は本降りとなり、織田勢は武路釜ケ谷(たけじかまがたに)に侵入し、今川勢への攻撃の機を窺った。この武路釜ケ谷とは、現在の名古屋短大の敷地南西側にある谷合であり、今川義元本陣の北側にあたる。

<織田勢が侵入した武路釜ケ谷>

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折からの夕立で、義元本陣から視界は悪く、人馬の足音や具足の擦れる音も激しい雨音と雷鳴に掻き消され、義元本陣は織田勢がすぐ近くまで迫っていることに気付かなかった。それだけでなく、梶野渡氏によれば、標高約45mの山腹に4、5mの長さの槍を持っていることは、その人数分、つまり約1,000本の避雷針を10階建てビルの屋上に立てておくのと同様で、落雷を避けるために、今川兵は槍を伏せ、具足などの金属類も遠ざけていたらしいのである。信長の方は、落雷をものともせず、一気に駆け抜けた。

槍や具足を投げ出して、落雷を避けていたときに陣地を急襲された、今川勢本隊は、少なからず混乱した。近くの台地に展開していた先遣隊と合流しようと台地を下りたものと思われる。しかし、移動しようとした兵たちは低地にある深田で足を取られ、次々に討ち取られた。高根山、巻山にいた今川勢先遣隊からも、本陣の様子は見えたが、救援に下りたものの、低地にある泥田が行く手を阻んだ。しかも、既に先回りした織田勢の一部が待ち構えていた。今川義元も旗本に守られて逃げ回ったあげく、最初義元を守って300名ほどで円陣をなしていたのが徐々に切り崩され、取り巻く武士達も減り、最後には自ら太刀をふるって、槍をつけられた服部小平太の膝頭を斬り割ったり、組み付いた毛利新介の指を噛み切ったりして抵抗した。「東海の覇者」といわれた今川義元も、乱戦の末、結局毛利新介に首級をあげられてしまう。『信長公記』は、このときの状況について、以下のように描写している。

<今川義元討死の地か、古戦場公園にある馬つなぎの杜松の木>

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「初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。」

しかし、なぜ織田信長は、今川の大軍の本陣をピンポイントで特定し、そこに急襲をかけることができたのか。そもそも、織田信長が今川勢の本陣を目指したのは、兵力を鳴海、大高と各地の先遣隊など、分散し、かつ今川義元本隊が輜重兵、軍夫を入れて5,000名ほどで、かつ細い道を通っていたために、行列の何処かを襲えば、敵を十分撹乱できるという読みからであった。それが、夕立という自然現象の助けもあって、意外に義元本隊は動きが遅く、桶狭間に留まっていたため、結果的に義元を討ち取ることが出来た。しかし、義元本隊がどう動いているかは、逐次情報を得ていた模様である。また、土地の事情に詳しい簗田政綱のような、情報提供者もいた。もし、的確に義元本隊の位置を把握していなければ、織田軍の怒涛のような動きもまったく意味のないことになる。

このように、今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。

<桶狭間古戦場祭り風景>

Taiko

桶狭間合戦が情報戦であったといわれる所以は、論功行賞において、実際に今川義元を討ち取った毛利新介や服部小平太が功名第一ではなく、一番手柄は今川義元本陣を正確に把握し、これを織田軍に伝えた簗田政綱であったことにある。その他、今川方の陣地設営にかり出されたであろう、桶狭間住民、桶狭間に知行地のある中山氏たちも、織田方への情報提供に一役かっていたと思われる。

実は桶狭間を領した中山重時(岩滑城主中山勝時の父)は、天文23年(1554)2月、水野氏が三河において今川・松平への対抗拠点とした重原城にて、織田方の山岡伝五郎を援助し、今川勢に討たれている。それは永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦より、6年前のことであった。跡を継いだ中山勝時は、父の仇である今川の軍勢が、自らの所領である桶狭間に本陣を据えて、尾張の中央突破を目指していたのをどう見ていたのであろうか。

しかし、今川義元は尾張併合をすることができず、桶狭間の露と消えた。その嫡子、今川氏真には義元の跡を継いで、その野望を実現する器量なく、家臣の離反により駿府を維持することすらままならなかった。そして、今川氏真は駿河への武田氏の侵攻を許し、今川方の先鋒として活躍した松平元康も、大高城脱出後、岡崎に戻り、そのまま岡崎に腰を下ろし、氏真と対立することになる。今川義元の討死以降の松平元康、後の徳川家康の動向については、次回。

なお、本稿を書くにあたって、5月13日に桶狭間の長福寺で行われた梶野渡氏の講演 を拝聴し、またその内容をブログに記載する許可も頂いた。その記録は、同行したヘロンさんが、丁寧にまとめてくれた。講演の内容はヘロンさんのブログに掲載されており、またリンクする許可も頂いたので、以下に示すものである。

<講演を行う梶野渡氏>

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「新説 桶狭間合戦史」講演会聴講レポート
       http://heron.at.webry.info/200705/article_3.html

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2007.05.20

徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)

先日5月13日(日)に、桶狭間において桶狭間古戦場祭りがあり、尾張中山家御子孫S氏夫妻、ブログでお世話になっているヘロンさんたちと行ってきたので、その報告と地元の郷土史家梶野渡氏や梶野渡氏ご子息ら、桶狭間の地元の人たちから聞いた内容で、新しい知見も得たので、その説明をする。

小生、今まで桶狭間で今川義元が討たれた後、徳川家康が大高城からどのように脱出したかなど述べてきたが、桶狭間合戦について再度振り返ってみることにする。

以前、当ブログでも、この桶狭間合戦について、江戸時代に書かれた絵図から推定して「『義元本陣』の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊が展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。」と述べた。

しかし、今まで郷土史家の梶野渡氏や地元の方々から聞いた話では、今川義元が本陣を置いたのは武路山よりやや南で、田楽坪の桶狭間古戦場跡の東側の小高い丘陵地であった。それは長福寺の東を通り、北へ向かって鳴海道と合流する近崎道に沿った小松原が広がる場所であった。標高64.9mの場所もかつてはあったが、義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったという。なお、桶狭間の長福寺は、和光山天沢院と号し浄土宗西山派の寺である。長福寺があるのは、かつて桶狭間を領した中山氏の屋敷に隣接した法華堂があった場所と推定されるが、長福寺は天文7年(1538年)善空南立上人の開山となっており、桶狭間合戦の際には既に存在した。ここでは、今川義元の首実検を茶坊主の林阿弥がおこなったとされている。ちなみに、天沢院は義元の「天沢寺殿秀峰哲公大居士」という戒名にある、駿河の天沢寺に通じる号という。

義元が陣を張ったのは、「おけはざま山」の最も高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったということは、永禄3年(1560)5月12日駿府を出発し、5月18日沓掛城で作戦会議をしてきた義元がわざわざ塗輿に乗ってきたことに関係している。塗輿に乗るのは朝廷の許可が必要だったようで、馬よりも機動力がなくなるが、相手を威圧するものである。しかし、義元の誤算は、相手が普通の人間でなく、権威をものともしない織田信長であったということ。梶野渡氏によれば、塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも幅2m程の平面が必要で、上下2~2.5mくらいの空間を必要とした(前後の兵たちは槍や旗指物も持っているから、実際は上下4mくらいは必要:筆者註2007.6.19)。だから、そういう道を通ってこざるを得ず、沓掛から東浦道を南下し、阿野で大高道を西へ行き、さらに桶狭間で北上して近崎道を行ったとのことである。さらにどこへ向かっていたかと推定するに、進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか。もちろん、桶狭間で今川義元が討死してしまった以上、それ以降の企図は推論でしかないが、尾張を制圧しようとしていたことは間違いない。

<桶狭間での織田・今川両軍衝突の経路>

Okehazama2_1_4 

休息をとった場所には瀬名氏俊が義元本隊より2,3日前に来ていて陣地を設営していた。ちなみに、その瀬名氏俊が陣所を構えた場所が長福寺の裏手にあるが、かつては「セナ藪」、「センナ藪」と呼ばれ、一面竹薮であった。今は竹薮の名残りが一叢あるのと石碑が建っているだけである。

<瀬名氏俊の陣所跡>

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瀬名氏俊は、陣地を作る専門家であった。その軍評定の跡とつたえられる場所が、「戦評の松」として石碑が建てられ、枯死した松と新しく植えられた松がある。この松については、「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。まあ、それは後世に尾鰭をつけて作られたのであるが、合戦の目撃者である地元住民の禁忌として印象づけられるものがあったのであろう。

このように、今川義元本隊の行軍は、ちゃんとした街道を通り、休憩地といえども幕奉行と言われる専門家が事前に来て設営していったのである。これは梶野渡氏が当日15時からの講演で、自らの戦時中の師団参謀部勤務の経験から、軍隊は休憩地といっても綿密に事前調査や検討をしてから準備すると言っていた通りである。

<瀬名氏俊が軍議をおこなったという「戦評の松」>

Senpyounomatsu

そして義元本陣は大軍の将兵が休むことのできる場所で、先鋒である松井宗信隊や井伊直盛隊が展開していた高根山、幕山、巻山がよく見渡せ、遠く大高も望むことのできる丘陵が選ばれた。もちろん、桶狭間合戦伝説地の近くにある高徳院の裏山では収容人数だけでなく、先鋒隊を見通しにくい点から無理がある。また、それは、一部の学者が言うように、標高64.9mの最高所ではなく、近崎道から余り離れていない標高45mほどの場所であったという。なぜならば、標高64.9mの最高所は道のない山林であり、わざわざ乗ってきた塗輿を降りて、全軍歩兵となって急斜面をよじ登る必要はなかったのである。今川義元本隊は約5,000だったが、実際に本陣にいたのは、1,500程度で、その他の将兵は長福寺やほかの陣地にいたそうだ。その今川義元本陣は、今では住宅が密集しており、何も残っていない。というより、仮の陣地なのだから、残っているほうがおかしい。

<義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向うに大高がある>

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昔よく面白おかしく言われていたのは、今川義元は田楽ヶ窪、田楽狭間で勝利の宴会をはっていて、また折からの雷雨で織田勢が迂回してすぐ近くに来ているのに気付かず、高みから急襲されて田楽ヶ窪で義元以下討ち取られたということ。しかし、これは後世に作られた「話」であって、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはったということが主流の説になった。

<昔から面白おかしく言われてきた義元油断の図>

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ただ、江戸時代に書かれた軍記や紀行文などの類に田楽ヶ窪、田楽狭間に義元本陣があったというもの以外に、館狭間に義元本陣があったとするものがある。館狭間は、「館」「南館」の東にある細い谷をいう。これは全くの創作とまではいえない根拠があり、現在のホシザキ電機のある豊明市栄町南館(みなみやかた)に中世、戦国の城館と思われる「石塚山塁」があり、今川義元の墓、あるいは陣所という伝承があるからである。そこを襲われて、沓掛方面に逃げようとして国史跡に指定された桶狭間合戦伝説地の辺りで、今川将兵が討ち取られたという説明になる。もっとも、今川義元が当地に出張ってきたのは、桶狭間合戦の時だけであるから、「石塚山塁」を義元が築いたわけではない。それは、大脇城の梶川氏か、在地勢力の誰かが築いた訳であるが、誰の城館かは不明である。この「石塚山塁」を今川義元と結びつけて考える者が後世にでて、「館」という、おそらくこの中世城館に関わる地名が「お屋形様」の「屋形」の陣があったかのように付会されて、誤って伝えられたのではないだろうか。

しかし、実際に現場に行ってみればわかるが、そんな場所に陣を張っていたのでは、先鋒隊のいた高根山、幕山、巻山などを見通すことはおろか、大高方面など見えないのである。下の写真は、武路公園付近から桶狭間の主要部をのぞんだものであるが、見ている場所と角度はずれているが、かつての今川義元本陣からも、このようなパノラマが見えていた筈である。

<高所から見た桶狭間の主要部分>

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そもそも、今川義元がここまで来たのは、小説などで言われるように天下に号令をかけるために上洛しようとしたのではない。この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではなく、長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきである。すでに、織田弾正忠信秀の代に、尾張における今川氏の拠点、那古野の柳之丸を天文7年(1538)頃織田方が奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一したが、天文4年(1535)12月、「守山崩れ」でなくなり、天文11年(1542)今川氏が軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進めると、松平清康死後跡を継ぎ、今川の勢力を頼っていた家康の父、松平広忠率いる岡崎勢と今川義元の軍勢は、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、嫡子信長が一族内紛と反対勢力との抗争に明け暮れているのに乗じて、天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。一方、今川の進攻に対し、知多半島をほぼ手中にいれた水野氏は、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野の軍勢が今川軍と村木砦で合戦、織田、水野軍が勝利している。

一方、今川方としても、鳴海の山口教継を寝返らせ、大高城にも三河の鵜殿長照を入れて、尾張の喉元にクサビを打ち込んだのである。こうしてみると、永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦の戦いのリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。

だが、勅許を得た塗輿に乗り、尾張の田舎大名など一ひねりと思っていた今川義元は、織田信長が普通の思考パターンの人ではなく、「想定外」の行動をとる人物であったために、逆に討たれることになった。

その今川義元の菩提を密かに、桶狭間の住人が弔っていた。公式には、桶狭間の長福寺が今川義元や松井宗信らの供養を行ってきた(今も今川義元、松井宗信の木像がある)のであるが、明治27年(1890)に高野山から高徳院が移って来ると、義元らの供養を高徳院が行うようになり、長福寺はお株を奪われた格好になった。その公の弔いとは別に、現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。これについては、思い当たることがある。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのである。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということであろう。

<「駿公墓碣」という墓碑>

Yoshimotokuyou1

では、織田信長は、どんな見通しや戦略をもって、桶狭間合戦に臨んだのであろうか。なぜ、「東海一の覇者」と言われた今川義元は、簡単に討たれたのであろうか。それについては、長くなったので、また次回。

<古戦場祭り風景>

Musha

<同じく万灯と篝火>

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2007.05.10

東海市名和にある「トドメキ」という地名

連休中の前半は、東海市にある物流会社で、ちょっとした仕事があり、結局つぶれてしまい、後半は自宅に帰ったが、やはり連休明けの仕事に備えて早めに帰ってきたので余り長い休暇でもなかった。去年の連休は、鎌倉に行ったりして、割とのんびりしていたのだが。

<鎌倉の報国寺にて>

Houkokuji4

東海市の物流会社は、海に近いその手の会社の集まったところにある。半田からは西へ走り、常滑市内から産業道路を北上していけば近いのであるが、その行き方は最近その会社の人から教わったのであり、前は知多半島道路で大府の先に降りるか、半田街道をまっすぐ進んで東海市に入り、東海市役所の脇を通って行くかして、伊勢湾岸道より北は名和の住宅街の細い道を抜けて行った。名和の手前は、大田町、荒尾町という場所になるが、ここには大池公園や市役所などがあるとともに、なにやら城址に関係ありそうないわくありげな地名がある。「内堀」「白拍子」「大城」「坊ノ下」など。また、このあたりも「狭間」、「廻間」という地名がある。

名和は大高の西にあり、元禄頃の絵地図にもあるので、古くから開けた場所であったのであろう。この名和には、船津神社という神社がある。船津というくらいであるから、船が出入する湊、船溜りがあったのであろう。船津の津とは、湊の意味である。その昔、名和船津というのがあり、織田信長が村木砦を攻略する際に、熱田湊から海路、名和船津の辺りに上陸し、それから名和、大高を経て村木(現在の尾張森岡)まで進軍したと伝えられている。

<名和の船津神社>

Funatsujinjya

津の代わりに戸として、船戸という地名もあるが、これも同様の意味である。戸は渡に通じ、渡し舟で渡っていた渡河地点のような場所に、船戸地名が分布するのは、千葉県の印旛沼周辺での船戸地名の分布調査でも分かっている。

この船津神社の近くに、「トドメキ」という地名がある。実は、連休中の仕事で、朝協力会社の人と待ち合わせしていたら、こっちのほうが大分早く着いてしまい、時間つぶしに周囲を車でまわっていたときに、「トドメキ」という地名表示が交差点にあるのに気がついた。

<「トドメキ」地名の表示にある交差点>

Todomeki

この「トドメキ」地名については、面白いいわれがある。船津神社の縁起に曰く、「平治元年(1159)源義朝が長田忠致に殺害された際、家来の渋谷金王丸が義朝の首を奪い返そうと、長田の後を追って神社の前を過ぎ、橋を渡ろうとしたが馬がどうしても進まないので、これは船渡大神の神意の故であろうと、神前に引き返し三条小鍛冶宗近を奉納するとようやく進むことが出来た、世にこれを下馬代の宝刀といい、その橋を今トドメキ橋という。
後、正親町(おうぎまち)天皇の代永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。」 いったん奉納された小鍛冶宗近が、なぜ永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられたのか分からないが、永禄3年(1560)といえば、桶狭間合戦の年である。その頃、今川方の勢力が当地にもおよんだということか。

なにやら、源義朝や今川義元というビッグネームが出てくるが、特に前半部分は俄かに信じがたい。特に「トドメキ」地名のおこりである、トドメキ橋は、すなわち「留め置き」の橋だというのだが、なぜ神様が主君の仇を討とうとする家臣を留め置くのか、理由が分からない。

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。法山寺は、野間大坊から東へ700mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。

この源義朝が長田忠致に討たれた話は、相当インパクトがあったようで、それにまつわる伝説は野間だけでなく、筆者の住んでいる武豊にもあって、当地に流れ着いた僧を村人が助けたら、僧は実は源 義朝を討った長田忠致の子孫で、先祖の罪の償いと義朝の供養のため当地に庵を結び、地蔵尊を祀った。その僧は徳正道慶和尚で、その庵は慶亀山徳正寺となったという。

<源義朝が討たれたという湯殿跡>

Yudonoato

このような伝承が遠く、名和にまであるのが面白い。もちろん、前述の船津神社縁起の渋谷金王丸が云々は「話」であって、「トドメキ」を漢字表記した川や橋の名前として、土留木川とか土留木橋というのがあり、木を留めるという意味であることが一目瞭然である。つまり、名和船津には、貯木場もあり、その木を留めていた川が土留木川と呼ばれ、「トドメキ」という地名を派生させたのであろう。

土留木川周辺の地図

名和には、渋谷金王丸は来なかっただろうが、織田信長が上陸云々は地理的にみて、ありうる話である。また、桶狭間合戦の際に、一向宗の僧で弥富二之江の領主である服部左京助は今川義元方につき、船団を率いて大高河口にいて、熱田に放火したように、今川の影響力は知多半島西岸に及んだから、船津神社の縁起に今川義元が登場してきても不思議ではない。名和に熱田湊に相対する船津と大高、村木へ通じる陸路があったという意味で、名和が水陸の交通の要衝であったことは、間違いない。

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2007.05.05

千葉市街地の戦災記念碑等

千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ記念碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部においては川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。

実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。

千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。

<千葉市街地に建つ戦災復興記念碑>
Chibahukkou

千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。

空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされ、中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。

6月10日の空襲の主な目標は、軍需工場である日立航空機千葉工場であり、そのなかに本工場と県立千葉高女・千葉師範学校女子部の両疎開分散学校工場が含まれていた。日立航空機の疎開分散工場は大網にも半地下工場として存在していたが、米軍の地上偵察はそちらは見逃したものの、県立高女と千葉女子師範の疎開分散工場を見逃さなかった。千葉機関区・県立千葉高等女学校・千葉師範女子部などが攻撃されたと言うことである。
この空襲で千葉師範学校女子部では、8人の生徒と、教師1人、雇員1人の計10名が亡くなり、多数の負傷者をだした。

さらに、悲惨なことには、この空襲で日立航空機千葉工場に隣接する蘇我の一般住民が、空爆の狙いが誤ったことにより、152人犠牲になっている。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。蘇我の福正寺の碑には「日立航空機千葉工場爆撃の目標が僅かなる誤差により 昭和二十年六月十日午前七時五十四分 B29の爆撃により152名爆死者あり 蘇我町一丁目在住者129名なり 内124名は桜木町の市営墓地に野天に於いて合同火葬せり 各遺族は湯呑大に入りし遺骨を受け 残る遺骨は此の墓石下内に合同埋骨せり 爆撃に逝きたる人や碑となりて永久にねむりて平和の守り 松籟」とある。

<空襲で焼失した千葉女子師範の記念碑>
Chibajyoshi

<蘇我の福正寺にある空襲犠牲者の墓~十七回忌である1961年建立>
Sogafukushoji

また、6月10日の空襲では、国鉄千葉機関区(現在のJR千葉駅、そごう周辺)も標的とされ、軍需工場だけでなく、鉄道網の中枢も破壊し、交通、輸送を遮断することをも米軍は計算していたことになる。この空襲で、国鉄千葉機関区では、職員と動員学徒の合せて23名の犠牲者が出た。千葉機関区には、佐倉中学校や国民学校の生徒らが、連日80名ほど動員され、彼ら動員学徒は石炭の積込みや機関車の掃除などの仕事を行っていた。不幸中の幸いで日曜日であったため、動員学徒は4人しかいなかったが、うち中学生1名、国民学校生徒1名が犠牲となった。

軍需工場などの空襲でよくあるように、この空襲でも動員学徒から犠牲者が出た。

<国鉄千葉機関区跡に建つ「礎」の碑>
Ishizue 

さらに、7月7日の空襲では、千葉市街地そのものが、目標とされた。現在のJR千葉駅の南、三越の近くにあった富士見国民学校も、この空襲で焼失した。この空襲では、焼夷弾が降り注ぐなか、都川周辺や海岸、寒川地先埋立地などの避難場所に逃げた人々に、小型機による機銃掃射が加えられた。

<富士見校の碑>
Fujimikouhi

このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。

戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。

<千葉神社と南側にあった大日寺跡の通町公園>
Tourimachikouen
 
<移転後の大日寺>
Dainichiji
 
この記事は、森兵男 『千葉県の戦争遺跡』より転載
(なお、最後の大日寺の写真は、当ブログ筆者mori-chanが付け加えました)

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