東海市名和にある「トドメキ」という地名
連休中の前半は、東海市にある物流会社で、ちょっとした仕事があり、結局つぶれてしまい、後半は自宅に帰ったが、やはり連休明けの仕事に備えて早めに帰ってきたので余り長い休暇でもなかった。去年の連休は、鎌倉に行ったりして、割とのんびりしていたのだが。
<鎌倉の報国寺にて>
東海市の物流会社は、海に近いその手の会社の集まったところにある。半田からは西へ走り、常滑市内から産業道路を北上していけば近いのであるが、その行き方は最近その会社の人から教わったのであり、前は知多半島道路で大府の先に降りるか、半田街道をまっすぐ進んで東海市に入り、東海市役所の脇を通って行くかして、伊勢湾岸道より北は名和の住宅街の細い道を抜けて行った。名和の手前は、大田町、荒尾町という場所になるが、ここには大池公園や市役所などがあるとともに、なにやら城址に関係ありそうないわくありげな地名がある。「内堀」「白拍子」「大城」「坊ノ下」など。また、このあたりも「狭間」、「廻間」という地名がある。
名和は大高の西にあり、元禄頃の絵地図にもあるので、古くから開けた場所であったのであろう。この名和には、船津神社という神社がある。船津というくらいであるから、船が出入する湊、船溜りがあったのであろう。船津の津とは、湊の意味である。その昔、名和船津というのがあり、織田信長が村木砦を攻略する際に、熱田湊から海路、名和船津の辺りに上陸し、それから名和、大高を経て村木(現在の尾張森岡)まで進軍したと伝えられている。
<名和の船津神社>
津の代わりに戸として、船戸という地名もあるが、これも同様の意味である。戸は渡に通じ、渡し舟で渡っていた渡河地点のような場所に、船戸地名が分布するのは、千葉県の印旛沼周辺での船戸地名の分布調査でも分かっている。
この船津神社の近くに、「トドメキ」という地名がある。実は、連休中の仕事で、朝協力会社の人と待ち合わせしていたら、こっちのほうが大分早く着いてしまい、時間つぶしに周囲を車でまわっていたときに、「トドメキ」という地名表示が交差点にあるのに気がついた。
<「トドメキ」地名の表示にある交差点>
この「トドメキ」地名については、面白いいわれがある。船津神社の縁起に曰く、「平治元年(1159)源義朝が長田忠致に殺害された際、家来の渋谷金王丸が義朝の首を奪い返そうと、長田の後を追って神社の前を過ぎ、橋を渡ろうとしたが馬がどうしても進まないので、これは船渡大神の神意の故であろうと、神前に引き返し三条小鍛冶宗近を奉納するとようやく進むことが出来た、世にこれを下馬代の宝刀といい、その橋を今トドメキ橋という。
後、正親町(おうぎまち)天皇の代永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。」 いったん奉納された小鍛冶宗近が、なぜ永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられたのか分からないが、永禄3年(1560)といえば、桶狭間合戦の年である。その頃、今川方の勢力が当地にもおよんだということか。
なにやら、源義朝や今川義元というビッグネームが出てくるが、特に前半部分は俄かに信じがたい。特に「トドメキ」地名のおこりである、トドメキ橋は、すなわち「留め置き」の橋だというのだが、なぜ神様が主君の仇を討とうとする家臣を留め置くのか、理由が分からない。
源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。法山寺は、野間大坊から東へ700mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。
この源義朝が長田忠致に討たれた話は、相当インパクトがあったようで、それにまつわる伝説は野間だけでなく、筆者の住んでいる武豊にもあって、当地に流れ着いた僧を村人が助けたら、僧は実は源 義朝を討った長田忠致の子孫で、先祖の罪の償いと義朝の供養のため当地に庵を結び、地蔵尊を祀った。その僧は徳正道慶和尚で、その庵は慶亀山徳正寺となったという。
<源義朝が討たれたという湯殿跡>
このような伝承が遠く、名和にまであるのが面白い。もちろん、前述の船津神社縁起の渋谷金王丸が云々は「話」であって、「トドメキ」を漢字表記した川や橋の名前として、土留木川とか土留木橋というのがあり、木を留めるという意味であることが一目瞭然である。つまり、名和船津には、貯木場もあり、その木を留めていた川が土留木川と呼ばれ、「トドメキ」という地名を派生させたのであろう。
名和には、渋谷金王丸は来なかっただろうが、織田信長が上陸云々は地理的にみて、ありうる話である。また、桶狭間合戦の際に、一向宗の僧で弥富二之江の領主である服部左京助は今川義元方につき、船団を率いて大高河口にいて、熱田に放火したように、今川の影響力は知多半島西岸に及んだから、船津神社の縁起に今川義元が登場してきても不思議ではない。名和に熱田湊に相対する船津と大高、村木へ通じる陸路があったという意味で、名和が水陸の交通の要衝であったことは、間違いない。
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私の住んでいる住所は百目貫です。読みは「どうめき」。伊達政宗が襲来した相馬勢を国境の「留めの柵とどめのき」で防いだという史実があります。とどめのきーとどめきーどめきーどうめき、という変遷があるようです。
伊達関係では二本松に百目貫城跡が現存しています。
土塁が普通だった室町末期の戦国時代の通称がとどめきだったのではないでしょうか。
福島県猪苗代町 0242ー62ー2437
投稿: 磯川広昭 | 2012.05.13 17:48