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2007.05.28

徳川家康と知多半島(その25:桶狭間古戦場を行く<中編>)

永禄3年(1560)5月19日の桶狭間での決戦の際、今川義元本陣を襲った織田軍の動きについては、徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2007/05/eee.htmlで述べたように、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはり、そこを正面から織田信長の軍勢が攻めたということが主流の説になったが、それ以前は迂回・奇襲説が主流であった。つまり、善照寺砦を出た信長は、東へ大きく迂回して、現在の名鉄線中京競馬場駅北にある大将ヶ根、古い地名では太子ヶ根の山上を通って、伝説地のほうの桶狭間合戦場(田楽狭間)に駆け下り、休憩し、油断していた今川勢を破ったという。これは、陸軍参謀本部の『日本戦史』でも、奇襲作戦の一典型として取り上げ、喧伝され、実際の日本軍の野戦などでも、これに似た無謀な作戦が展開されて、多くの犠牲を出した。

<従来の迂回奇襲説での織田・今川軍の進路と実際の進路>

Okehazama2_1_5

今川義元は5月17日(『信長公記』の記述)あるいは5月18日(17日は池鯉鮒に留まっていたと想定)に沓掛に陣を置いた。そして、5月18日夜には大高城へ松平元康、後の徳川家康を遣わし、兵糧入れを行った。一方、織田信長は、ちょうどその頃家老らを集め、合戦前夜の会議をおこなったのだが、世間話だけで作戦らしきものを述べず、胸に秘めたものがあった。潮が満ちて援軍の出しにくい明方を狙って、松平元康が佐久間大学盛重の守る丸根砦を、同時に朝比奈泰朝が織田秀敏と飯尾定宗父子の守る鷲津砦を攻めたのは翌日未明であるが、既に18日夕方には丸根・鷲津の両砦を今川方が攻めてくるのは確実と、佐久間盛重、織田秀敏から信長に注進がされていた。それ以外にも、沓掛の簗田政綱などから情報があがっていたものとみられる。そして、翌日明方になって松平元康が丸根砦を攻めている頃に、織田信長は動きだした。その時の様子を『信長公記』は、以下のように書いている。

「今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。

案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆

岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。」

<熱田神宮>

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(熱田神宮の写真はウィキメディア・コモンズより)

熱田は当時湊であり、海の向こう遠く大高まで見渡せた。そこで19日朝8時頃、熱田の宮の前から、丸根、鷲津の両砦が炎上した煙がすうっと上っているなかを、信長主従六騎は駆けた。熱田からは海岸線を行けばはやいが、潮差し満ちて馬の通行に不便なため、上手の道を飛ばして、丹下の砦に行き、佐久間信盛が守る善照寺砦に入った。そこで、将兵を終結させ、佐久間に兵1,000名を残し、信長は2,000名の兵を率いて善照寺砦を出て、敵に程近い中島砦に入り、さらに桶狭間を目指して突き進んだ。

この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあった。現在、民家の庭先に石碑が残っているのみ。信長は、中島砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであるため、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。中島砦を守っていたのは、梶川一秀である。梶川氏は、丹羽郡楽田の出身であり、現・豊明市大脇や現・大府市の横根に拠点を持っていた水野氏配下の梶川氏とは関連ないかもしれない。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいたのである。

<桶狭間古戦場公園にある鞍流瀬川から発見された古戦場の碑>

Okehazamahi

なお、信長が善照寺砦まで来たのを知った、佐々政次、千秋季忠は兵300人を率いて、高根山、幕山の松井宗信率いる今川勢に向かい、佐々・千秋のニ将を含めた50人が討死を遂げた。これは、無鉄砲に飛び出していったのではなく、一種の陽動作戦であった。彼らの犠牲があって、織田の本隊の動きが、高根山、幕山にいた今川先遣隊に知られず、織田本隊は今川義元の本陣に迫ることができたといって良い。

<高根山の松井宗信陣跡から東の武路方面を望む>

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「信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。
無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。

今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

もともと、今川の軍勢は約2万5千、それも鳴海、大高などにも分散しており、今川軍本隊ともいうべきは5千人ほどで、正式な侍はその3分の1ほどであった。「おけはざま山」の義元本陣には約1,500人ほどがおり、その他は長福寺、巻山などにもいた。『信長公記』の今川勢四万五千というのは、明らかな誇張である。そして、将兵も三河、遠江の諸士も混ざっており、今川譜代といえない人々も多く、また長い行軍で疲れていた。したがって、必ずしもモラールの高い状態でなかった。

さらに、織田信長の運がよかったのは、その頃ちょうど夕立があったことである。これは、「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり」という表現に表れている通り、信長軍にとってはまさに天佑神助であった。

桶狭間に入り、生山(はいやま)の下の谷に入った頃、夕立は本降りとなり、織田勢は武路釜ケ谷(たけじかまがたに)に侵入し、今川勢への攻撃の機を窺った。この武路釜ケ谷とは、現在の名古屋短大の敷地南西側にある谷合であり、今川義元本陣の北側にあたる。

<織田勢が侵入した武路釜ケ谷>

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折からの夕立で、義元本陣から視界は悪く、人馬の足音や具足の擦れる音も激しい雨音と雷鳴に掻き消され、義元本陣は織田勢がすぐ近くまで迫っていることに気付かなかった。それだけでなく、梶野渡氏によれば、標高約45mの山腹に4、5mの長さの槍を持っていることは、その人数分、つまり約1,000本の避雷針を10階建てビルの屋上に立てておくのと同様で、落雷を避けるために、今川兵は槍を伏せ、具足などの金属類も遠ざけていたらしいのである。信長の方は、落雷をものともせず、一気に駆け抜けた。

槍や具足を投げ出して、落雷を避けていたときに陣地を急襲された、今川勢本隊は、少なからず混乱した。近くの台地に展開していた先遣隊と合流しようと台地を下りたものと思われる。しかし、移動しようとした兵たちは低地にある深田で足を取られ、次々に討ち取られた。高根山、巻山にいた今川勢先遣隊からも、本陣の様子は見えたが、救援に下りたものの、低地にある泥田が行く手を阻んだ。しかも、既に先回りした織田勢の一部が待ち構えていた。今川義元も旗本に守られて逃げ回ったあげく、最初義元を守って300名ほどで円陣をなしていたのが徐々に切り崩され、取り巻く武士達も減り、最後には自ら太刀をふるって、槍をつけられた服部小平太の膝頭を斬り割ったり、組み付いた毛利新介の指を噛み切ったりして抵抗した。「東海の覇者」といわれた今川義元も、乱戦の末、結局毛利新介に首級をあげられてしまう。『信長公記』は、このときの状況について、以下のように描写している。

<今川義元討死の地か、古戦場公園にある馬つなぎの杜松の木>

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「初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。」

しかし、なぜ織田信長は、今川の大軍の本陣をピンポイントで特定し、そこに急襲をかけることができたのか。そもそも、織田信長が今川勢の本陣を目指したのは、兵力を鳴海、大高と各地の先遣隊など、分散し、かつ今川義元本隊が輜重兵、軍夫を入れて5,000名ほどで、かつ細い道を通っていたために、行列の何処かを襲えば、敵を十分撹乱できるという読みからであった。それが、夕立という自然現象の助けもあって、意外に義元本隊は動きが遅く、桶狭間に留まっていたため、結果的に義元を討ち取ることが出来た。しかし、義元本隊がどう動いているかは、逐次情報を得ていた模様である。また、土地の事情に詳しい簗田政綱のような、情報提供者もいた。もし、的確に義元本隊の位置を把握していなければ、織田軍の怒涛のような動きもまったく意味のないことになる。

このように、今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。

<桶狭間古戦場祭り風景>

Taiko

桶狭間合戦が情報戦であったといわれる所以は、論功行賞において、実際に今川義元を討ち取った毛利新介や服部小平太が功名第一ではなく、一番手柄は今川義元本陣を正確に把握し、これを織田軍に伝えた簗田政綱であったことにある。その他、今川方の陣地設営にかり出されたであろう、桶狭間住民、桶狭間に知行地のある中山氏たちも、織田方への情報提供に一役かっていたと思われる。

実は桶狭間を領した中山重時(岩滑城主中山勝時の父)は、天文23年(1554)2月、水野氏が三河において今川・松平への対抗拠点とした重原城にて、織田方の山岡伝五郎を援助し、今川勢に討たれている。それは永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦より、6年前のことであった。跡を継いだ中山勝時は、父の仇である今川の軍勢が、自らの所領である桶狭間に本陣を据えて、尾張の中央突破を目指していたのをどう見ていたのであろうか。

しかし、今川義元は尾張併合をすることができず、桶狭間の露と消えた。その嫡子、今川氏真には義元の跡を継いで、その野望を実現する器量なく、家臣の離反により駿府を維持することすらままならなかった。そして、今川氏真は駿河への武田氏の侵攻を許し、今川方の先鋒として活躍した松平元康も、大高城脱出後、岡崎に戻り、そのまま岡崎に腰を下ろし、氏真と対立することになる。今川義元の討死以降の松平元康、後の徳川家康の動向については、次回。

なお、本稿を書くにあたって、5月13日に桶狭間の長福寺で行われた梶野渡氏の講演 を拝聴し、またその内容をブログに記載する許可も頂いた。その記録は、同行したヘロンさんが、丁寧にまとめてくれた。講演の内容はヘロンさんのブログに掲載されており、またリンクする許可も頂いたので、以下に示すものである。

<講演を行う梶野渡氏>

Kajinoshikouen_3

「新説 桶狭間合戦史」講演会聴講レポート
       http://heron.at.webry.info/200705/article_3.html

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