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2007.06.20

グラマンヘルキャットの空襲をうけた河和海軍航空隊

Shurikoujyoato2_1
愛知県知多郡美浜町にあった河和(こうわ)海軍航空隊は、1943年(昭和18年)6月、追浜海軍航空隊知多分遣隊として開設され整備教育などを行った第一航空隊と小松島海軍航空隊知多分遣隊が独立改組され、水上機の操縦訓練および実戦配備を目的とした第二航空隊とあり、その設置場所も、第一航空隊が旧古布地区の南側の内陸部丘陵地帯に展開していたのに対し、第二航空隊は旧古布地区およびその北側の海沿いの低地にあった。

この航空隊も、太平洋戦争末期には米軍機による空襲をたびたび受けている。

ブログ「御塩倶楽部」によれば、1945年(昭和20年)7月25日に空母二隻から飛び立った米軍機によって攻撃されたとある(なお、「御塩倶楽部」のURLは以下)。
http://blogs.yahoo.co.jp/iso710ookina/folder/65513.html#34049907

(以下、引用)
米国戦略爆撃調査団報告によると、1945年7月25日 空母レキシントンから「F6F-5グラマンヘルキャット」5機と「F4Uコルセア」2機の合計7機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

格納庫と作業場を破壊。

12時に発艦、帰艦16時。


 同日 空母サンジャシントから「F6Fグラマンヘルキャット」10機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

写真撮影もした。

この時撮影された航空写真を見ると、第1河和海軍航空隊の機体整備場付近から煙が上がっている。

機体整備場の基礎は、以前も紹介したが今も2列残っている
(引用、ここまで)

このように、1945年7月25日に「F6F-5グラマンヘルキャット」都合15機と「F4Uコルセア」2機の計17機の米軍機に河和航空隊が攻撃されたわけである。

どういうわけか、米国戦略爆撃調査団報告にのっている話が、去年小生の親戚が見に行ってくれて撮ってきた美浜町の河和航空隊展の年表には出ていなかったか、日付がマッチしていないようである。その年表では1945年7月の記事としては、24日朝7時に米軍機P51、グラマン等十数機来襲し、ロケット弾、機銃攻撃(同日、隣接する半田市・武豊町も空襲をうけている)、26日も米軍機によりロケット弾、機銃攻撃とある。10日さかのぼる7月15日にも名古屋方面や三河湾からきた米軍機37機以上が機銃掃射、急降下反復攻撃となっている。つまり、美浜町が掲示していた年表にはない日付で、米軍側の資料では攻撃したとなっており、記録の間違いか、空襲が一つ美浜町の年表には漏れていたのか、検討の余地があろう。

しかし、このような攻撃を受けても、迎撃する水上機は高高度を飛ぶことができず、接敵もままならなかった。
敵機が多く来襲した7月15日の空襲の折にも、わが海軍航空隊が撃墜できたのは一機のみであった。
(写真は第一河和海軍航空隊の機体整備場跡)

<森兵男「海鷲よ甦れ」 http://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/ より転載>

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2007.06.02

徳川家康と知多半島(番外:桶狭間古戦場まつり写真集)

先日、5月13日(日)に行われた桶狭間古戦場まつりで筆者が撮影した写真を公開する。なお、桶狭間の皆さんには、昨年の岩滑でのイベントに続き、またお世話になった。写真には人物も写っているが、プライバシーの関係で、顔がはっきり写っているのは入れないようにした。あまりうまく写っていないのもの(途中でデジカメのバッテリーが切れて、携帯でとったのと、筆者の腕が未熟なため)があるが、ご容赦あれ。

<桶狭間古戦場まつりのノボリ>

Arimatsusibori

有松絞りかな?

<長福寺本堂>

Choufukuji_1

長福寺は西山浄土宗の寺。桶狭間合戦当時、すでに当地に存在していた。阿弥陀如来を祀り、今川義元、松井宗信の木像がある。薄いグリーンの上着を着ているのは、Kさんら地元のガイドの方たち。一緒にまわった人たち(Hさん、Wさん)の姿もちらほら。

<長福寺の蓮池>

Hasuike

いずれがアヤメかカキツバタ?

Ayamekakitsubata_1

<桶狭間の古い湧き水>

Wakimizu_1

昔、桶狭間は南北朝時代の終わりに、南風競わず落ち延びた、梶野、青山両氏がひっそりと暮らし、後に近江の中山氏が入ってきて共同で生活していた。そのときから生活用水や田の水として使っていたのが、この湧き水という。

<林阿弥が首実検をさせられた場所で説明を聞くまつり参加者>

Rinamikubijikken

林阿弥(りんあみ)は今川の茶坊主で同朋衆といわれる。桶狭間合戦時に織田方に捕らえられ、この場で今川義元の首実検をさせられたという。なお、林阿弥は合戦で捕らえられたが、命は助けられ、後に長福寺に寄進もしている。

<長福寺の西側を流れる鞍流瀬川>

Kuranagasegawa

文字通り、合戦の後、鞍が流れていたから、そう呼ばれるのだそうだ。今は暗渠のようになっており、一部地上に顔を出しているが、前はもっと広い川だったらしい。

<今川義元本隊が行った近崎道~桶狭間と現在の大府市北崎を結ぶ>

Chikasakimichi

近崎道がそんな場所を通っていたかというコメントをいただいたが、現にあるし、古地図にものっているのだから仕方がない。

<義元本陣があった場所から西に大高方面を望む>

Yoshimotohonjin

<織田方が攻撃の機会をうかがっていたという武路釜ヶ谷>

Takejikamagaya

柵の向こうは、名古屋短大の敷地になっている。

<七つ塚>

Nanatsuduka

住宅地の一角にあり、なかなか見つけ難い。武路公園の近くにある。路地の奥のような場所にあり、説明し難い。合戦後に織田方から戦死者を埋葬するように言われた村人が、塚を七つつくって埋葬したと伝える。それでは、戦人塚のほうは何なの?となるが、中山氏出身の快翁龍喜和尚が引導供養をした故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。

<武路公園付近より古戦場公園を望む>

Takejikouen

正面の白い二階家の上に黄緑の新緑が見えるあたりが、今川義元戦死の地と伝えられる桶狭間古戦場公園。

<桶狭間古戦場公園の古戦場案内図>

Kosennjyouchizu

古戦場公園の地図は多少デフォルメされている。義元軍は東浦街道、大高道を西へたどり大高をめざした。途中、近崎道を北上したのは単なる休憩のため? それにしても、当時は国道一号線も、江戸時代の東海道もありませんからー、残念(いつの間にか、ギター侍になっている)。

<「駿公墓碣」という小さな墓碑>

Sunkouboketsu

現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑は、以前頭を少し地上に出して埋っていた。これは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。

<馬つなぎの杜松の木>

Nezunoki_1

今川義元の馬を繋いだという伝説のある杜松(ねず)の木。義元は輿に乗って、いざというときに備えて馬も連れてきたのか。しかし、後で述べる戦評の松と同様、ここにもちょっと怖い、今川義元の伝説がある。

<泉水跡>

Okehazamanoido

<戦評の松>

Senpyounomatsu_1

瀬名氏俊がここで軍評定をしたという。もともとの木は、伊勢湾台風で倒れてかれてしまい、今のはその際に植え替えたもの。

<「戦評の松」の碑>

Senpyoumatsuhi

「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。

<祭り風景・・・太鼓>

Taiko_1

Taiko2_1 

<武者揃え>

Musha_1

なぜか、武者が老若男女いる。

<大池での万灯会>

Mantou

Mantou2

Manto3_1

この灯は、三千人余りの戦死者の数にあわせて、三千あるそうだ。「戦争は絶対にしちゃいかん」という郷土史家、梶野渡氏の言葉が耳に残った。

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