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2007.07.18

徳川家康と知多半島(その27:桶狭間古戦場を行く<後編>)

桶狭間合戦の織田勢の勝因、言い換えれば今川勢の敗因については、「桶狭間古戦場を行く<中編>」で大体述べた。すなわち、「今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。」と書いた通りである。

しかし、織田勢が勝った理由は、それだけであろうか。いくら地理的な条件や自然現象が有利に働こうと、いち早く的確に情報を握っていようと、実際に戦闘局面で生かせなければ意味がない。その用兵の面でも、織田勢が勝つ要因があったと思われる。

<清洲公園の織田信長像>

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今川義元が討死した当日の様子を振り返れば、以下の『信長公記』の記述にあるとおり、織田信長はわずかな手勢を率いて清洲を発ち、熱田を経て、鳴海方面へ突っ走っている。そして、丹下の砦にまず入り、次に善照寺砦へ移っている。

「浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

信長が善照寺砦に入ったのは、鳴海城と数百メートルしか離れていないのであるが、善照寺砦が鳴海、大高両城に対する付け城五砦、すなわち丹下、中島、善照寺、鷲津、丸根のうち最も大きく、今川勢に対する前線基地として兵力を集中させるのに最も適していたからである。しかし、清洲からいち早く善照寺砦に移っていれば、今川勢先遣隊との小競り合いなどで兵を減耗させてしまいかねなかった。

<鷲津砦址>

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信長は、合戦当日の5月19日なってはじめて、清洲を出て、善照寺砦に入ったのである。ちなみに、善照寺砦や次いで信長本隊が入った中島砦も、今川勢先遣隊からは見渡せる位置にあり、信長本隊の動きも今川勢の知るところであった。この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあり、この砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであった。ゆえに、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいた。

<丸根砦址から大高方面を見る>

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では、信長が善照寺砦に入ったことを知った千秋四郎・佐々隼人正が今川先遣隊にぶつかっていった行動は、単なる抜け駆けの功名を目指したものであろうか。300人といえども貴重な兵力であったはずである。それをなぜ、今川先遣隊との戦いに振り向けたのだろうか。

これは、信長が善照寺砦に3,000名の兵を集結させながら、1,000名を残し、2,000名を率いて義元本隊を目指したのと関係している。つまり、信長本隊は善照寺にあって、千秋・佐々の別働隊を今川先遣隊にぶつけ、鳴海近くに出張っていた今川先遣隊を善照寺砦に引き付けておいて、自らは中嶋砦を経て、一直線に「おけはざま山」を目指したのである。信長は、千秋らの戦いを見届けてから、善照寺砦を出ている。あくまで、信長本隊は善照寺砦にいるように見せるためと、もし今川先遣隊が千秋・佐々の別働隊を破り、余勢をかって善照寺砦に押し寄せた場合に備えて、善照寺砦に1,000名の兵を残したのであろう。

ここで、信長が今川義元の首級を最初から狙っていたかといえば、そうではなく直接的には今川本隊のどこかを襲って混乱させ、それに乗じて本隊の戦力低下のダメージを与えるということであったと思われる。さらに、鳴海城包囲陣で、鳴海城を奪回することも当然考えていたであろう。
信長にとって幸運にも、今川先遣隊から義元本隊に信長本隊が移動して迫ってきている旨、伝達される以前に、信長本隊は義元本隊を捕捉した。これは、まさに願ってもいない千載一遇の好機であった。

<桶狭間長福寺の蓮池>

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今川義元の部隊は、延々と駿府から行軍してきたのであり、兵力がまさるといっても小荷駄隊などを含んだ人数がまさっているだけであり、実際の戦闘要員は義元本隊が5,000名として、うち1,500名程度に過ぎなかったという。それに対し、信長本隊は戦闘要員ばかりの2,000名である。彼我の戦闘能力は、本隊同士でみれば織田勢のほうが勝っていたといってよい。メンタル面でも、駿河、遠江、三河の混成軍団である今川勢とくらべて、織田勢のほうが結束力が強く、士気も高かった。したがって、戦闘自体で信長本隊が勝ったのは、何ら驚くに値しないのである。

問題は、今川方がなぜ「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし」ということが分かっていて、わざわざ「おけはざま山」を陣地としたかである。5月17日には瀬名氏俊が桶狭間に来て陣地を設営したのであるが、もとより、今川義元の塗輿での往来は2m程の平面、2~2.5mの高さの空間が必要であったのは前記の通りである。それだけでなく、地盤の悪い低湿地や渡河に労力のかかる場所は避けたと思われる。沓掛から阿野を経て大高道を大高に向かっている途中のどこかで休憩をとるならば、当時村があったのは大脇、桶狭間くらいしかない。桶狭間と大高の間にも江戸時代には集落ができるが、それは新田開発に伴ってのことであろう。人家があって飲み水などを分けてもらうことができる、兵を休ませるのに都合の良い平地、または緩やかな斜面がある、塗輿で来た義元一行が進軍できる道が麓にめぐっている、大将が先遣隊のいる高根山や鳴海方面などを見渡せることができるというと、やはり本陣をおくのは「おけはざま山」と今川方は考えた。

<義元本陣推定地からみた現在の桶狭間>

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桶狭間特有の台地と低地が入り組み、幕山などと「おけはざま山」の中間にあたる低地には深田や鞍流瀬川などの水路があって通行しにくいという欠点は、大部隊の通行には大きな障害であり、それで義元本隊は台地上で歩きやすい近崎道を行ったのであろう。間に低湿地があることは、本隊と先遣隊のいる高根山、幕山、巻山との連絡においても不利であったが、数名の使者が往来する程度であれば、大きな問題にならなかった。しかし、今回は信長本隊の攻撃に際して、先遣隊が今川義元本隊に急ぎ合流するような機敏な対応が必要であったが、それが桶狭間の地形からしてうまく出来ない状況にあった。今川勢は、自らを逃げ場のない袋小路に追い込んだといっても過言ではない。もし、太原雪斎禅師が生きていて軍師を務めていたら、このような誤りはおかさなかったに違いない。

<田楽坪の今川義元墓碑「駿公墓碣」>

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織田勢の急襲をうけ混乱した義元本隊は、「おけはざま山」を降りて、田楽坪に出たが、彼らを待っていたのは今川先遣隊ではなく、先回りした織田勢であった。塗輿を目印に本隊の位置を確認された今川義元は塗輿から馬に乗り換え、旗本に守られて、本来の行き先である大高方面に逃れようとしたようである。そして、取り巻く旗本が減っていくなか、最後は自ら太刀を振るって戦い、服部小平太の膝頭を切り割ったが、毛利新介に討ち取られた。「東海の覇者」といわれ、足利尊氏と同じく治部大輔から三河守となった今川義元が、このような最期を遂げたことは、その当時の人に衝撃を与えたであろう。自ら太刀をふるって奮戦し、最後に討ち死にしたのは将軍では足利義輝、守護大名では今川義元くらいである。

<今川義元の胴塚~豊川市牛久保>

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かくして、おそらく織田信長も予期していなかった今川義元本隊の偶発的な崩壊と義元自身の戦死によって、幸運にも織田信長は勝ちを拾った。今川義元の戦死は、今川全軍に伝わり、即日退却する将兵が多かった。大高城の松平元康、のちの徳川家康には、一説によれば、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。しかし、これは真相がよくわからず、大体桶狭間合戦での緒川・刈谷水野氏の動向が今ひとつ不明であるから、なんともいえない。確かに織田方に水野帯刀や梶川一秀(あるいは大脇の梶川氏と関係ないかもしれない)といった水野氏系と見られる人は登場するが。

<緒川水野氏が本拠とした緒川城址>

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それはともかく、大高城の松平元康や鳴海城をよく守った岡部元信以外の今川方武将は今川義元の戦死を聞き、さっさと撤退してしまった。この時の様子を『信長公記』や『三河物語』は、以下のように書いている。

「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、五ヶ所同事に退散なり。」(信長公記)

「岡部之五郎兵衛ハ、義元打死被成、其故、扉(沓)懸之入番衆モ落行共、成見(鳴海)之城ヲ持傾(固)テ、其故、信長ヲ引請て、一責責らレて、其上にて降参シテ城ヲ渡シ(以下略)」 (三河物語)

岡部五郎兵衛とは岡部元信のことであるが、岡部元信は鳴海城をよく守り、義元討死の報に接して沓掛の入番衆たちが早くも撤退したあとも持ちこたえたが、信長に降伏して一命を助けられた。そして信長に要請して、今川義元の首級を駿河に持ち帰ったという。いずれにせよ、前線にいた今川将兵は撤退するか、織田方の捕虜となったかで、戦線は崩壊した。

そして、すでに桶狭間合戦が始まる前に家督を継いでいたという今川氏真が、復仇のいくさを織田信長に対して仕掛けることもなく、松平元康が岡崎城を「拾い城」として入城し、自立するとともに、甲斐武田氏が領土を侵食、家臣団も分裂していくという事態へと転げ落ち、いわば自滅する形で今川家は戦国大名としての地位を失っていく。もし、今川義元のあとを継いだのが義元クラスの一級の武将であったなら、こうした事態にはならなかったであろう。これも、織田信長の強運なところであった。

<桶狭間の長福寺の供養塔>

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今川義元以下、戦死した今川方の将兵の菩提は、桶狭間の長福寺や近隣の寺院などでも弔われている。大脇の曹源寺二世の快翁龍喜和尚は、水野貞守以来水野氏配下の部将であった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったというが、その快翁龍喜和尚は桶狭間合戦後、戦死した今川将兵の引導供養をし、その配下の僧が戦死者の埋葬の指揮をしたという。戦人塚は、その埋葬の場所というが戦場から離れすぎており、山の頂上のような場所で埋葬に適していると思えない。これは、その故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。桶狭間古戦場公園の近くに、七つ塚という埋葬伝承をもつ塚があるが、そちらのほうが戦死者の埋葬場所としてリアリティがある。

<七つ塚>

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それでは、徳川家康は如何にして、今川家から独立していったのか、次回以降その過程を探っていくことにしたい。

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2007.07.07

徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>)

「徳川家康と知多半島」の「その24:桶狭間古戦場を行く<前編>」に今川義元が通ったと推定される近崎道について書いたところ、思わぬ反響?があり、他の記事の件でも、既知の情報を何かブログに書くこと自体に対する非難があった。それで、暫く忙しさにかまけて、ブログに記事を掲載するのをやめていたのだが、桶狭間を通る近崎道については梶野渡氏から後日教えていただいた情報など、知りえた情報を書きたいと思う。

固定観念をもつこと、「○○は△△でなければならない」というのは、真相を分かり難くする。今まで、桶狭間合戦は田楽窪という窪地で今川義元本隊が休んでいて、そこに織田信長が奇襲をかけたとされていた。歴史物の小説や映画なども、その線で書かれており、子供のときにみた中村錦之助主演の「風雲児織田信長」(1959年)などの映画でも、そう表現されていた。しかし、史実に忠実とされる「信長公記」が発表されると、「信長公記」にあるように、みな「おけはざま山」に攻め上るように書き換えられ、NHK大河ドラマの緒方直人主演の「信長」(1992年)でもそう表現されていた。

今回、あらためて今川義元本隊がたどった道を整理してみることとする。今川義元本隊が桶狭間で織田勢に敗れ、義元が戦死するまでの直近の経過は以下の通り。

永禄3年(1560)5月17日
   桶狭間で瀬名氏俊が陣を張り、義元着陣に備える。

同5月18日
 沓掛城で作戦会議。

同5月19日
 未明に丸根、鷲津砦を今川勢が攻め、これを落とす。今川義元本隊は沓掛を出て、大高道を阿野、大脇と進軍、桶狭間で近崎道に入り「おけはざま山」に着陣。中島砦を南下し、桶狭間手前の生山(はいやま)を経て、武路釜ヶ谷に潜んでいた織田勢、雷雨をついて「おけはざま山」に駆け上り、これを追い落とす。今川義元を守る旗本は三百から五十、さらに数名となり、義元は自ら太刀を振るって戦うも、毛利新助に討ち取られる。

さて、その沓掛と桶狭間とは距離にして約8Km、徒歩で2時間半あまりであり、今川義元が塗輿に乗っていて速度が6割程度と遅かったとしても4時間もあればついてしまう。桶狭間の合戦が始まったのは午後1時くらいであるから、沓掛を当日朝出たのであろう。

今川義元が馬ではなくわざわざ塗輿に乗っていたため、幅約2m程の平面、高さ2~2.5mの空間が必要であったのは前述の通りである。これを当時の道幅で考えると、幅1.5m未満の細い道はまず通ることは出来なかった。野良仕事で使うような、村のちょっとした作業道など三尺道は1mも道幅がなかったであろうから、無理である。せめて六尺道(2m弱)でないと、通行はままならなかったであろう。また道の両側に木が茂っているような山の中の道は木の枝が張り出しており、輿を担ぐ人間は通ることが出来ても、輿の上の義元が木の枝にぶつかることになり、やはり通行ができない。どうしても幅2m程度の道でないと、義元本隊は進めず、また渡河や、地盤の悪い場所の通行は極力避けたであろうから、六尺以上の道であっても低湿地の道は通らなかったと思われる。

このような不便にも関わらず、権威を見せつけようと、勅許の必要な塗輿にわざわざ乗った今川義元は沓掛を出て東浦街道を南下、阿野にいたり大高道を西へ、さらに桶狭間の現在の東ノ池の付近で近崎道を北上したと想定される。

<天保12年の「知多郡桶廻間村図面」>

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(黄色:近崎道、緑:三州道、紫:大高道、着色は筆者)

天保12年(1841)の村絵図にも、その道は描かれている。天保12年5月の「知多郡桶廻間村図面」では、北尾村へ出ることが示されている、筆者が黄色く着色した道筋が、桶狭間村からみた近崎道である。道は集落のなかの家と家、交流のある集落同士で、人や物の行き来があったから出来たのであり、北尾、近崎(現在、両村が合併して「北崎町」となっている)と桶狭間は古くは荘園時代の呼び方では尾張国知多郡英比郷のなかの隣接する村であった。内陸の桶狭間と交流があったと思われる北尾、近崎は、皆瀬川や境川の川沿いであるが、かつては緒川、刈谷の間は入江であったとされるので、北尾、近崎も水運に関わっていたであろう。それは近崎の地名の由来が「古くは、衣が浦がここまで湾入していて、近崎神明社の森のあたりは岬となっていました。この岬は、茅が繁茂した岬であったことから『チガサキ(近崎)』と呼ばれたと思われます。 なお、近崎は師崎(南知多町)・亀崎(半田市)とともに、『知多の三岬』と呼ばれたといいます」(大府市歴史民俗資料館)ということからも分かる。つまり、近崎道は、英比郷の荘園があった頃から、海辺の村と内陸部を結ぶ重要な道であったと推定される。

室町時代、戦国初期の時代には、中山勝時の父、中山重時が桶狭間、北尾の両方を治めていたということであるから、同じ領主の村である桶狭間と北尾、隣接する近崎の間で人や物資の往来があってしかるべきであり、農道や作業道のような道ではないことは明白である。ちなみに、北尾には中山氏のものか不明だが、城があったと伝承される「城畑」という地名がある。現地は現在極楽寺という寺院になっており、台地端の城があってもおかしくない地形である。隣接する横根には梶川氏の横根城があり、水野氏の勢力下にあって、これらの城は領民統治と交通の要衝をおさえるための城であったと思われる。

<中山重時が領有した北尾の「城畑」>

Shirohata

近崎道は、信長が定めた道の定義では在所道であり、幅一間(六尺)で2m弱の道幅を持っていた。塗輿で行くのには少々狭いが、何とか通ることはできただろう。そうでなければ、「おけはざま山」に着陣する二日前から、幕奉行の瀬名氏俊が来てわざわざ設営することもなかった。大将が休憩する場所をろくな道もないような所に設定するはずがない。

<伊勢池の南の近崎道>

Iseikehigashi

現在、吉川機械製作所の向かいにある伊勢池は、古くからある池で天保12年の絵図にものっているが、梶野渡氏によれば、これは伊勢講代参の禊のために使われたため、伊勢池の名前がついたという。禊に使ったくらいであるから、かつては澄んだ水が満々とあったのだろうが、今は水生植物が花を咲かせていたものの、池の水も少なく湿地帯のような状態であった。江戸時代には伊勢講で往来する人も多かったろうから、江戸時代においても、それなりの道であったのだろう。

なお、この伊勢池、寛文村々覚書では「近崎道池」となっており、その後伊勢講の禊池となって伊勢池と呼ばれるようになったそうだ。

<伊勢講の禊に使われた伊勢池>

Iseike

今でもこの道は、北崎方面からと当地から北崎方面への車の往来が激しく、会社の勤務時間が終わって、半田から車を飛ばしてきた小生、喫茶店で休憩しようと徒歩で道の反対側に渡ろうにも、なかなか渡ることができなかった。おまけに道の反対側にあった喫茶店は、たまたま休みであり、飲もうとしていたコーヒーはかつての大高道に交差する辺りにあるコンビニ、サークルKで買い求めた。

なお、伊勢池の北にあたる近崎道沿いに「伊勢」という名がつく会社があったが、これは伊勢池からついた名前ではなく、屋号からなのであろう。

<伊勢池の北、大高道と交差する辺りの近崎道~「伊勢」の名がつく会社があるが>

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それはともかく、近崎道が大高道と交差する南側は、今も交通量が多く、道路の反対側には容易に渡ることも出来ない。近崎道が大高道と交差する地点には、お地蔵さんがまつってあった。これが道標地蔵なのかどうかは、余りにお地蔵さんが古すぎ、風化していて目鼻立ちもわからないくらいなので、何がしかの字が彫られていたにしても判読は不可能である。なお、大高道も現在の郷前交差点は通らず、慈雲寺の南側を通っているなど、新道とは道筋が違うところがある。

近崎道が大高道と交差する地点の北側には、現在東ノ池と呼ばれている、かつての「石池」があり、改変されているが、その池沿いの道が近崎道である。しかし、東ノ池の北側に東西に走る道があり、それと交わる辺りの北側も住宅密集地帯であり、道筋は大幅に改変されていて、よく分からない。

<近崎道が大高道と交差する辺りにあるお地蔵さん>

Chikasakijizou

<東ノ池の北端から>

Higasiike

それを現在の地図から、推定してみる。桶狭間の地元の研究会が書いた図面を参考に、Mapfanの地図と重ねてみた。細かいところは、少し違っているかもしれないが、大まかには北尾、近崎方面から北へ伊勢池の脇を通って、大高道に交差し、東ノ池の西を通り、長福寺の裏手に出る。さらに「おけはざま山」の麓を通って、今の古戦場公園の泉水跡あたりまで出てくる。それから北は鳴海道といった方がいいのだろうが、実際現在の地蔵池は「鳴海道池」とかつては呼ばれていた。

<現在の地図に書いたかつての近崎道、大高道>

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<上図の北側>

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梶野渡氏によれば、その古戦場公園の泉水跡の辺りで、三州街道と近崎道は交わっていたそうだ。その泉は、桶狭間の名前の由来になったといわれる泉で、旅人の喉を潤したりするために桶が泉のなかに置いてあったが、湧き出す水の勢いがあったために、桶がくるくると回っていたので、「桶廻間」という村の名前がついたという伝承がある。つまり、この辺は人馬の往来が昔からあったというわけだ。

しかし、なぜ今川義元は「おけはざま山」に陣を張り、そこへ行くために近崎道を通り、またその先どうしようとしていたのか。

<桶狭間古戦場公園の泉水跡>

Sensui

「おけはざま山」の山頂(標高64.9mの最高所)が一番見晴らしがよく、今川軍先鋒のいる高根山、幕山、巻山を一望にすることができるだろうが、山頂まで木が茂り、道もないようなところを折角乗ってきた塗輿を置いて、みな徒歩姿となってのぼっていったとは考えにくい。台地中腹の標高40m~50mの小松原続きのやや平坦となった場所に陣取り、先鋒隊の陣地を一望にし、馬には水をやり、将兵たちは食事をしようとしただろう。そして、そうした今川軍陣地のそばを近崎道が通っていたのである。それ以外にも道はあったであろうが、何せ大将の義元が輿に乗っているのだから、六尺道以上の道でなければならなかった。

住宅地のなかで分かり難いが、長福寺裏手から北へ台地の縁辺を通る近崎道は、長福寺裏山の東に残っている。しかし、このあたりにくると、車もたまにしか通らない、古い住宅地特有の幅2mほどの細い道となっている。しかし、もともとこの程度の幅しかなかったのだから、伊勢池横の車の行き来の激しい地点よりも、原形を留めているというべきか。

<長福寺北側の近崎道~六尺道の名残りがある>

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ただ、今川勢のおかした過ちは、本隊と先遣隊との間にある、江戸時代に「廣坪田面」(ヒロツボトーモ)として水田化された桶狭間合戦場一帯が低湿地であり、戦国時代にも泥田があったことである。

台地上の、例えば近崎道のようなところは歩きやすかっただろうが、低地面の大池の西側を通る道周辺は以下の写真のようについ最近まで田圃だらけで、戦国時代には一面水田のなかを細い道が通っていただけだったろう。また、江戸時代の絵図を見ると、長福寺の西側に南北に鞍流瀬川が描かれている。かつては、今よりずっと水量の多い川であったらしい。桶狭間村の中心であったと思われる郷倉のあった辺りや、桶狭間神明社の近くにも川筋が見える。

つまり、今川義元本隊は間に水田があって、高根山、幕山、巻山の先鋒隊との共同行動がしにくい場所に陣取ってしまったのである。これは布陣としては、大きな失敗であった。もし、太原雪斎が生きていたら、そんな場所に今川義元を着陣させなかったろう。まさか、本隊が先鋒隊と急ぎ合流しなければならないとか、緊急を要する事態がそこで起きるとは余り思っていなかったようである。そこに、今川勢の油断があった。

<桶狭間神明社>

Sinmeisha

その今川義元本隊は、大高に向かっていたといわれる。桶狭間は沓掛と大高の中間地点であり、ここを出発して大高までは日没までには入ろうとしたのだろう。そして、丸根、鷲津砦の陥落で気をよくした今川義元は塗輿で悠々と大高城に入城するつもりであったに違いない。その際、塗輿に乗った義元が、なるべく疲れないように、担ぎ手は輿が斜めにならないように気を遣ったであろうが、そもそも六尺道以上の道でなければ通ることができなかった。

本来ならば、今川義元本隊は、休憩の後、桶狭間の神明社近くを通って、一路大高城に向かったであろう。鞍流瀬川を渡る位の手間はあったが、大高城に入って松平元康に労いの言葉をかけ、今度は熱田から清洲へ攻め上ろうと、義元の頭には勝利へのストーリーが出来上がっていたことであろう。

<昭和8年(1933)当時の長福寺>

Chouhukuji

<昭和30年代の桶狭間>

Ochjimusha

だが、休憩するだけのつもりだった桶狭間で今川義元は戦死し、今川勢の先陣として丸根砦を落とした松平元康が徳川家康と改名して、後に江戸幕府を開いた。

江戸時代になると、東海道や有松往還などの新しい道が敷設され、それに伴って町場もあらたに建設された。

有松は周知の通り、竹田庄九郎武則が尾張徳川家の命により、阿久比から移住し、慶長13年(1608年)に桶狭間の分村として開村、阿久比からの移住者などを中心に東海道筋に生まれた比較的新しい集落である。その有松を通る有松往還や長坂道などは江戸期にはいってから開通、あるいは整備された新しい道で、そうした道が出来たことによって、古い在所道はすたれていった。

<江戸時代に整備された有松往還>

Arimatsuoukan

江戸時代には、桶狭間を南北に通る道では、前述の三州道が本道となり、近崎道は脇道になった。道筋も有松の誕生や東海道の開通に伴って、大分改変されたであろう。

天下泰平で周囲からの敵の侵入を気にする必要がなくなった、江戸時代の時代背景をうけて、広く直線的な道を人々が使えるようになり、古くからの狭く、敵の侵入を考えてわざと曲がりくねったように作られた道は重要視されなくなった。一部では、道がなくなるということも起きたであろう。

今川義元がかつて通った中世の道は、もはや江戸時代では脇道になり、現代では殆ど元の姿をとどめていない。

<夕陽の桶狭間大高道周辺~写っている道路は新道で、大高道はやや南にあった>

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(本稿執筆にあたり、桶狭間の郷土史家、梶野渡氏の著作を参考にし、また同氏から直接御教示いただきました。文中、大府市歴史民俗資料館の発行資料を引用し、「大府市史」付録の古地図を参考にしています)

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