« 徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>) | トップページ | 桐生城と桐生国綱 »

2007.07.18

徳川家康と知多半島(その27:桶狭間古戦場を行く<後編>)

桶狭間合戦の織田勢の勝因、言い換えれば今川勢の敗因については、「桶狭間古戦場を行く<中編>」で大体述べた。すなわち、「今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。」と書いた通りである。

しかし、織田勢が勝った理由は、それだけであろうか。いくら地理的な条件や自然現象が有利に働こうと、いち早く的確に情報を握っていようと、実際に戦闘局面で生かせなければ意味がない。その用兵の面でも、織田勢が勝つ要因があったと思われる。

<清洲公園の織田信長像>

Nobunaga_kiyosu

今川義元が討死した当日の様子を振り返れば、以下の『信長公記』の記述にあるとおり、織田信長はわずかな手勢を率いて清洲を発ち、熱田を経て、鳴海方面へ突っ走っている。そして、丹下の砦にまず入り、次に善照寺砦へ移っている。

「浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

信長が善照寺砦に入ったのは、鳴海城と数百メートルしか離れていないのであるが、善照寺砦が鳴海、大高両城に対する付け城五砦、すなわち丹下、中島、善照寺、鷲津、丸根のうち最も大きく、今川勢に対する前線基地として兵力を集中させるのに最も適していたからである。しかし、清洲からいち早く善照寺砦に移っていれば、今川勢先遣隊との小競り合いなどで兵を減耗させてしまいかねなかった。

<鷲津砦址>

Washidu1_1_1

信長は、合戦当日の5月19日なってはじめて、清洲を出て、善照寺砦に入ったのである。ちなみに、善照寺砦や次いで信長本隊が入った中島砦も、今川勢先遣隊からは見渡せる位置にあり、信長本隊の動きも今川勢の知るところであった。この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあり、この砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであった。ゆえに、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいた。

<丸根砦址から大高方面を見る>

Marunehori_1

では、信長が善照寺砦に入ったことを知った千秋四郎・佐々隼人正が今川先遣隊にぶつかっていった行動は、単なる抜け駆けの功名を目指したものであろうか。300人といえども貴重な兵力であったはずである。それをなぜ、今川先遣隊との戦いに振り向けたのだろうか。

これは、信長が善照寺砦に3,000名の兵を集結させながら、1,000名を残し、2,000名を率いて義元本隊を目指したのと関係している。つまり、信長本隊は善照寺にあって、千秋・佐々の別働隊を今川先遣隊にぶつけ、鳴海近くに出張っていた今川先遣隊を善照寺砦に引き付けておいて、自らは中嶋砦を経て、一直線に「おけはざま山」を目指したのである。信長は、千秋らの戦いを見届けてから、善照寺砦を出ている。あくまで、信長本隊は善照寺砦にいるように見せるためと、もし今川先遣隊が千秋・佐々の別働隊を破り、余勢をかって善照寺砦に押し寄せた場合に備えて、善照寺砦に1,000名の兵を残したのであろう。

ここで、信長が今川義元の首級を最初から狙っていたかといえば、そうではなく直接的には今川本隊のどこかを襲って混乱させ、それに乗じて本隊の戦力低下のダメージを与えるということであったと思われる。さらに、鳴海城包囲陣で、鳴海城を奪回することも当然考えていたであろう。
信長にとって幸運にも、今川先遣隊から義元本隊に信長本隊が移動して迫ってきている旨、伝達される以前に、信長本隊は義元本隊を捕捉した。これは、まさに願ってもいない千載一遇の好機であった。

<桶狭間長福寺の蓮池>

Hasuike_1

今川義元の部隊は、延々と駿府から行軍してきたのであり、兵力がまさるといっても小荷駄隊などを含んだ人数がまさっているだけであり、実際の戦闘要員は義元本隊が5,000名として、うち1,500名程度に過ぎなかったという。それに対し、信長本隊は戦闘要員ばかりの2,000名である。彼我の戦闘能力は、本隊同士でみれば織田勢のほうが勝っていたといってよい。メンタル面でも、駿河、遠江、三河の混成軍団である今川勢とくらべて、織田勢のほうが結束力が強く、士気も高かった。したがって、戦闘自体で信長本隊が勝ったのは、何ら驚くに値しないのである。

問題は、今川方がなぜ「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし」ということが分かっていて、わざわざ「おけはざま山」を陣地としたかである。5月17日には瀬名氏俊が桶狭間に来て陣地を設営したのであるが、もとより、今川義元の塗輿での往来は2m程の平面、2~2.5mの高さの空間が必要であったのは前記の通りである。それだけでなく、地盤の悪い低湿地や渡河に労力のかかる場所は避けたと思われる。沓掛から阿野を経て大高道を大高に向かっている途中のどこかで休憩をとるならば、当時村があったのは大脇、桶狭間くらいしかない。桶狭間と大高の間にも江戸時代には集落ができるが、それは新田開発に伴ってのことであろう。人家があって飲み水などを分けてもらうことができる、兵を休ませるのに都合の良い平地、または緩やかな斜面がある、塗輿で来た義元一行が進軍できる道が麓にめぐっている、大将が先遣隊のいる高根山や鳴海方面などを見渡せることができるというと、やはり本陣をおくのは「おけはざま山」と今川方は考えた。

<義元本陣推定地からみた現在の桶狭間>

Yoshimotohonjin_1 

桶狭間特有の台地と低地が入り組み、幕山などと「おけはざま山」の中間にあたる低地には深田や鞍流瀬川などの水路があって通行しにくいという欠点は、大部隊の通行には大きな障害であり、それで義元本隊は台地上で歩きやすい近崎道を行ったのであろう。間に低湿地があることは、本隊と先遣隊のいる高根山、幕山、巻山との連絡においても不利であったが、数名の使者が往来する程度であれば、大きな問題にならなかった。しかし、今回は信長本隊の攻撃に際して、先遣隊が今川義元本隊に急ぎ合流するような機敏な対応が必要であったが、それが桶狭間の地形からしてうまく出来ない状況にあった。今川勢は、自らを逃げ場のない袋小路に追い込んだといっても過言ではない。もし、太原雪斎禅師が生きていて軍師を務めていたら、このような誤りはおかさなかったに違いない。

<田楽坪の今川義元墓碑「駿公墓碣」>

Sunkouboketsu_1

織田勢の急襲をうけ混乱した義元本隊は、「おけはざま山」を降りて、田楽坪に出たが、彼らを待っていたのは今川先遣隊ではなく、先回りした織田勢であった。塗輿を目印に本隊の位置を確認された今川義元は塗輿から馬に乗り換え、旗本に守られて、本来の行き先である大高方面に逃れようとしたようである。そして、取り巻く旗本が減っていくなか、最後は自ら太刀を振るって戦い、服部小平太の膝頭を切り割ったが、毛利新介に討ち取られた。「東海の覇者」といわれ、足利尊氏と同じく治部大輔から三河守となった今川義元が、このような最期を遂げたことは、その当時の人に衝撃を与えたであろう。自ら太刀をふるって奮戦し、最後に討ち死にしたのは将軍では足利義輝、守護大名では今川義元くらいである。

<今川義元の胴塚~豊川市牛久保>

Yoshimoto_imagawa

かくして、おそらく織田信長も予期していなかった今川義元本隊の偶発的な崩壊と義元自身の戦死によって、幸運にも織田信長は勝ちを拾った。今川義元の戦死は、今川全軍に伝わり、即日退却する将兵が多かった。大高城の松平元康、のちの徳川家康には、一説によれば、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。しかし、これは真相がよくわからず、大体桶狭間合戦での緒川・刈谷水野氏の動向が今ひとつ不明であるから、なんともいえない。確かに織田方に水野帯刀や梶川一秀(あるいは大脇の梶川氏と関係ないかもしれない)といった水野氏系と見られる人は登場するが。

<緒川水野氏が本拠とした緒川城址>

Ogawajyo

それはともかく、大高城の松平元康や鳴海城をよく守った岡部元信以外の今川方武将は今川義元の戦死を聞き、さっさと撤退してしまった。この時の様子を『信長公記』や『三河物語』は、以下のように書いている。

「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、五ヶ所同事に退散なり。」(信長公記)

「岡部之五郎兵衛ハ、義元打死被成、其故、扉(沓)懸之入番衆モ落行共、成見(鳴海)之城ヲ持傾(固)テ、其故、信長ヲ引請て、一責責らレて、其上にて降参シテ城ヲ渡シ(以下略)」 (三河物語)

岡部五郎兵衛とは岡部元信のことであるが、岡部元信は鳴海城をよく守り、義元討死の報に接して沓掛の入番衆たちが早くも撤退したあとも持ちこたえたが、信長に降伏して一命を助けられた。そして信長に要請して、今川義元の首級を駿河に持ち帰ったという。いずれにせよ、前線にいた今川将兵は撤退するか、織田方の捕虜となったかで、戦線は崩壊した。

そして、すでに桶狭間合戦が始まる前に家督を継いでいたという今川氏真が、復仇のいくさを織田信長に対して仕掛けることもなく、松平元康が岡崎城を「拾い城」として入城し、自立するとともに、甲斐武田氏が領土を侵食、家臣団も分裂していくという事態へと転げ落ち、いわば自滅する形で今川家は戦国大名としての地位を失っていく。もし、今川義元のあとを継いだのが義元クラスの一級の武将であったなら、こうした事態にはならなかったであろう。これも、織田信長の強運なところであった。

<桶狭間の長福寺の供養塔>

Kuyotou

今川義元以下、戦死した今川方の将兵の菩提は、桶狭間の長福寺や近隣の寺院などでも弔われている。大脇の曹源寺二世の快翁龍喜和尚は、水野貞守以来水野氏配下の部将であった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったというが、その快翁龍喜和尚は桶狭間合戦後、戦死した今川将兵の引導供養をし、その配下の僧が戦死者の埋葬の指揮をしたという。戦人塚は、その埋葬の場所というが戦場から離れすぎており、山の頂上のような場所で埋葬に適していると思えない。これは、その故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。桶狭間古戦場公園の近くに、七つ塚という埋葬伝承をもつ塚があるが、そちらのほうが戦死者の埋葬場所としてリアリティがある。

<七つ塚>

Nanatsuduka_1

それでは、徳川家康は如何にして、今川家から独立していったのか、次回以降その過程を探っていくことにしたい。

|

« 徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>) | トップページ | 桐生城と桐生国綱 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/15780844

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康と知多半島(その27:桶狭間古戦場を行く<後編>):

» psp [psp]
psp [続きを読む]

受信: 2007.07.19 11:58

» ヤフーオークション(城と城下町 東の旅+西の旅+国宝姫路城10景) [みんなのVIDEO]
日本の城を網羅した2巻セット(東の旅・西の旅)の本です 全国の城を写真で紹介しています [続きを読む]

受信: 2007.08.02 09:38

« 徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>) | トップページ | 桐生城と桐生国綱 »