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2007.07.07

徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>)

「徳川家康と知多半島」の「その24:桶狭間古戦場を行く<前編>」に今川義元が通ったと推定される近崎道について書いたところ、思わぬ反響?があり、他の記事の件でも、既知の情報を何かブログに書くこと自体に対する非難があった。それで、暫く忙しさにかまけて、ブログに記事を掲載するのをやめていたのだが、桶狭間を通る近崎道については梶野渡氏から後日教えていただいた情報など、知りえた情報を書きたいと思う。

固定観念をもつこと、「○○は△△でなければならない」というのは、真相を分かり難くする。今まで、桶狭間合戦は田楽窪という窪地で今川義元本隊が休んでいて、そこに織田信長が奇襲をかけたとされていた。歴史物の小説や映画なども、その線で書かれており、子供のときにみた中村錦之助主演の「風雲児織田信長」(1959年)などの映画でも、そう表現されていた。しかし、史実に忠実とされる「信長公記」が発表されると、「信長公記」にあるように、みな「おけはざま山」に攻め上るように書き換えられ、NHK大河ドラマの緒方直人主演の「信長」(1992年)でもそう表現されていた。

今回、あらためて今川義元本隊がたどった道を整理してみることとする。今川義元本隊が桶狭間で織田勢に敗れ、義元が戦死するまでの直近の経過は以下の通り。

永禄3年(1560)5月17日
   桶狭間で瀬名氏俊が陣を張り、義元着陣に備える。

同5月18日
 沓掛城で作戦会議。

同5月19日
 未明に丸根、鷲津砦を今川勢が攻め、これを落とす。今川義元本隊は沓掛を出て、大高道を阿野、大脇と進軍、桶狭間で近崎道に入り「おけはざま山」に着陣。中島砦を南下し、桶狭間手前の生山(はいやま)を経て、武路釜ヶ谷に潜んでいた織田勢、雷雨をついて「おけはざま山」に駆け上り、これを追い落とす。今川義元を守る旗本は三百から五十、さらに数名となり、義元は自ら太刀を振るって戦うも、毛利新助に討ち取られる。

さて、その沓掛と桶狭間とは距離にして約8Km、徒歩で2時間半あまりであり、今川義元が塗輿に乗っていて速度が6割程度と遅かったとしても4時間もあればついてしまう。桶狭間の合戦が始まったのは午後1時くらいであるから、沓掛を当日朝出たのであろう。

今川義元が馬ではなくわざわざ塗輿に乗っていたため、幅約2m程の平面、高さ2~2.5mの空間が必要であったのは前述の通りである。これを当時の道幅で考えると、幅1.5m未満の細い道はまず通ることは出来なかった。野良仕事で使うような、村のちょっとした作業道など三尺道は1mも道幅がなかったであろうから、無理である。せめて六尺道(2m弱)でないと、通行はままならなかったであろう。また道の両側に木が茂っているような山の中の道は木の枝が張り出しており、輿を担ぐ人間は通ることが出来ても、輿の上の義元が木の枝にぶつかることになり、やはり通行ができない。どうしても幅2m程度の道でないと、義元本隊は進めず、また渡河や、地盤の悪い場所の通行は極力避けたであろうから、六尺以上の道であっても低湿地の道は通らなかったと思われる。

このような不便にも関わらず、権威を見せつけようと、勅許の必要な塗輿にわざわざ乗った今川義元は沓掛を出て東浦街道を南下、阿野にいたり大高道を西へ、さらに桶狭間の現在の東ノ池の付近で近崎道を北上したと想定される。

<天保12年の「知多郡桶廻間村図面」>

Okehazamaezu

(黄色:近崎道、緑:三州道、紫:大高道、着色は筆者)

天保12年(1841)の村絵図にも、その道は描かれている。天保12年5月の「知多郡桶廻間村図面」では、北尾村へ出ることが示されている、筆者が黄色く着色した道筋が、桶狭間村からみた近崎道である。道は集落のなかの家と家、交流のある集落同士で、人や物の行き来があったから出来たのであり、北尾、近崎(現在、両村が合併して「北崎町」となっている)と桶狭間は古くは荘園時代の呼び方では尾張国知多郡英比郷のなかの隣接する村であった。内陸の桶狭間と交流があったと思われる北尾、近崎は、皆瀬川や境川の川沿いであるが、かつては緒川、刈谷の間は入江であったとされるので、北尾、近崎も水運に関わっていたであろう。それは近崎の地名の由来が「古くは、衣が浦がここまで湾入していて、近崎神明社の森のあたりは岬となっていました。この岬は、茅が繁茂した岬であったことから『チガサキ(近崎)』と呼ばれたと思われます。 なお、近崎は師崎(南知多町)・亀崎(半田市)とともに、『知多の三岬』と呼ばれたといいます」(大府市歴史民俗資料館)ということからも分かる。つまり、近崎道は、英比郷の荘園があった頃から、海辺の村と内陸部を結ぶ重要な道であったと推定される。

室町時代、戦国初期の時代には、中山勝時の父、中山重時が桶狭間、北尾の両方を治めていたということであるから、同じ領主の村である桶狭間と北尾、隣接する近崎の間で人や物資の往来があってしかるべきであり、農道や作業道のような道ではないことは明白である。ちなみに、北尾には中山氏のものか不明だが、城があったと伝承される「城畑」という地名がある。現地は現在極楽寺という寺院になっており、台地端の城があってもおかしくない地形である。隣接する横根には梶川氏の横根城があり、水野氏の勢力下にあって、これらの城は領民統治と交通の要衝をおさえるための城であったと思われる。

<中山重時が領有した北尾の「城畑」>

Shirohata

近崎道は、信長が定めた道の定義では在所道であり、幅一間(六尺)で2m弱の道幅を持っていた。塗輿で行くのには少々狭いが、何とか通ることはできただろう。そうでなければ、「おけはざま山」に着陣する二日前から、幕奉行の瀬名氏俊が来てわざわざ設営することもなかった。大将が休憩する場所をろくな道もないような所に設定するはずがない。

<伊勢池の南の近崎道>

Iseikehigashi

現在、吉川機械製作所の向かいにある伊勢池は、古くからある池で天保12年の絵図にものっているが、梶野渡氏によれば、これは伊勢講代参の禊のために使われたため、伊勢池の名前がついたという。禊に使ったくらいであるから、かつては澄んだ水が満々とあったのだろうが、今は水生植物が花を咲かせていたものの、池の水も少なく湿地帯のような状態であった。江戸時代には伊勢講で往来する人も多かったろうから、江戸時代においても、それなりの道であったのだろう。

なお、この伊勢池、寛文村々覚書では「近崎道池」となっており、その後伊勢講の禊池となって伊勢池と呼ばれるようになったそうだ。

<伊勢講の禊に使われた伊勢池>

Iseike

今でもこの道は、北崎方面からと当地から北崎方面への車の往来が激しく、会社の勤務時間が終わって、半田から車を飛ばしてきた小生、喫茶店で休憩しようと徒歩で道の反対側に渡ろうにも、なかなか渡ることができなかった。おまけに道の反対側にあった喫茶店は、たまたま休みであり、飲もうとしていたコーヒーはかつての大高道に交差する辺りにあるコンビニ、サークルKで買い求めた。

なお、伊勢池の北にあたる近崎道沿いに「伊勢」という名がつく会社があったが、これは伊勢池からついた名前ではなく、屋号からなのであろう。

<伊勢池の北、大高道と交差する辺りの近崎道~「伊勢」の名がつく会社があるが>

Chikasakimichi_1

それはともかく、近崎道が大高道と交差する南側は、今も交通量が多く、道路の反対側には容易に渡ることも出来ない。近崎道が大高道と交差する地点には、お地蔵さんがまつってあった。これが道標地蔵なのかどうかは、余りにお地蔵さんが古すぎ、風化していて目鼻立ちもわからないくらいなので、何がしかの字が彫られていたにしても判読は不可能である。なお、大高道も現在の郷前交差点は通らず、慈雲寺の南側を通っているなど、新道とは道筋が違うところがある。

近崎道が大高道と交差する地点の北側には、現在東ノ池と呼ばれている、かつての「石池」があり、改変されているが、その池沿いの道が近崎道である。しかし、東ノ池の北側に東西に走る道があり、それと交わる辺りの北側も住宅密集地帯であり、道筋は大幅に改変されていて、よく分からない。

<近崎道が大高道と交差する辺りにあるお地蔵さん>

Chikasakijizou

<東ノ池の北端から>

Higasiike

それを現在の地図から、推定してみる。桶狭間の地元の研究会が書いた図面を参考に、Mapfanの地図と重ねてみた。細かいところは、少し違っているかもしれないが、大まかには北尾、近崎方面から北へ伊勢池の脇を通って、大高道に交差し、東ノ池の西を通り、長福寺の裏手に出る。さらに「おけはざま山」の麓を通って、今の古戦場公園の泉水跡あたりまで出てくる。それから北は鳴海道といった方がいいのだろうが、実際現在の地蔵池は「鳴海道池」とかつては呼ばれていた。

<現在の地図に書いたかつての近崎道、大高道>

Okehazamamap1_1

<上図の北側>

Okehazamamap2_1 

梶野渡氏によれば、その古戦場公園の泉水跡の辺りで、三州街道と近崎道は交わっていたそうだ。その泉は、桶狭間の名前の由来になったといわれる泉で、旅人の喉を潤したりするために桶が泉のなかに置いてあったが、湧き出す水の勢いがあったために、桶がくるくると回っていたので、「桶廻間」という村の名前がついたという伝承がある。つまり、この辺は人馬の往来が昔からあったというわけだ。

しかし、なぜ今川義元は「おけはざま山」に陣を張り、そこへ行くために近崎道を通り、またその先どうしようとしていたのか。

<桶狭間古戦場公園の泉水跡>

Sensui

「おけはざま山」の山頂(標高64.9mの最高所)が一番見晴らしがよく、今川軍先鋒のいる高根山、幕山、巻山を一望にすることができるだろうが、山頂まで木が茂り、道もないようなところを折角乗ってきた塗輿を置いて、みな徒歩姿となってのぼっていったとは考えにくい。台地中腹の標高40m~50mの小松原続きのやや平坦となった場所に陣取り、先鋒隊の陣地を一望にし、馬には水をやり、将兵たちは食事をしようとしただろう。そして、そうした今川軍陣地のそばを近崎道が通っていたのである。それ以外にも道はあったであろうが、何せ大将の義元が輿に乗っているのだから、六尺道以上の道でなければならなかった。

住宅地のなかで分かり難いが、長福寺裏手から北へ台地の縁辺を通る近崎道は、長福寺裏山の東に残っている。しかし、このあたりにくると、車もたまにしか通らない、古い住宅地特有の幅2mほどの細い道となっている。しかし、もともとこの程度の幅しかなかったのだから、伊勢池横の車の行き来の激しい地点よりも、原形を留めているというべきか。

<長福寺北側の近崎道~六尺道の名残りがある>

Chikasakimichi_2

ただ、今川勢のおかした過ちは、本隊と先遣隊との間にある、江戸時代に「廣坪田面」(ヒロツボトーモ)として水田化された桶狭間合戦場一帯が低湿地であり、戦国時代にも泥田があったことである。

台地上の、例えば近崎道のようなところは歩きやすかっただろうが、低地面の大池の西側を通る道周辺は以下の写真のようについ最近まで田圃だらけで、戦国時代には一面水田のなかを細い道が通っていただけだったろう。また、江戸時代の絵図を見ると、長福寺の西側に南北に鞍流瀬川が描かれている。かつては、今よりずっと水量の多い川であったらしい。桶狭間村の中心であったと思われる郷倉のあった辺りや、桶狭間神明社の近くにも川筋が見える。

つまり、今川義元本隊は間に水田があって、高根山、幕山、巻山の先鋒隊との共同行動がしにくい場所に陣取ってしまったのである。これは布陣としては、大きな失敗であった。もし、太原雪斎が生きていたら、そんな場所に今川義元を着陣させなかったろう。まさか、本隊が先鋒隊と急ぎ合流しなければならないとか、緊急を要する事態がそこで起きるとは余り思っていなかったようである。そこに、今川勢の油断があった。

<桶狭間神明社>

Sinmeisha

その今川義元本隊は、大高に向かっていたといわれる。桶狭間は沓掛と大高の中間地点であり、ここを出発して大高までは日没までには入ろうとしたのだろう。そして、丸根、鷲津砦の陥落で気をよくした今川義元は塗輿で悠々と大高城に入城するつもりであったに違いない。その際、塗輿に乗った義元が、なるべく疲れないように、担ぎ手は輿が斜めにならないように気を遣ったであろうが、そもそも六尺道以上の道でなければ通ることができなかった。

本来ならば、今川義元本隊は、休憩の後、桶狭間の神明社近くを通って、一路大高城に向かったであろう。鞍流瀬川を渡る位の手間はあったが、大高城に入って松平元康に労いの言葉をかけ、今度は熱田から清洲へ攻め上ろうと、義元の頭には勝利へのストーリーが出来上がっていたことであろう。

<昭和8年(1933)当時の長福寺>

Chouhukuji

<昭和30年代の桶狭間>

Ochjimusha

だが、休憩するだけのつもりだった桶狭間で今川義元は戦死し、今川勢の先陣として丸根砦を落とした松平元康が徳川家康と改名して、後に江戸幕府を開いた。

江戸時代になると、東海道や有松往還などの新しい道が敷設され、それに伴って町場もあらたに建設された。

有松は周知の通り、竹田庄九郎武則が尾張徳川家の命により、阿久比から移住し、慶長13年(1608年)に桶狭間の分村として開村、阿久比からの移住者などを中心に東海道筋に生まれた比較的新しい集落である。その有松を通る有松往還や長坂道などは江戸期にはいってから開通、あるいは整備された新しい道で、そうした道が出来たことによって、古い在所道はすたれていった。

<江戸時代に整備された有松往還>

Arimatsuoukan

江戸時代には、桶狭間を南北に通る道では、前述の三州道が本道となり、近崎道は脇道になった。道筋も有松の誕生や東海道の開通に伴って、大分改変されたであろう。

天下泰平で周囲からの敵の侵入を気にする必要がなくなった、江戸時代の時代背景をうけて、広く直線的な道を人々が使えるようになり、古くからの狭く、敵の侵入を考えてわざと曲がりくねったように作られた道は重要視されなくなった。一部では、道がなくなるということも起きたであろう。

今川義元がかつて通った中世の道は、もはや江戸時代では脇道になり、現代では殆ど元の姿をとどめていない。

<夕陽の桶狭間大高道周辺~写っている道路は新道で、大高道はやや南にあった>

Yuuhi

(本稿執筆にあたり、桶狭間の郷土史家、梶野渡氏の著作を参考にし、また同氏から直接御教示いただきました。文中、大府市歴史民俗資料館の発行資料を引用し、「大府市史」付録の古地図を参考にしています)

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