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2007.08.31

桐生城と桐生国綱

群馬県の桐生市は、小生の親戚も多く、昔からよく知った土地で、小生にとってはフレンドリーな地域である。

この桐生には中世、桐生氏がいて、周辺を支配していた。今は昔で、あまり最近は出回っていないが『桐生城物語』(松島正見著)というのがあって、桐生氏の初代といわれる桐生六郎から戦国時代の英君である桐生祐綱、その末期養子であり、政治に関心がなくなり家老の専横を許したという桐生親綱までの興亡が物語風に書かれていた。

その本を読んだのは、中学生くらいであったが、面白くてのめりこんだ記憶がある。なお、著者である松島正見氏は桐生や周辺地域の歴史についての研究家で、高津戸城に拠った里見兄弟についての著作もある。

この桐生氏初代の桐生六郎は、源平合戦の頃、関東の武士たちのなかで有力な平家方であった、藤姓足利氏の足利俊綱を主人としていた。桐生六郎は、その足利俊綱を謀殺、源氏に返り忠を果たした。しかし、その桐生六郎の主人への裏切りを源頼朝は許さず、これを処刑し、その子孫は四代目にいたるまで桐生梅原館に蟄居した。

<梅原館址~土塁が残っている>

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その後に登場する桐生国綱は、従来四代目の宣綱といわれる当主の子で、桐生五代目とされてきた。したがって、桐生氏は途中何代かに渡り、佐野の佐野氏から養子をもらったが、系統としては桐生六郎から連綿として続くものと通説になっていたし、私もそう思っていた。この国綱は足利尊氏に応じて戦功をあげ、桐生川一帯の地を与えられたという。また、桐生城を築城し、仁田山地域の城を攻め、高津戸城を手中におさめたのも、桐生国綱の代であった。

ところで、最近の研究によれば桐生国綱は佐野氏の出身で、その子孫もまた佐野の血をひく者たちであり、桐生佐野氏というべき氏族であることが分かってきた。この国綱までの桐生氏を前桐生氏、国綱以降の桐生氏は後桐生氏といわれる。つまり、桐生六郎らの桐生氏は桐生を根拠とした武士であることは間違いないが、それは主人である藤姓足利氏と同族かもしれないにせよ、出自は不詳である。かたや桐生国綱は佐野氏の出身であることがわかっている。つまり、その前桐生氏と桐生国綱から始まる後桐生氏、あるいは桐生佐野氏は別氏族であったらしい。そして、後桐生氏、桐生佐野氏こそ、桐生に一大勢力を築き、戦国時代まで大名として続いた、一般にいわれる桐生氏であり、その祖が桐生国綱であったのである。

<桐生国綱が築いた桐生城の遠望~1985年頃筆者が撮影>

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桐生国綱は、観応元年(1350)、谷直綱に命じて城山(じょうやま)に桐生城を築き、平時は城山の南麓に居館を建てて住んだ。また、翌観応2年(1351)には高津戸城などの城主であった山田筑後守則之が、密かに桐生を侵略しようと企てていたのを、桐生国綱は先手をとってこれを攻め滅ぼし、領地を西側渡良瀬川沿岸に広げた。国綱は、桐生南部の開墾や桐生氏菩提寺の西方寺の創建など行っている。

その桐生城は桐生川によって形成された桐生谷の内奥の城山にあって、檜杓山城とも呼ばれる。檜杓山城といわれる所以は、本丸を斗口とし、二の丸、三の、丸を柄とする檜杓に形が似ていることであり、それで檜杓山城と名付けられ、階梯式の連郭配置となっている。途中まで、車で行くことができるが、比較的山頂近くまで車で行くことのできる高津戸城などとは違い、桐生城は山の中腹までしか車ではいけず、あとは急な崖から落ちないように気をつけながら山道をいくしかない。特に、三の丸と二の丸の間の堀切は山の斜面に蜀の桟道のように開かれた通路の一部として使われているが、なぜか堀切の先、急崖となっている箇所に柵が設置されておらず、まっすぐ進むと崖、回れば通路となり、高所恐怖症のひとなら絶対に進むことができない。以前は山麓の日枝神社から尾根伝いに登ることができたと思うが、今は尾根伝いに登る人はいないだろう。小生車で途中まで登ったときに、なぜか山を降りてくるダンプカーとすれ違い、路肩ぎりぎりに寄せたことがある。車ごと転落して死ぬかと思ったが、運転手さんの「俺が見ててやるから大丈夫、落ちやしねえよ」という言葉に励まされ、何とか無事であった。

それはともかくとして、桐生地域では、梅原館を中心に新川堀を遠構、丸山の砦、今井宿、浅間山、物見山を前線基地とし、桐生城を詰めの城とした地域城が形成されていた。さらに、桐生氏最盛期には、小倉の砦、用命の砦などの周辺城砦と仁田山地域城の仁田山城、高津戸城などの要害や黒川谷の深沢城、五蘭田城などを含めた広域にわたる防衛線が築かれていた。

<高津戸城のあった要害山遠望>

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桐生城は、前述したように城山頂上を削平した場所が本丸、その西下に二の丸、三の丸と階梯式に郭が続き、二の丸、三の丸の北側には北曲輪がある。本丸の南側、城山山麓の渭雲寺(居館:「いだて」の地名が残る)、日枝神社あたりには城主の日常居館があって、館と背後の桐生城との間には通路があり、途中坂中曲輪、追手がある。一般的には、その道が追手道とされているが、傾斜が急で馬が上れないため、傾斜の比較的なだらかな岡平から三の丸下に出る西搦手が通路としてよく使用されたようで、桐生城攻めでもその場所から由良勢に集中的に攻めかかられている。また、岡平にも、別郭があったと見られている。水の手は、居館北西の小流を使用していた模様で、居館西側にも井戸があった。

桐生国綱以降、戦国期の途中まで桐生氏がこの城を支配したが、元亀4年(1573)に由良氏に攻められ、桐生城は落城、当主親綱は佐野へと落ち、以降由良氏の城となる。その由良氏も小田原北条氏について小田原籠城戦を戦ったために、牛久へ移封となり、桐生城は廃城になった。

<桐生城の本丸、二の丸間の堀切>

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・参考文献 『桐生佐野氏と戦国社会』 桐生文化史談会  (2007)

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