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2007.11.26

徳川家康と知多半島(その28:桶狭間合戦後の徳川家康)

今川義元が桶狭間で討たれ、今川勢が尾張の喉元まで迫った戦は、あっけなく幕をおろした。その後の今川勢譜代の連中は、鳴海城をよく守った岡部元信を除き、勝手に引き揚げてしまい、大高城に兵糧入れして、そのまま守将となった松平元康、後の徳川家康は、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された。もし、大高城を織田勢が総掛りで攻めたなら、大高城も落城したであろう。その場合には、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。

この孤立した徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたという説がある。あるいは、水野信元の使いが桶狭間の合戦の次第を知らせてきた、しかし家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。

「武徳編年集成」では

大高の城の漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆる所 参州碧海郡刈屋の城主水野下野守信元より浅井六之助道忠を以って義元の戦死を告、且明日信長来たり攻べし、夜中城を避て帰国せらるべき旨を達す。神君曰く野州は伯父といえども織田方なり。必ずも信ずべからずとて、先ず道忠を虜にし、其実を得て去ベキ旨を宣う」

とある。野州とは下野守水野信元を意味し、いかに伯父といっても織田方なので必ずしも信じられないと徳川家康は言い放ち、浅井道忠を捕虜にして、今川義元討死の事実を確認してから大高城を退去すると言ったと、書かれている。

<大高城址>

Odakajyo

これを筆者は、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから疑義があると前にも述べた。いかに身内であっても、今川方の武将を、織田方にたって今川勢と合戦もしてきた水野信元が助けるのは、やはり納得しにくいものがある。しかも、桶狭間合戦後には、徳川家康と水野信元は石ヶ瀬で合戦を行っているのである。

石ヶ瀬では永禄元年(1558)の合戦だけでなく、桶狭間合戦後の永禄3年(1560)6月18日と永禄4年2月7日にも合戦が行われたが、いずれも徳川家康が水野信元を攻めたものである。徳川家康が桶狭間合戦後に岡崎城を帰ったのが永禄3年(1560)5月23日であるから、二回目の石ヶ瀬合戦は岡崎帰還から1月もたっていない。

大高城の徳川家康に、今川義元が討たれ、今川勢が負けたことを知らせたのは水野信元という説は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」によるものと思われる。

三河物語には、以下のようにある。

「義元ハ打死ヲ成サレ候由ヲ承候。其儀二於てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤之由各々申ケレバ、元康之仰にハ、タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモ聢トシタル事ヲモ申来タラザルに、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其上、人之サゝメキ笑種に成ラバ、命ナガラエテ詮モ無。然バ、何方よりも聢トシタル事無内ハ、菟角に退カせラレ間敷ト、仰除テ御座候処え、小河より水野四郎右衛門尉殿方カラ、浅井六之助ヲ使にコサせラレテ、其元御油断ト見えタリ。義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄成ラルベシ。今夜之内に御支度有テ、早々引退ケサせ給え。然ば我等参テ案内者申スベシ由ヲ申越サレ候えバ、六之助、主之使に来りて申ケルハ、我等に御案内者申て、早々御供申せ。信長押寄給ハゞ、御六ケ敷候ハント四郎右衛門申越サレ候間、我等に三百貴下サレ給え。御供申サントテ、知行ヲネギリテ、御案内者ヲ申ケリ。

 水野四郎右衛門尉殿ハ、腹ヲ立、憎奴バラメ。成敗ヲイタシ度ト申サレ候え共、敵味方之事ナレバ成敗モ弄。大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

これによると、徳川家康のもとにはすでに今川義元が討たれたらしいという情報が伝わっていたが、それが確かなものか判断しかねていた。その頃、水野信元から浅井六之助道忠が使者として派遣され、浅井六之助は「今川義元が討ち死にしたのは事実で、明日には織田信長の軍勢が押し寄せてくる」と述べ、三百貫をくれればご案内すると金をゆすりとろうとした。その願い通り、浅井六之助はご案内役をつとめたが、そのことを知った水野信元は立腹した。家康が岡崎に入ると、今川勢はまだ岡崎城にいたが、城から退散したがっていた。家康は大樹寺を本陣と定め、兵を休めた。今川勢は無断で岡崎城から退散し、それを知った家康は「捨城なら拾おう」と言って、城へ移った。この最後の「捨城ナラバ拾ハン」という言葉は、いろいろな劇や映画でも有名である。

<徳川家康が本陣にした大樹寺>

Daijyuji_2

この「三河物語」は、大久保彦左衛門が自分の子孫に受け継ぐために書いたものであり、世の中に公開する目的で書いたものではないとされる。そして、一部明らかな記憶違いなどを除くと歴史的事実の記述も多く、史料としての信憑性も比較的高いという。しかしながら、桶狭間合戦は永禄3年(1560)の合戦であり、大久保彦左衛門はその永禄3年(1560)生まれである。したがって、桶狭間合戦については、大久保彦左衛門が直接経験したものではなく、その記述も伝聞によるということになる。しかし、大久保彦左衛門は、それが事実と思って書いたのであろうから、「三河物語」が成立した元和年間には徳川家康の周辺では通説になっていたのであろう。

徳川家康が大高城から脱出した頃、鳴海城の岡部元信は、今川義元の首級をもらうという条件で鳴海城を開城し、駿河を目指して進んでいった。その途上、岡部元信は刈谷城を襲い、城主水野藤九郎信近を討ち取っている。

これについては永禄3年6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に、

苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也

とあり、はかりごとをもって刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者を討ち取り、城内に放火したことがわかる。また、上記文書は今川氏真の発給した岡部元信の所領安堵状であることからも、氏真が合戦後に失われた家中の統率を取り戻そうと、領国経営に努力していたことが分かる。

<刈谷城址>

Kariyajyo1

<刈谷城の堀>

Kariyajyohori

桶狭間合戦において、水野氏本流である、緒川刈谷水野氏の動向がよく分からないが、唯一この事跡のみが、古文書にもあり、歴史上表面化している。

そもそも、水野氏本流、特に水野信元は永禄元年(1558)の石ヶ瀬合戦においても、積極的には動いていないふしが見られる。またそれに先立つ村木砦の戦いでは、本来表にたつべき水野氏よりも、織田信長自身が前面に出て、今川方と戦っているのである。その際に出動した水野氏は水野信元ではなく、緒川水野氏の流れではあるが、布土城主となった水野忠分であるという。桶狭間合戦では、水野信元は織田方でありながら、同時に今川方にも場合によってはつくような日和見をきめこんでいたのかもしれない。

そう考えると、大高城の徳川家康の脱出を助けることは、まったく考えられないわけではない。もともと、水野氏は信元の先代、忠政の代には、今川・織田両家によしみを通じており、松平と水野が姻戚関係を結んだのも、水野氏の両雄に挟まれた不安定な境遇を象徴しているといえる。信元の代となり、織田方であることを鮮明にしたものの、村木砦を橋頭堡として今川氏が尾張獲得に乗り出すと、常に今川方の動静を注視していたのはもちろんである。もし、水野信元が徳川家康に浅井道忠を使者として送り込んでいたならば、家康に織田方へ寝返るように工作するとか、もし合戦の勝敗がつく前なら、逆に自らが今川方に密かに通じようとして、その使者として送り込んだという可能性はある。それが、家康に取り込まれ、道案内をさせられたとすれば、三河物語にあるように水野信元は怒っただろう。だが、以前に述べたように、徳川家康は大高川を下って、伊勢湾に出て海沿いを大野か常滑に上陸し、坂部を経たかどうかは分からないが、成岩浜から三河にふたたび海路を使って戻ったと信じるものである。

また、松平元康、後の徳川家康が、大高城で今川方の敗北をいつまでも知らないでいたことはありえず、目と鼻の先にある鷲津砦や丸根砦にいた朝比奈、鵜殿といった今川勢が引き揚げるのを見ていたはずであり、今川勢に異変があったことは分かっていただろう。それでも大高城に留まっていたのは、本来今川義元が大高城に入るのを迎えることになっており、今川義元本隊はどうしているのか、またその他の隊の状況はどうか、織田勢の動きはどうかと、合戦の動向を見据えた上で、その次の行動を起こそうとあえて慎重になっていたと思われる。そして、合戦の動静を探らせていた自分の部下、それは鳥居元忠といわれるが、その部下が戻ってきて、もたらした情報により、退却を決めたのに違いない。

<水野氏歴代をまつる堅雄堂(知多郡東浦町)>

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しかし、なぜ今川義元が討たれたことで、今川勢はかくももろく崩れ、駿河などへと敗走していったのだろうか。それは、一つには今川勢が譜代の勢力だけでなく、遠江、三河の外様衆も多く含まれる混成部隊であり、多くの重臣も失って、指揮命令系統が寸断されたためであろう

桶狭間合戦では、今川義元をはじめ、蒲原氏政、久能氏忠、浅井政敏、三浦義就、吉田氏好、葛山長嘉、葛山元清、江尻親良、岡部長定、藤枝氏秋、牟礼泰慶、関口親将、松井宗信、斎藤利澄、井伊直盛、福平忠重、庵原忠縁、庵原忠春、庵原忠良、加藤景秀、鳥居直治、富塚元繁、由比正信、松平惟信、瀧脇松平宗次・長澤松平政忠、政忠の弟松平忠良、その他、主だったもの583人がなくなっている。

今川氏の軍勢は寄親、寄子制をとっており、今川の部将などの寄親の武士の下に地侍層が寄子として従い、その地侍が兵卒を連れるという構造となっていたため、寄親がいなくなると、配下の寄子は統率を失うという弱点を持っていた。

かくして、今川義元の討死という不測の状況下にあって、徳川家康の目指す場所は駿河ではなく、岡崎であった。駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえて岡崎に入ったのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、氏真ではたちいかないと判断したのではないか。氏真は一説には暗愚な人物とされるが、そうではなく桶狭間合戦後に功績のあった岡部元信に所領を安堵し、領国経営をなんとかやっていこうと努力する面もあった。しかし、氏真は偉い親父が腐心して支えてきた駿河、遠江、三河を守り抜く度量のある人物ではなかった。それをいち早く見抜いた家康は、岡崎にとどまり時節を待ったのであろう。

それでは、岡崎に戻った徳川家康は、いかにして自立し、東海に覇をとなえるようになったのであろうか。それについては次回。

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2007.11.12

高城氏、徳川氏ゆかりの小金の東漸寺(付記:竹内兄弟の碑)

松戸市小金にある西山浄土宗の寺、東漸寺は、今でも大きな寺であるが、かつては隣接する小金小学校が学寮であったように、寺域も広く、小金の宿場町の中心にあって、東葛地方はもとより、東京都東部、埼玉県まで関連寺院などもある寺であった。

<東漸寺>

Touzenji

この東漸寺、文明13年(1481)に、増上寺三世の音誉聖観上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。ほぼ同時代の人で、浄土宗の宗門に勢誉愚底上人という高僧がいるが、その人は京都出身、のちに三河松平家の菩提寺となった岡崎の大樹寺を開基し、京都知恩院の第二十三世となったが、もちろん経誉愚底上人とは別人である。しかし、名前が似ているために混同されることがあるようだ。

<岡崎の大樹寺の山門>

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法然上人以降の浄土宗の宗門のなかで、知恩院、増上寺の住職ともなれば、高僧であったに違いないが、その増上寺三世の音誉聖観上人の弟子である経誉愚底上人、また自身が知恩院二十三世となった勢誉愚底上人、ともに宗門を代表する高僧といって良いだろう。

<東漸寺の山門>

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この経誉愚底上人は、遠州出身という説もあるが、信州筑摩郡洗馬出身、父は長瀬但馬守という武士で、その先祖は木曽義仲の家臣か、とにかく木曽氏に関係していたらしい。その経誉愚底上人自身は音誉聖観上人に師事して洗馬東漸寺で教化、下総は手賀沼沿岸の鷲野谷にいたり、鷲野谷にもともとあった医王寺が廃絶し、村人がその薬師如来を小さな堂にまつっているのをみて、村人と医王寺を再興した。特に、鷲野谷の土豪で、高城氏の家臣となっていた染谷氏が経誉愚底上人を尊崇し、浄土宗に帰依したという。この経誉愚底上人が高城氏の居城根木内城に近い場所に、東漸寺を開創したのも、高城氏の家臣であった鷲野谷の染谷氏がおおいに関わっていたと思われる。実際、染谷氏が経誉愚底上人が仏像を背に根木内に赴いた際に、捧持したという。

<国道6号線から南へ根木内城跡~木々の茂っている部分と道路自体~を望む>

Negiuchi

さらに、東漸寺は、戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていた。

高城氏は、出自不詳。出身も九州説、紀伊説、東北説とあり、よく分らない。千葉氏の重臣原氏の家老であったのは間違いなく、東葛地方、現在の松戸、流山、柏、鎌ヶ谷、船橋、東京都東部、埼玉県東部を拠点にし、戦国時代末期には戦国大名化していた。東葛地方に拠点をおいたのは室町時代の途中からで、それ以前は原氏とともに小弓(生実)辺りにおり、「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。原氏が上総の武田氏や小弓公方足利義明によって、かの地を追われると、縁故のある八幡庄に落ち延びたらしい。

<小金大谷口城跡金杉口(門は復元)>

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その居城は(栗ヶ沢城、)根木内城、小金大谷口城とかわったが、最近の研究では根木内城を高城氏が居城としていた当時、すでに小金城の前身の城(前期小金城)が存在していたようだ。前期小金城は、現在公務員住宅のある大谷口跡に近い、「本城」「中城」「馬屋敷」「外番場・西側」の郭構成であり、その主郭と見られる「馬屋敷」の西側下に「根郷屋」の地名が残る。これは、当初は根木内城の支城の位置付けの小規模な城郭であったことを意味する。

やがて、高城氏が小金大谷口城を拡張・整備し、それを居城にすると、根木内から城の近くに寺院なども移転する。東漸寺以外にも、高城氏の祈願所であったという大勝院は城の一部といえる東北の鬼門の方角に鎮座した。東漸寺は屈折した参道、参道の両側の土塁など、防備を考えた作りで、位置的にも小金宿の中心にあり、町場を守る役割を担っていた。これは中世の寺にはありがちなことで、石山本願寺などは寺というより城に近いし、寺の石垣も城の石垣を組む穴太衆がつくったものがある(坂本の西教寺など)。

<東漸寺本堂>

Hondou

胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。小金における高城氏は、胤吉-胤辰-胤則と続いたが、天正18年(1590)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名として滅亡した。

その後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598)に芝に移り、元和元年(1615)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。

このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。

東漸寺は享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数ヶ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。

明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。

付記:竹内廉之助、啓次郎の碑

東漸寺の本堂の手前には、竹内廉之助、啓次郎の碑がある。

幕末は元治元年(1864)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖の子藤田小四郎らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。竹内廉之助の変名は「金原忠蔵」。これは、小金原を苗字としたもの。赤報隊には現在の鎌ヶ谷市佐津間出身の渋谷総司がいたが、渋谷総司の「総」も下総の「総」である。

しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。

竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。

<渋沢栄一の銅像~東京・常盤橋公園>

Sibusawaeiichi

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2007.11.07

秋の本土寺

本土寺は、松戸市の北小金にある、日蓮宗の古刹である。このあたりは、平賀という地名が残っているが、もとは平賀家の屋敷がこの本土寺が創建される前に、本土寺がある場所にあったという。1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、1277年(建治3年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。

<本土寺の仁王門>
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そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、谷山土寺、栄山門寺(池上本門寺)、興山妙寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

さて、小生柏に旧陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機「秋水」の実験隊員だった方々の話を聞きに行く途中、久しぶりに本土寺へ寄った。境内は、まだ紅葉が本格的でないためか、あまり人がおらず、逆にゆっくり散策できた。

長い参道を抜けると、目に入ってくるのが赤い仁王門である。「長谷山」の扁額が掲げてある。ここももみじに映えて、赤い門が美しい。

本堂に上がる前に、見落としがちであるが、「翁の碑」がある。この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の1804年(文化元年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものである。ラグビーボールを大きくしたような変わった形をしており、「翁」と刻まれている。
碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれているそうだが、字がうすくなって判読できない。「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」というのは読めた。

実は寺も含めて、江戸時代には俳諧の趣味が、経済力をもった町人などを中心にはやり、この寺でも句会が催されている。小林一茶も出てきているそうだ。この本土寺のほかに、北小金の水戸街道にちかい妙典寺にも句碑がある。妙典寺は、やはり日蓮宗であるが、中山法華経寺の末寺である。

<「翁」の碑>
Hondoji_okinanohi

そして、本堂に参り、順路にしたがっていくと、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家から武田の名跡を継ぐために武田を名乗り、小金三万石の領主となった。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまう。結局、武田家を存続させようとした徳川家康の思ったとおりにはならず、再興武田家も信吉の代で絶えてしまった。息子が小金三万石の領主になったため、その生母秋山夫人の墓が、甲斐とは離れた小金の本土寺にあるのである。

秋山夫人の墓を過ぎて、少し下り坂になり、菖蒲池に出る。その周りを半周すれば、日像菩薩をまつる像師堂のある場所となる。像師堂の近くに、稲荷と、1804年(文化元年)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑があり、

表に、今日庵元夢の「世は夢のみな通ひ路か梅の花」

裏に、藤風庵可長の「秤目にかけるや年の梅椿」     とある。

<秋山夫人の墓>
Hondoji_akiyamafujinhaka

<菖蒲池>
Shoubuike

本土寺は6月頃はあじさい、春には菖蒲も美しい。広い菖蒲池は、春から夏にかけてが良いだろうが、清々しい。そして、秋は紅葉である。今回、その菖蒲池の周辺と、瑞鳳門の辺にわずかに、紅葉がみられた。11月下旬くらいは、もっと鮮やかになるであろう。また、来るのが楽しみである。

<瑞鳳門>
Hondoji_zuihoumon

本土寺のHPは以下URL

(この記事は森兵男「海鷲よ甦れ」より、許可を得て転載、キャプチャなど一部変更)

転載元:http://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/24791582.html

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