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2007.11.12

高城氏、徳川氏ゆかりの小金の東漸寺(付記:竹内兄弟の碑)

松戸市小金にある西山浄土宗の寺、東漸寺は、今でも大きな寺であるが、かつては隣接する小金小学校が学寮であったように、寺域も広く、小金の宿場町の中心にあって、東葛地方はもとより、東京都東部、埼玉県まで関連寺院などもある寺であった。

<東漸寺>

Touzenji

この東漸寺、文明13年(1481)に、増上寺三世の音誉聖観上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。ほぼ同時代の人で、浄土宗の宗門に勢誉愚底上人という高僧がいるが、その人は京都出身、のちに三河松平家の菩提寺となった岡崎の大樹寺を開基し、京都知恩院の第二十三世となったが、もちろん経誉愚底上人とは別人である。しかし、名前が似ているために混同されることがあるようだ。

<岡崎の大樹寺の山門>

Daijyu1ji

法然上人以降の浄土宗の宗門のなかで、知恩院、増上寺の住職ともなれば、高僧であったに違いないが、その増上寺三世の音誉聖観上人の弟子である経誉愚底上人、また自身が知恩院二十三世となった勢誉愚底上人、ともに宗門を代表する高僧といって良いだろう。

<東漸寺の山門>

Touzenji_sanmon

この経誉愚底上人は、遠州出身という説もあるが、信州筑摩郡洗馬出身、父は長瀬但馬守という武士で、その先祖は木曽義仲の家臣か、とにかく木曽氏に関係していたらしい。その経誉愚底上人自身は音誉聖観上人に師事して洗馬東漸寺で教化、下総は手賀沼沿岸の鷲野谷にいたり、鷲野谷にもともとあった医王寺が廃絶し、村人がその薬師如来を小さな堂にまつっているのをみて、村人と医王寺を再興した。特に、鷲野谷の土豪で、高城氏の家臣となっていた染谷氏が経誉愚底上人を尊崇し、浄土宗に帰依したという。この経誉愚底上人が高城氏の居城根木内城に近い場所に、東漸寺を開創したのも、高城氏の家臣であった鷲野谷の染谷氏がおおいに関わっていたと思われる。実際、染谷氏が経誉愚底上人が仏像を背に根木内に赴いた際に、捧持したという。

<国道6号線から南へ根木内城跡~木々の茂っている部分と道路自体~を望む>

Negiuchi

さらに、東漸寺は、戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていた。

高城氏は、出自不詳。出身も九州説、紀伊説、東北説とあり、よく分らない。千葉氏の重臣原氏の家老であったのは間違いなく、東葛地方、現在の松戸、流山、柏、鎌ヶ谷、船橋、東京都東部、埼玉県東部を拠点にし、戦国時代末期には戦国大名化していた。東葛地方に拠点をおいたのは室町時代の途中からで、それ以前は原氏とともに小弓(生実)辺りにおり、「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。原氏が上総の武田氏や小弓公方足利義明によって、かの地を追われると、縁故のある八幡庄に落ち延びたらしい。

<小金大谷口城跡金杉口(門は復元)>

Koganejyo

その居城は(栗ヶ沢城、)根木内城、小金大谷口城とかわったが、最近の研究では根木内城を高城氏が居城としていた当時、すでに小金城の前身の城(前期小金城)が存在していたようだ。前期小金城は、現在公務員住宅のある大谷口跡に近い、「本城」「中城」「馬屋敷」「外番場・西側」の郭構成であり、その主郭と見られる「馬屋敷」の西側下に「根郷屋」の地名が残る。これは、当初は根木内城の支城の位置付けの小規模な城郭であったことを意味する。

やがて、高城氏が小金大谷口城を拡張・整備し、それを居城にすると、根木内から城の近くに寺院なども移転する。東漸寺以外にも、高城氏の祈願所であったという大勝院は城の一部といえる東北の鬼門の方角に鎮座した。東漸寺は屈折した参道、参道の両側の土塁など、防備を考えた作りで、位置的にも小金宿の中心にあり、町場を守る役割を担っていた。これは中世の寺にはありがちなことで、石山本願寺などは寺というより城に近いし、寺の石垣も城の石垣を組む穴太衆がつくったものがある(坂本の西教寺など)。

<東漸寺本堂>

Hondou

胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。小金における高城氏は、胤吉-胤辰-胤則と続いたが、天正18年(1590)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名として滅亡した。

その後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598)に芝に移り、元和元年(1615)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。

このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。

東漸寺は享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数ヶ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。

明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。

付記:竹内廉之助、啓次郎の碑

東漸寺の本堂の手前には、竹内廉之助、啓次郎の碑がある。

幕末は元治元年(1864)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖の子藤田小四郎らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。竹内廉之助の変名は「金原忠蔵」。これは、小金原を苗字としたもの。赤報隊には現在の鎌ヶ谷市佐津間出身の渋谷総司がいたが、渋谷総司の「総」も下総の「総」である。

しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。

竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。

<渋沢栄一の銅像~東京・常盤橋公園>

Sibusawaeiichi

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