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2007.12.23

先祖の故地を訪ねて

自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。

小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。

<大原川にかかる団子橋>

Dangobashi

森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。

一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。

<薬師稲荷にいた猫>

Inarinineko

江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。

そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。

<多治見の街中で>

Toukisho

西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。

可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。

そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。

<多治見で見かけた優しい表情の石仏>

Sekibutsu

森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。

しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。

多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。

そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。

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2007.12.10

徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)

桶狭間合戦における総大将今川義元の不慮の戦死、それによる今川勢の敗退は、「東海の覇者」といわれた今川義元を失っただけでなく、三河、遠江を支配下においた、駿河今川氏にとって権威を失墜させるという、大きなダメージとなった。

もとは尾張那古野城は、今川氏豊が守っていた。天文7年(1538)、これを織田信秀に奪われて、今川氏豊は追われて京に逃げ、今川は尾張における拠点を失った。以来、今川方は鳴海城主であった山口教継を寝返らせたり、山口教継の調略で大高城を手中に収めたりして、尾張に楔を打ち込み、知多半島の寺本の花井氏などの諸士を幕下に置くにいたる。

<大高城址>

Ootakajyou1

一方、織田信秀の死後あとを継いだ信長は、村木砦では自ら軍勢を率いて今川勢と戦い、今川の手に落ちた大高城の周りには鷲津、丸根の砦を築き、鳴海城は善照寺砦、中嶋砦で包囲した。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川家当主を子の氏真に譲った、今川義元自らが出陣し、鳴海、大高の囲みを解き、さらに清洲に攻め寄せ、尾張を攻略する目的で戦われたのであるが、あえなく今川義元自身が桶狭間で戦死するという事態となった。

<今川義元の墓碑である「駿公墓碣」>

Yoshimotokuyou1_2

その桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。下記は天文20年(1551)の知多半島の勢力図(「戦国知多年表」木原克之著所収)であるが、みられるように今川勢が三河方面(たとえば重原城)から資材を運んで、砦を築こうにも、刈谷・緒川水野氏の勢力圏を通ることなしに村木までたどり着けない。また村木は緒川の北に位置し、緒川水野氏の勢力圏である。

<天文20年(1551)の知多半島の勢力図>

Chizu

天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。                                                                                           

<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>

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もう一つ、動向がよく分からなかったのが、大高城にいた水野大膳亮忠守である。その父は和泉守忠氏といわれるが、忠氏という名乗りは、大高城址に程近く水野大膳がその父和泉守の位牌祈祷所として開創したという春江院に残る系図に「忠氏 大膳後和泉守大高城主 弘治二年辰三月廿日卒 号春江全芳」とある(『張州雑志』第一巻に記載)のみで、実際は「近守」が正しいという。その水野和泉守の子大膳亮忠守は、桶狭間合戦の前、永禄2年(1559)迄に大高城が今川方の手に落ちると、どこかへ退転した。それは緒川か刈谷であろうと思っていたが、ヘロン氏によると、水野大膳亮忠守は刈谷古城にいたのだそうである。この水野大膳亮忠守も、桶狭間合戦に登場していない。水野大膳亮忠守の子は大膳亮吉守で徳川家康に仕え三千三百石、吉守の子、大膳亮正長は織田信長、徳川家康と仕え、大高城に居城するも関が原合戦で負傷しなくなった。天正13年(1585)の『織田信雄分限帳』に「大高郷 水野大膳」とあるのは正長か。忠守のもう一人の子正勝は織田信長に仕えた。正勝の子は、宗勝で、織田信雄に仕えた後、徳川家康の家臣になっている。何れの系統も徳川将軍家直参となり、大高水野氏は旗本として残ることになるが、刈谷・緒川の水野氏と、桶狭間合戦で行動が分からないことやその後の動向までよく似ている。

<刈谷古城遠景>

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織田・今川の両雄に挟まれていたのは、松平も水野と同様であった。しかし、松平元康、のちの徳川家康は、石ヶ瀬合戦でも、桶狭間合戦でも、明確に今川方にたった。しかし、桶狭間合戦後は、明確に今川方を離れ、今川氏真の軍勢と戦っているのである。

その画期がいつかという点については、議論の分かれるところである。従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた。

しかしながら、今川氏真は義元の生前すでに家督を譲られており、氏真自身も桶狭間合戦後、功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、戦死した家臣の子には家督相続させ、所領の安堵状などを発給するとともに、寺社にたいしても旧来の特権を改めて安堵するなど、敗戦のショックによる動揺を抑え、領国経営を進める努力をしている。たとえば、岡部元信には鳴海城死守の戦功を賞し、旧領北矢部、三吉の地を返す判物を出しているし、戦死した松井宗信の子、宗恒には遠江国の所領を安堵している。少なくとも、今川家の威信が大きく低下したなかで、最後には縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。これは、今川氏真が後世言われるほど凡愚でなかった証明にもなるだろう。

一方、家康は大高城を永禄3年(1560)5月19日の合戦当日の夜引き払うと、一路岡崎に向かい、以下の『三河物語』の記述にあるように、大樹寺にいったん陣を張り、今川勢が岡崎城から出て行ったのを見計らって「捨城ならば拾わん」と、早々に岡崎城に入っている。非常に鮮やかであり、その時すでに今川からの自立を目論んでいたように思える。

「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

つまり、前回述べたように、岡崎入城自体、駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえてそうしたのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、この難局を乗り切るのは氏真では無理だろう、今川の呪縛からの脱出は今が好機との計算があったと思われる。そして、今川方の動向も見据えた上で、岡崎での独立を考えていたのだろう。

しかし、桶狭間合戦直後から今川から離反し、織田についたかといえば、そうではない。石ヶ瀬において、桶狭間合戦直後の永禄3年(1560)6月18日と永禄4年(1561)2月7日にも合戦が行われたが、いずれも徳川家康が水野信元を攻めている。また、『水野勝成覚書』によれば、永禄3年(1560)6月18日は家康が知立の重原城を攻めたとされている。この『水野勝成覚書』は寛永18年(1641)5月に書かれたもので、桶狭間合戦の79年も後のものであるから日付はもしかして正確でない可能性もあるが、石ヶ瀬合戦と重原城攻めは同時期に戦われたらしい。少なくとも永禄3年(1560)6月時点では、家康は今川方であり、その戦いも含め前後数回、松平対水野の戦いが行われていたようである。

<水野氏先祖を祀る乾坤院(東浦町)>

Kennkonhondo_2

岡崎に戻った家康は、旧家臣団の掌握に努め、義元の代に今川の領国にされていた碧海郡、加茂郡を確保するために積極的に動き出す。これは永禄3年(1560)中のことであり、それが今川氏真との対立を招くことになる。翌永禄4年(1561)1月には、両者の対立を収めようと将軍足利義輝が、いろいろと手を尽くしたほどである。したがって、松平元康、後の徳川家康が今川氏の呪縛から離れ、独立のための行動を起こしたのは、意外にはやく、永禄3年(1560)の6月以降年末までのどこかになる。そのことについては、また次回。

(付記)

豊川牛久保に、今川義元の胴塚と称されるものがある。それに関し、牛久保まで義元の家臣が遺骸を運んだが、追撃にあい、やむを得ず、大聖寺に手水鉢を目印に葬ったという伝承がある。そんなところまで織田軍が追撃してきたとは考えられないが、その伝承が気になる。実際、大聖寺に義元の遺骸を埋めたなら、単に新暦6月の暑くなる頃で腐敗が進行していたためと考えるのが最も妥当で、他に遺骸を運んだ家臣が土地の者であったとか、その家臣が疲労のためやむなく埋めたとか、いろいろ理由は考えられる。そこが本当に義元胴塚かは不明なるも、今川氏真が父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えたと言うところから、なまじ嘘でもなさそうである。
では、追撃(もしくはその風聞)があったとしたら、三河で今川家に敵対する勢力があったのか、これは桶狭間合戦直後の話として伝承されているものの、松平元康の永禄3年(1560)中の勢力拡大のための各地転戦で、東三河にまで矛先を向けたという伝承ではなかろうか。

<今川義元の胴塚:豊川市牛久保>

Yoshimoto_imagawa

参考サイト:∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

参考資料:『岡崎市史』   岡崎市

       『三河物語』  大久保彦左衛門  (徳間書店) ほか

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2007.12.06

西志津の戦車壕

明治初年、当時の陸軍はフランスから招聘したルボン砲兵大尉の指導のもと、佐倉藩の「火業所」を拡充し、砲兵の演習場とすることを計画、実施した。それは、射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場としたものである。このように、現在の千葉県佐倉市下志津原には1886年(明治19年)に開設された陸軍砲兵射的学校を中心に陸軍演習場(射的場とも呼ばれた)があって、南の四街道市(1897年:明治30年に陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称、移転)とあわせて砲兵のメッカであった。陸軍砲兵射的学校の跡地には、「日本砲兵揺籃の地」という藤江恵輔陸軍大将の立派な揮毫による石碑がある。これは戦争遺跡について書いた書物やHPでも取りあげられ、知るひとぞ知るものになっている。そのかげに隠れているが、下志津原を西にバス通りを進んだ西志津にも戦争遺跡がある。

<陸軍砲兵射的学校の碑>
Houheiyoyran_2


Kouyou
それは戦車壕の跡。ちょうど西志津小学校の裏手にある公園に、その跡が残っているが、以前はその付近一帯にあったらしい。小生、その場所がなかなか分らず、コンビニの店員さん、付近の主婦の方お二人と、近隣の人に聞きながらたどり着いた。その前に行った陸軍砲兵射的学校の碑についても、タクシーの運転手にテニスコートまでと言ったにも関わらず、離れた場所で下されたため、農作業をしていた農家の方に聞いて、なんとかたどり着いたのだが、それはともかく。
その壕とは、1mほどの高さに土盛され、その頂上から深さ2.5mほどの穴が掘られた長方形の壕であったらしいが、現存するものは穴はふさがれてしまい、ちょうど公園の築山のようになっている。その周辺は「芋窪」という地名で、その名の通り、芋がとれるような農地もあったのか分らないが、現在の西志津8丁目南端の台地上で開発前は山林だったという。しかし、その面影はなく、今では瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その公園も、「芋窪」の名を冠しているが、新興住宅地によくある公園にしか見えない。つい最近(2007年12月2日)、この地に来たが、楓の紅葉が美しかった。ここが、戦車壕のあった場所というのも、立札もなく、おそらく住民の方も知らないのではないか。

<戦車壕跡~北から見た>
Senshagoukita_2

<戦車壕跡~南から見た>
Senshagouminami_2

なお、その戦車壕を使った訓練は、千葉穴川の陸軍戦車学校(元は習志野にあったが移転、1940年には千葉陸軍戦車学校と改称)、あるいは習志野の戦車第二連隊(1933年に千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊が発展改組)が行っていたようである。その戦車第二連隊の母体と成った千葉陸軍歩兵学校はわずかに裏門跡の遺構と記念碑があるが、穴川の千葉陸軍戦車学校は遺構とて残っていない。習志野の戦車第二連隊は、元々騎兵第十四連隊が駐屯していた場所に、騎兵第十四連隊が出て行ってから入ったが、現在は日大生産工学部の敷地になっている。その戦車第二連隊の碑が、日大生産工学部にあり、許可を得て立ち入り、写真も撮らせてもらった。

<日大生産工学部正門>
Nichidai_2

<日大生産工学部にある戦車第二連隊の碑>
Senshahi_2

ちなみに、その碑文は以下。連隊の連の字が旧字体になっているが、原文のままとした。開設から終戦にいたる経緯が割合簡潔に書かれている。

「戦車第二聯隊の跡

 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
 河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
 戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

    昭和六十三年八月一日 戦車第二聯隊会 」

戦争遺跡をめぐって困るのは、それが書かれた文献などはあっても、場所を正確に分りやすく書いたものが少ないこと。最近では、タクシーの運転手もよく道を知らず、乗ってから「しまった」と思うこともしばしば。そういう場合は、地元に長年住んでいそうな農家の人や商店の人に聞くしかない。今回、佐倉市志津方面を訪ね、一部その内容は、「佐倉市の戦争遺跡2」に載せたが、結構色々な人に道を聞いたり、お寺では西南戦争の戦死者の墓の場所を教わったりした。皆、親切に教えていただき、大変お世話になった。そういう人たちが、このHPを見ているとも思えないが、改めて感謝申し上げる。

(上記は、小生の親戚である森兵男の「千葉県の戦争遺跡」(http://www.shimousa.net/ )より筆者の許可を得て転載)

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