徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)
桶狭間合戦における総大将今川義元の不慮の戦死、それによる今川勢の敗退は、「東海の覇者」といわれた今川義元を失っただけでなく、三河、遠江を支配下においた、駿河今川氏にとって権威を失墜させるという、大きなダメージとなった。
もとは尾張那古野城は、今川氏豊が守っていた。天文7年(1538)、これを織田信秀に奪われて、今川氏豊は追われて京に逃げ、今川は尾張における拠点を失った。以来、今川方は鳴海城主であった山口教継を寝返らせたり、山口教継の調略で大高城を手中に収めたりして、尾張に楔を打ち込み、知多半島の寺本の花井氏などの諸士を幕下に置くにいたる。
<大高城址>
一方、織田信秀の死後あとを継いだ信長は、村木砦では自ら軍勢を率いて今川勢と戦い、今川の手に落ちた大高城の周りには鷲津、丸根の砦を築き、鳴海城は善照寺砦、中嶋砦で包囲した。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川家当主を子の氏真に譲った、今川義元自らが出陣し、鳴海、大高の囲みを解き、さらに清洲に攻め寄せ、尾張を攻略する目的で戦われたのであるが、あえなく今川義元自身が桶狭間で戦死するという事態となった。
<今川義元の墓碑である「駿公墓碣」>
その桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。下記は天文20年(1551)の知多半島の勢力図(「戦国知多年表」木原克之著所収)であるが、みられるように今川勢が三河方面(たとえば重原城)から資材を運んで、砦を築こうにも、刈谷・緒川水野氏の勢力圏を通ることなしに村木までたどり着けない。また村木は緒川の北に位置し、緒川水野氏の勢力圏である。
<天文20年(1551)の知多半島の勢力図>
天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。
確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。
<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>
もう一つ、動向がよく分からなかったのが、大高城にいた水野大膳亮忠守である。その父は和泉守忠氏といわれるが、忠氏という名乗りは、大高城址に程近く水野大膳がその父和泉守の位牌祈祷所として開創したという春江院に残る系図に「忠氏 大膳後和泉守大高城主 弘治二年辰三月廿日卒 号春江全芳」とある(『張州雑志』第一巻に記載)のみで、実際は「近守」が正しいという。その水野和泉守の子大膳亮忠守は、桶狭間合戦の前、永禄2年(1559)迄に大高城が今川方の手に落ちると、どこかへ退転した。それは緒川か刈谷であろうと思っていたが、ヘロン氏によると、水野大膳亮忠守は刈谷古城にいたのだそうである。この水野大膳亮忠守も、桶狭間合戦に登場していない。水野大膳亮忠守の子は大膳亮吉守で徳川家康に仕え三千三百石、吉守の子、大膳亮正長は織田信長、徳川家康と仕え、大高城に居城するも関が原合戦で負傷しなくなった。天正13年(1585)の『織田信雄分限帳』に「大高郷 水野大膳」とあるのは正長か。忠守のもう一人の子正勝は織田信長に仕えた。正勝の子は、宗勝で、織田信雄に仕えた後、徳川家康の家臣になっている。何れの系統も徳川将軍家直参となり、大高水野氏は旗本として残ることになるが、刈谷・緒川の水野氏と、桶狭間合戦で行動が分からないことやその後の動向までよく似ている。
<刈谷古城遠景>
織田・今川の両雄に挟まれていたのは、松平も水野と同様であった。しかし、松平元康、のちの徳川家康は、石ヶ瀬合戦でも、桶狭間合戦でも、明確に今川方にたった。しかし、桶狭間合戦後は、明確に今川方を離れ、今川氏真の軍勢と戦っているのである。
その画期がいつかという点については、議論の分かれるところである。従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた。
しかしながら、今川氏真は義元の生前すでに家督を譲られており、氏真自身も桶狭間合戦後、功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、戦死した家臣の子には家督相続させ、所領の安堵状などを発給するとともに、寺社にたいしても旧来の特権を改めて安堵するなど、敗戦のショックによる動揺を抑え、領国経営を進める努力をしている。たとえば、岡部元信には鳴海城死守の戦功を賞し、旧領北矢部、三吉の地を返す判物を出しているし、戦死した松井宗信の子、宗恒には遠江国の所領を安堵している。少なくとも、今川家の威信が大きく低下したなかで、最後には縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。これは、今川氏真が後世言われるほど凡愚でなかった証明にもなるだろう。
一方、家康は大高城を永禄3年(1560)5月19日の合戦当日の夜引き払うと、一路岡崎に向かい、以下の『三河物語』の記述にあるように、大樹寺にいったん陣を張り、今川勢が岡崎城から出て行ったのを見計らって「捨城ならば拾わん」と、早々に岡崎城に入っている。非常に鮮やかであり、その時すでに今川からの自立を目論んでいたように思える。
「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」
つまり、前回述べたように、岡崎入城自体、駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえてそうしたのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、この難局を乗り切るのは氏真では無理だろう、今川の呪縛からの脱出は今が好機との計算があったと思われる。そして、今川方の動向も見据えた上で、岡崎での独立を考えていたのだろう。
しかし、桶狭間合戦直後から今川から離反し、織田についたかといえば、そうではない。石ヶ瀬において、桶狭間合戦直後の永禄3年(1560)6月18日と永禄4年(1561)2月7日にも合戦が行われたが、いずれも徳川家康が水野信元を攻めている。また、『水野勝成覚書』によれば、永禄3年(1560)6月18日は家康が知立の重原城を攻めたとされている。この『水野勝成覚書』は寛永18年(1641)5月に書かれたもので、桶狭間合戦の79年も後のものであるから日付はもしかして正確でない可能性もあるが、石ヶ瀬合戦と重原城攻めは同時期に戦われたらしい。少なくとも永禄3年(1560)6月時点では、家康は今川方であり、その戦いも含め前後数回、松平対水野の戦いが行われていたようである。
<水野氏先祖を祀る乾坤院(東浦町)>
岡崎に戻った家康は、旧家臣団の掌握に努め、義元の代に今川の領国にされていた碧海郡、加茂郡を確保するために積極的に動き出す。これは永禄3年(1560)中のことであり、それが今川氏真との対立を招くことになる。翌永禄4年(1561)1月には、両者の対立を収めようと将軍足利義輝が、いろいろと手を尽くしたほどである。したがって、松平元康、後の徳川家康が今川氏の呪縛から離れ、独立のための行動を起こしたのは、意外にはやく、永禄3年(1560)の6月以降年末までのどこかになる。そのことについては、また次回。
(付記)
豊川牛久保に、今川義元の胴塚と称されるものがある。それに関し、牛久保まで義元の家臣が遺骸を運んだが、追撃にあい、やむを得ず、大聖寺に手水鉢を目印に葬ったという伝承がある。そんなところまで織田軍が追撃してきたとは考えられないが、その伝承が気になる。実際、大聖寺に義元の遺骸を埋めたなら、単に新暦6月の暑くなる頃で腐敗が進行していたためと考えるのが最も妥当で、他に遺骸を運んだ家臣が土地の者であったとか、その家臣が疲労のためやむなく埋めたとか、いろいろ理由は考えられる。そこが本当に義元胴塚かは不明なるも、今川氏真が父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えたと言うところから、なまじ嘘でもなさそうである。
では、追撃(もしくはその風聞)があったとしたら、三河で今川家に敵対する勢力があったのか、これは桶狭間合戦直後の話として伝承されているものの、松平元康の永禄3年(1560)中の勢力拡大のための各地転戦で、東三河にまで矛先を向けたという伝承ではなかろうか。
<今川義元の胴塚:豊川市牛久保>
参考サイト:∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」
参考資料:『岡崎市史』 岡崎市
『三河物語』 大久保彦左衛門 (徳間書店) ほか
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