先祖の故地を訪ねて
自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。
小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。
<大原川にかかる団子橋>
森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。
一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。
<薬師稲荷にいた猫>
江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。
そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。
<多治見の街中で>
西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。
可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。
そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。
<多治見で見かけた優しい表情の石仏>
森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。
しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。
多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。
そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。
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